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英星王座戦 リアライメント・アーク  作者: 明丸 丹一
第4章 追憶仮想都市コロニー2020
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第4話 刻を進める

 病院の待合室から、咳が消えていた。


 コロニー2020、総合病院区画。


 八時五十一分。


 古い白い壁。少し硬い長椅子。番号札を握る母親。絵本を膝に置いた子ども。受付の奥では、看護師NPCが端末を確認している。


 空調は弱く、待合室には消毒液と湿った衣服の匂いが混じっていた。


 そこには、二〇二〇年代の病院があった。


 待つしかない時間。


 名前を呼ばれるまでの不安。


 熱のある子どもの額に手を当てる母親。


 自分の順番がまだ来ないことに苛立つ会社員。


 椅子の上で小さく丸まる老人。


 どれも、もう遠い過去のものだった。


 未来世界では、病気の多くは発症前に処理される。


 痛みは即座に鎮められる。


 感染症の拡大は起こる前に封じられる。


 待合室に人間を集める必要などない。


 だから、この病院は再現だった。


 保全された不便。


 展示された苦痛。


 白羽レイナは、その真ん中に立っていた。


 彼女の足元から、白い光が広がっている。


 光が触れた場所から、咳が消える。


 熱が下がる。


 痛みが引く。


 待ち時間が短くなる。


 古びた椅子は、身体に負担の少ない滑らかな素材へ変わる。壁の黄ばみは消え、空調は清潔になり、受付の番号表示は古い液晶から透明な医療案内パネルへ置き換わっていく。


 誰も苦しまなくていい。


 誰も待たなくていい。


 誰も、病気の子どもの額に手を当てて、朝まで眠れずにいる必要はない。


 レイナは、それを正しいと思っていた。


 間違いなく、正しいと思っていた。


 待合室の中央に、ひと組の母子がいた。


 子どもは六歳ほど。


 頬が赤く、呼吸が荒い。


 母親はマスクをしている。片手で診察券を握り、もう片方の手で子どもの背中を撫でていた。


 子どもが小さく言った。


「まだ?」


 母親は、疲れた目で笑った。


「もう少しだよ」


 嘘だった。


 番号はまだ遠い。


 受付は混んでいる。


 医師は足りていない。


 この時代の医療は、そういうものだった。


 レイナは、その嘘を見ていられなかった。


「もういい」


 彼女は、母親の前に立った。


 本来なら、母子にはレイナが見えない。


 外部侵入者は、保全対象の生活に直接触れてはいけない。


 だが、今のレイナはもう観光客ではなかった。


 右目には、赤い冠星紋クラウンが灯っている。


 覇王ユーサーパー


 進歩のために、過去を奪う者。


「もう、そんな嘘をつかなくていい」


 母親がレイナを見た。


 見えてしまった。


 子どもも、ぼんやりと顔を上げる。


「おねえさん、だれ」


未来人アルファ


 レイナは言った。


「あなたたちが、届くはずだった未来」


 その背後で、病院の天井が白金に割れていた。


 巨大な光輪。


 白金の腕。


 二本の金色の剣。


 剣の柄が合わさり、弓になる。


 アウレリア。


 守護女神。


 かつて別の宇宙では、空中都市を残すために内側へ矢を向けた女神。


 今は、レイナの進歩に応じて、古い苦痛へ弓を向けている。


 アウレリアが矢をつがえる。


 金色の光が、病院全体へ満ちる。


 母親が子どもを抱きしめた。


 恐怖ではない。


 直感だった。


 この光は、悪いものではない。


 子どもの熱を下げる。


 痛みを消す。


 待つ時間を終わらせる。


 苦しみを取り除く。


 だからこそ、怖かった。


 レイナは手を上げた。


「アウレリア。射抜いて」


 金色の矢が放たれた。


 病室、受付、待合室、廊下、薬局、診察室。


 すべての苦痛設定が、光に射抜かれていく。


 熱が消える。


 咳が消える。


 老いの痛みが消える。


 待合室の苛立ちが消える。


 医師の疲労が消える。


 看護師の忙しさが消える。


 病院は、未来的な白い医療施設へ塗り替えられていく。


 子どもが目を開けた。


「苦しくない」


 母親は、震える手で子どもの額に触れた。


 熱は下がっていた。


 涙が出る。


「よかった」


 その声を聞いて、レイナは少しだけ表情を緩めた。


 よかった。


 これでいい。


 苦しみは消えた。


 けれど、次の瞬間。


 母親の目から、何かが抜け落ちた。


「……あれ」


 彼女は、子どもを抱いたまま首を傾げた。


「私、どうして泣いてるんだっけ」


 子どもが母親を見る。


「お母さん?」


「ごめんね。なんでだろう」


 母親は笑おうとした。


 だが、うまく笑えていなかった。


 夜中に何度も熱を測った記憶。


 眠れないまま朝を迎えた記憶。


 子どもに不安を見せないよう、明るく話しかけた記憶。


 濡れたタオルを替えた記憶。


 診察券を握りしめながら、早く呼ばれてくれと祈った記憶。


 それらが、苦痛設定として一括削除されかけていた。


 痛みだけではなかった。


 痛みの中で誰かを支えた時間まで、消えかけていた。


 レイナは、それに気づいた。


 気づいたが、矢を止めなかった。


「大丈夫」


 彼女は、自分に言うように言った。


「苦しみが消えるなら、その記憶もいらない」


 その声を、廊下の奥で聞いた者がいた。


 真壁有人だった。


 彼は、管理者用接続路から病院区画へ出たばかりだった。


 左目には青い冠星紋。


 隣には、黒金の女王蜂ケーニギン。


 彼らの背後では、眷属蜂けんぞくばちが細かく飛び、白い光に焼かれた人格ログを拾い集めていた。


 有人は、母親NPCを見た。


 子どもを抱いている。


 子どもの熱は下がった。


 それはいいことだ。


 間違いなく、いいことだ。


 だが、母親の中から、看病した時間が抜け落ちている。


 有人は低く言った。


「止めろ」


 レイナが振り返る。


 右目の赤い冠星紋が光る。


「管理者ね」


「その記憶は消すな」


「苦痛の記憶よ」


「違う」


「違わない。夜通し眠れなかった不安。子どもが苦しむのを見る恐怖。病院で待たされる憤り。全部、古い時代の欠陥」


「それだけじゃない」


 有人は、母親のそばへ歩く。


 母親は、まだ混乱していた。


 子どもはもう苦しくなさそうにしている。


 それだけを見れば、レイナは救った。


 だが、有人の端末には赤い警告が出続けている。


 母子ログ、連続性損傷。


 看護記憶、消失率四十一パーセント。


 感情履歴、断裂。


 有人は、端末を握った。


「この人は、苦しみの中で、子どもの手を握っていた」


「握らなくて済む方がいい」


「それはそうだ」


 有人は即答した。


 レイナが、一瞬だけ黙る。


 有人は続けた。


「病気はない方がいい。待ち時間も短い方がいい。不安も少ない方がいい。そんなのは当たり前だ」


「なら、なぜ止めるの」


「痛みだけが記憶じゃないからだ」


 レイナの背後で、アウレリアの光輪が強くなる。


 有人の言葉を否定するように、金色の矢がさらに集まった。


 ケーニギンが前に出る。


 眷属蜂が、待合室の椅子、受付番号機、問診票、母子手帳ログ、古い体温計データへ潜り込む。


 黒金の蜂たちは、白く焼かれかけた記憶の断片を一つずつ拾っていった。


 夜中の体温。


 母親の手。


 子どもの寝息。


 朝方にようやく飲んだ水。


 診察券を探した小さな混乱。


 それらを、蜂が蜜のように集めていく。


 レイナは眉をひそめた。


「そんなものまで残すの?」


「残す」


「不便も?」


「それが人類の歩みなら」


「なら、痛みは?」


「減らす」


「中途半端」


「生活は、だいたい中途半端だ」


 レイナの目が冷たくなる。


「だから人類は進歩したのよ」


 彼女の背後で、アウレリアが弓を完全に引いた。


 病院区画全体が白く照らされる。


 ケーニギンの眷属蜂が、一斉に羽音を強めた。


 有人は息を呑む。


 アウレリアは強い。


 駅で一瞬見ただけでも分かった。


 零刃のように一点を斬るのではない。


 ケーニギンのように面を守るのでもない。


 アウレリアは、未来そのものを射抜く。


 被害が最小になる道筋を選び、その先へ光を通す。


 病院の苦痛を消すためなら、どの記憶を犠牲にすればよいかを一瞬で見つける。


 それは、ひどく合理的だった。


 ひどく美しかった。


 そして、怖かった。


「ケーニギン」


「防ぎます」


 黒金の蜂群が、待合室全体へ広がった。


 受付の奥。


 椅子の裏。


 窓枠。


 診察室の扉。


 自動血圧計。


 母親のバッグの中の母子手帳。


 子どもの絵本。


 すべてに蜂が止まる。


 病院が、黒金の巣へ変わりかける。


 有人は思わず言った。


「病院を巣にするな」


「では、防衛網と呼びます」


「言い換えればいい話じゃない」


「今は言い換えで十分です」


 アウレリアの矢が放たれた。


 白金の光が、待合室を斜めに貫く。


 眷属蜂が焼ける。


 床に落ちる。


 黒金の羽が、白い光の中でほどけていく。


 だが、次の蜂が湧く。


 その蜂も焼ける。


 さらに次が湧く。


 面で守るケーニギンと、未来を射抜くアウレリア。


 アウレリアの矢は、蜂の群れを正確に貫いていく。それでも、ケーニギンは次の蜂を送り込む。読まれても、読み切れないほど数を重ねる。


 白金と黒金が、病院の空気を裂いた。


 拮抗が破れる。


 一瞬の隙を突いて、ケーニギンは動いた。


 翅を鳴らし、白い光の隙間を縫ってレイナへ向かう。


 しかし、アウレリアの矢は読んでいた。


 ケーニギンが近づく経路。


 眷属蜂が作る防御の厚い場所。


 逆に薄くなる場所。


 そのすべてを、アウレリアは先に見ている。


 金色の矢が、ケーニギンの進路を塞いだ。


 ケーニギンは空中で身をひねる。


 翅が焼かれる。


 眷属蜂が彼女の身体を支え、落下を防いだ。


 レイナは冷たく言った。


「女王蜂。あなたの巣も古い」


 ケーニギンは、床に降り立った。


 翅の端が白く焦げている。


「巣は古いものです」


 彼女は静かに答えた。


「だから冬を越えます」


 再び羽音。


 今度は、ケーニギン自身が前に出ない。


 眷属蜂が、病院中から記録を運ぶ。


 古い診察券。


 母子手帳。


 薬袋。


 子どもが貼られたシール。


 待合室の絵本。


 夜間救急の受付ログ。


 小児科医の疲労ログ。


 母親NPCの看病記録。


 それらが、黒金の小さな光として有人の周囲に集まった。


 有人は直感した。


 これは盾ではない。


 証拠だ。


 消してはいけない痛みではない。


 痛みの中で生まれた関係の証拠。


 有人は叫んだ。


「レイナ!」


 彼女は、弓を引くアウレリアの下でこちらを見る。


「これを見ろ」


 黒金の蜂が、母子手帳の記録を開く。


 古い字。


 出生体重。


 予防接種。


 熱を出した日。


 初めて歩いた日。


 小さな手形。


 その中に、夜中に母親が入力した短いメモがある。


 早くよくなりますように。


 ただ、それだけだった。


 レイナの目が止まる。


 有人は言った。


「苦しみを残したいんじゃない」


 蜂が、別の記録を開く。


 小児科医の疲労ログ。


 看護師の交代記録。


 診察を待つ母親たちの、古い会話。


 大丈夫ですか。


 うちも昨日からです。


 先に座ってください。


 そういう、取るに足りない言葉。


「この人たちは、苦しみの中で誰かを支えた」


 レイナの指が、わずかに震える。


 アウレリアの弓も、ほんの一瞬だけ揺らいだ。


「その記憶を、残すんだ。その記憶を消すべきじゃない」


 その一瞬で、ケーニギンが跳んだ。


 今度は、アウレリアの射線の外からではない。


 レイナの迷いを突いた。


 眷属蜂が、白い光の中で道を作る。


 焼けながら。


 落ちながら。


 それでも、一瞬の空白を作る。


 ケーニギンの身体が、白金の矢の間をすり抜けた。


 レイナが気づく。


 遅い。


 黒金の脚が、彼女の胸へ向かう。


 踵の流れの中に、針が隠れている。


「――王針蹴撃ロイヤル・スティング


 アウレリアが矢を返そうとした。


 しかし、彼女もまだ迷いの中にあった。


 レイナの胸部アバターに、黒金の蹴撃が入る。


 音は小さかった。


 だが、赤い冠星紋が大きく揺れた。


 レイナの右目の赤い十字星の周囲に、黒金の針紋が刻まれていく。


 彼女は一歩下がった。


 倒れはしない。


 アウレリアの光が、彼女を支えている。


 だが、王針印は消えない。


 ケーニギンは、レイナの前に静かに降りた。


「警告します」


 その声は、病院の白い壁に低く響いた。


「二度目はありません」


 レイナは、自分の右目に触れた。


「これは……毒?」


「印です」


「首輪ね」


「警告です」


「管理者の英星らしい」


 ケーニギンは、何も言わない。


 レイナは有人を見た。


「あなたは、痛みを保存する」


「違う」


「違わない。苦しみの中に愛があったから、苦しみごと残すと言っている」


「病気は減らす。治せるものは治す」


「なら、私と同じじゃない」


「違う。記憶を消させはしない」


 有人は、母子を見た。


 子どもはもう苦しくない。


 母親は、記憶の一部を取り戻し始めている。


 看病した夜を思い出し、子どもを強く抱きしめている。


「君は、苦痛を消すために、その中で生きた時間まで消そうとした」


「古い人類は、そうやって痛みに意味をつける」


「意味をつけたんじゃない」


 有人は言った。


「過去の人類は、そうやって生きていたんだ」


 レイナは、何も言わなかった。


 アウレリアの背後で、白金の光輪が静かに回る。


 有人は端末を開いた。


 懐古王座ノスタルジア・スローンの病院区画に、管理者権限で新しい項目を追加する。


 完全再現モード。


 未来更新モード。


 混合補助モード。


 コロニー2020の病院は、二〇二〇年代の不便をそのまま見せるだけではなくなる。


 苦痛を学ぶための再現。


 苦痛を減らすための更新。


 その両方を選べる区画へ変える。


 管理AIが警告を出す。


 歴史再現精度が低下します。


 観光資産としての整合性が損なわれます。


 有人は無視した。


「病気を残すために、この世界があるわけじゃない」


 彼は、レイナに言った。


「でも、苦しんだ人たちの時間を、未熟エラーとして消すためにあるわけでもない」


 レイナは、白い改装途中の病院を見た。


 古い待合室。


 未来的な医療施設。


 その二つが、奇妙に重なっている。


 美しくはない。


 効率的でもない。


 だが、選択肢は増えていた。


「中途半端ね」


「そうだな」


「美しくない」


「病院だからな」


「進歩が遅い」


「急にやると、消えるものがある」


 レイナは、母親NPCを見た。


 母親は子どもの額に触れ、泣きながら笑っている。


 子どもは元気になっている。


 痛みは減った。


 記憶は残った。


 それは、レイナが本当に欲しかった未来とは違う。


 もっと清潔で、もっと迷いがなく、もっと完全な未来があるはずだった。


 けれど、今この場で、子どもは救われている。


 母親も、空白にならずに済んでいる。


 アウレリアの弓が、少しだけ下がった。


 完全にではない。


 レイナの赤い冠星紋は、まだ消えていない。


 彼女は、まだ覇王だった。


「管理者」


「何だ」


「私は、あなたの遅さを許さない」


「許してくれなくていい」


「また来る」


「分かってる」


「次は、もっと広い区画を更新する」


「その前に、僕も考える」


「考えている間に、人は苦しむ」


 有人は答えられなかった。


 その通りだったからだ。


 レイナは、右目の王針印に触れた。


「この印、消せないのね」


 ケーニギンが答える。


「二度目までは」


「嫌な女王蜂ハチ


「よく言われます」


 レイナは少しだけ笑った。


 いや、笑ったというより、息を漏らしただけだった。


 アウレリアの白金の光が、彼女を包む。


 去り際、レイナは母子をもう一度見た。


「苦しまなくて済む世界を、いつか作る」


 有人は言った。


「その時は、記憶の扱いを間違えるな」


「あなたこそ、それに甘えるな」


 白い光が消える。


 レイナとアウレリアは、病院区画から撤退した。


 待合室に、音が戻る。


 受付番号を呼ぶ声。


 子どもの笑い声。


 誰かの咳。


 それから、未来更新の案内音。


 古い病院と、新しい医療が、ぎこちなく同じ場所に並んでいた。


 ケーニギンの眷属蜂が、焦げた羽を再生させている。


 有人は、それを見て言った。


「大丈夫か」


 ケーニギンは、少しだけ翅を動かした。


「損耗は軽微です」


「かなり焼かれてたけど」


「女神の矢は、強力です。本来なら私とはスケールが違う。正面から受け続けるべきではありません」


「つまり、強かった」


「はい」


 ケーニギンは、病院の天井を見た。


 まだ、アウレリアの光の残滓が薄く残っている。


「ですが、覇王が迷いました」


「レイナが?」


「はい。だから刺せました」


 有人は、母子の方を見る。


 母親は子どもを抱きしめている。


 子どもは少し疲れていたが、もう熱はない。


 母親の記憶も、完全ではないが戻っている。


 有人は息を吐いた。


「勝った気はしないな」


「勝利ではありません」


 ケーニギンが言った。


「二人目の覇王へ、王針印を刻んだだけです」


「それでも、レイナは止めた」


「警告です」


「それでも」


 有人は、端末に表示された新しい病院区画の設定を見た。


 完全再現。


 未来更新。


 混合補助。


 どれも暫定。


 どれも不完全。


 けれど、さっきよりはましだった。


 ケーニギンは、焦げた眷属蜂を一匹、指先に止まらせた。


 羽は半分ほど焼けている。それでも、蜂は小さく腹を震わせていた。黒金の腹部から、わずかな蜜がにじむ。


「管理者」


「何だ」


「私の薬蜜みつをこのコロニーに流通させましょう」


 有人は顔を上げた。


「薬蜜?」


「眷属蜂が記憶ログから集めた蜜です。痛みの記録、看病の記録、祈りの記録。そこに、今の未来更新モードの医療補助を混ぜます。医療レベルは維持したまま、助かる子が増えるかもしれません」


「それ、つまり薬なのか」


「薬ではありますが、この未来医療アルファと比較すれば完璧ではありません」


「じゃあ何だ」


「願いです」


 ケーニギンは、病院の待合室を見渡した。


 古い椅子。


 新しい医療案内パネル。


 問診票。


 母子手帳。


 受付番号。


 古い不便と、新しい補助が、ぎこちなく同じ場所に並んでいる。


「正式な医療制度に組み込めば、王座が管理します。観光資産として整えれば、懐古の展示物になります。レイナに見つかれば、古い苦痛の保存だと判断されるでしょう」


「だから裏で流すのか」


「はい。ネットワ-クの裏側で、少しずつ」


「勝手にやるなよ」


「許可を求めています」


「今の言い方、ほぼ決定事項みたいだったぞ」


「必要だと思いましたので」


 有人は眉間を押さえた。


「効くのか」


「確実ではありません」


「それを流通させるのはまずいだろ」


「ですから、飲めば必ず治るものではない。使えば必ず救われるものでもない。ただ、信じた者だけは救われるかもしれない」


 有人は黙った。


 白い病院の中で、誰かが咳をした。


 未来更新モードの案内音が鳴る。


 そのすぐ隣で、母親NPCが子どもの額に手を当てている。もう熱はない。それでも、確かめずにはいられないのだろう。


 ケーニギンは続けた。


「人は、正確な薬だけで生きているわけではありません。熱が下がるまで握っていた手。効くかどうか分からない祈り。お守りのように持っていた古い診察券。そういうものが、誰かを朝まで保たせることがあります」


「それは治療じゃない」


「はい」


「医療でもない」


「はい」


「でも、救いではあるかもしれない」


「そうですね」


「民間療法の類として処理させよう」


 ケーニギンは、珍しく表情を明るくした。


 有人は、端末を見た。


 管理AIの警告が出ている。


 未承認補助物質の流通は、歴史再現精度および医療倫理設定に影響を及ぼす可能性があります。


 有人は、しばらくその警告を見ていた。


 それから、通知を閉じた。


「表には出すな」


「承知しました」


「病気を治すと嘘はつくな」


「はい」


「必要な治療の邪魔になるようなら、僕が止める」


「その時は従います」


「本当か?」


「その時までは」


「最悪の返事だな」


 ケーニギンは、ほんの少しだけ目を伏せた。


「女王蜂は、蜜を隠します。冬を越すために」


 その言葉は静かだった。


 有人は、怒るべきか迷った。


 薬蜜など、危ういに決まっている。


 信じた者だけが救われるかもしれないなど、救済と欺瞞の境目にある言葉だ。


 レイナが聞けば、古い人類の弱さだと切り捨てるだろう。


 カイが聞けば、そんなものにすがらせるなと怒るかもしれない。


 それでも。


 病院の待合室にいる母親が、子どもの手を握っている。


 その手の中に、薬ではない何かが必要な夜もある。


「分かった」


 有人は言った。


「ただし、これは医療じゃない。制度でもない。救いを名乗るな」


「では、何と」


「願いだ」


 ケーニギンは、焼けた眷属蜂をそっと放した。


 蜂は低く飛び、受付の奥へ消えていく。


「はい。信じた者だけは救われるかもしれない、願いとして」


 有人は、何も言わなかった。


 それを認めたことが正しいのかは、分からない。


 ただ、完全な再現でも、完全な進歩でも救えないものがある。


 その隙間に、黒金の蜂が蜜を運んでいく。


 ケーニギンが問う。


「次は」


 端末に、別の警告が浮かぶ。


 戦争記録区画。


 爆撃データ抹消、進行中。


 五柱反応、拡大。


 有人は目を閉じた。


 レイナは苦痛を消そうとした。


 次の相手は、おそらく死を再演することそのものを許さない。


 どちらも正しい。


 どちらも危険だ。


 有人は、病院の出口へ歩き出した。


「戦争記録区画へ行く」


 ケーニギンが隣に並ぶ。


「三人目の覇王です」


「分かってる」


 ケーニギンは、ほんのわずかに黙った。


「面倒な管理者ですね」


 病院の外では、コロニー2020の空に、まだ赤い星が三つ強く瞬いていた。


 真央はとレイナの冠星紋クラウンには黒金の王針印けいこくが刻まれている。


 だが、戦争記録区画、ネットワーク海岸、市役所区画。


 残り三つの赤い星は、まだ王座を深く侵していた。


 有人は歩いた。


 痛みを消すことが、いつも救いとは限らない。


 だが、痛みを残すことが、正義であるはずもない。


 その中途半端な答えと、信じた者だけが救われるかもしれない願いを抱えたまま、彼は次の戦場へ向かった。

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『英星王座戦 リアライメント・アーク』は、守る者と奪う者が、滅びかけた世界の次の秩序を賭けて戦うSFヒーロー連作です。

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