第4話 捨てない側
外殻下層へ降りた瞬間、空気が変わった。
熱い。
油と鉄と、焦げた樹脂の匂いがする。
床の下で何か巨大なものが唸っていた。大気循環用の補助炉だ。外縁区の人間なら誰でも知っている。機嫌が悪い時は、床そのものが怒っているみたいに震える。
カイは最後の避難民を足場から引き上げた。
老人だった。
足が悪いらしく、うまく立てない。カイが肩を貸そうとすると、横から零刃が手を伸ばした。
「右膝の保持力が低い。右側から支えろ」
「いちいち細かいな」
「転倒すれば骨折する」
「分かったよ」
カイは言われた通りに支えた。
老人はぜえぜえ息をしながら、カイの顔を見た。
「あんたが、反逆者ってやつか」
「もっといい呼び方ないのかよ」
「じゃあ仮の反逆者さん、助かったよ」
「むしろ悪化してるだろ」
老人が少し笑った。
カイもつられて笑いかけたが、すぐに上を見た。
遠くで、金色の光がまた空を染めている。
アウレリアはまだ外縁第七区の上にいる。
女神は、次の矢を準備している。
王座の放送が下層にも響いた。
「隔離焼却シークエンス、第二段階を継続。外縁第七区残留者は、指定区域にて待機してください。追悼記録の付与は保証されます」
「保証すんな」
カイは吐き捨てた。
横で白い制服の保安局員が、端末を必死に叩いている。
さっきまでカイを反逆対象と呼んでいた男だ。
ユアン・クルス。
継承保安局、外縁第七区担当官。
「追悼記録が発行されたということは、王座はこの区画の生存者回収をもう諦めています」
「諦めんなって連絡しろ」
「しています。返答はありません」
「通じるまでしろ!」
「しています!」
ユアンも、さすがに声を荒げた。
その顔を見て、カイは少しだけ黙った。
この男も、上からの命令で動いているだけだ。
でも、今は住民を逃がそうとしている。
敵なのか味方なのか、分からない。
そういうやつが、この都市には多すぎる。
王座は人を管理する。
保安局は人を選別する。
けれど、その保安局員が今、煤だらけになって子どもを抱えている。
分かりやすい悪人が一人でもいれば、どれだけ楽だっただろう。
「ユアン。次の避難先は」
ユアンは一瞬だけ目を丸くした。
カイが指示を仰いだことに驚いたらしい。
だが、すぐに端末を確認する。
「外殻下層の輸送ベルトが使えます。水処理ブロックを抜ければ、旧貨物リフトに出られる。そこから職能区側の避難路へ接続可能です」
「何人運べる」
「本来は物資用です。人を乗せるのは非推奨です」
「今それ言う?」
ミラが壁際でつぶやいた。
顔色は悪いが、まだ意識はある。
呼吸補助端末のランプは黄色。安全ではない。けれど、赤ではない。
ユアンは咳払いした。
「訂正します。危険ですが、他に経路はありません」
「それでいい」
カイは振り返る。
避難民たちは、不安そうにこちらを見ていた。
老人。
子ども。
作業員。
担架の患者。
みんな、何を信じればいいのか分からない顔をしている。
女神に射られた。
王座に待機を命じられた。
保安局員に逃げろと言われた。
そして今、反逆者扱いの修理工見習いに先導されている。
ひどい話だ。
カイなら絶対に信用しない。
それでも、言うしかなかった。
「聞け!」
声が少し裏返った。
カイは咳払いして、もう一度叫ぶ。
「俺は偉いやつじゃない。いま何が起きてるかも、正直まだ分かってねえ。でも、この道は知ってる。水処理ブロックまでなら案内できる」
誰も動かない。
子どもが母親の服を握っている。
カイは続けた。
「アウレリア様は、たぶんまた撃つ。王座も止めない。だからここにいたら死ぬ」
ざわめきが広がった。
言い方を間違えたかもしれない。
でも、嘘を言うよりはましだ。
「逃げるぞ。歩けるやつは歩け。歩けないやつは担ぐ。工具を持てるやつは持て。途中の扉と隔壁は俺が見る。落ちそうなやつは零が拾う。文句は後でそこのユアンに言ってくれ」
少しだけ沈黙があった。
それから、作業着の女が言った。
「命令?」
「お願いだよ」
「反逆者なのに?」
「仮だからな」
女は鼻で笑った。
「じゃあ手伝ってやるよ、仮反逆者」
空気が少しだけ動いた。
避難民たちが立ち上がる。
ユアンが即座に隊列を組み直す。
「歩行可能者は前方。患者と高齢者は中央。子どもは壁側を歩いてください。転落防止のため、手すり側に寄らないで」
慣れている。
やっぱり保安局員だ。
人を管理するのはうまい。
カイはその手際を見て、嫌な気分になった。
ミラの歌う時間を測る手つきと、人を安全に逃がす手つきが、同じところから来ている。
この都市は、人を助けるために人を測る。
そして、測った結果として人を捨てる。
零刃は列の最後尾に立った。
ミラを支えながら、後ろを警戒している。
「カイ・レダ」
「なんだよ」
「悪くない」
「何が」
「いまの判断だ」
カイは少しだけ言葉に詰まった。
褒められたのか。
いや、たぶん違う。
零刃の声は、褒める時も検査結果みたいだ。
「俺はただ、見捨てたくなかっただけだ」
「最初はそれでいい」
「またそれかよ」
「次が来る」
零刃は上を見た。
外殻の向こうで、金色が濃くなる。
次が来る。
女神の矢か。
王座の命令か。
それとも、自分が何かを選ばなければならない瞬間か。
考える暇はなかった。
水処理ブロックへ続く隔壁が、重い音を立てて閉じ始めた。
「おい、あれ閉まるぞ!」
カイが走る。
ユアンが端末を叩く。
「王座が外縁第七区を分離しています! 区画ごと切り離すつもりです!」
「切り離すってなんだよ!」
「この下層ブロックを都市本体から隔離するということです!」
つまり、落とす。
外縁第七区の一部を、空中都市アステラードから切り捨てる。
雲海へ。
毒の雲と、旧地表の残骸へ。
カイの右目が熱くなった。
赤い十字星が、視界の端でかすかに灯る。
「ふざけんな」
世界が、また小さく軋んだ。
零刃が反応する。
「覇王。命令を」
「命令って言われても、俺は」
「壊すのか。捨てるのか。選べ」
選べ。
その言葉が、やけに重かった。
カイは隔壁を見る。
古い型だ。
水処理ブロック用の耐圧区画。緊急遮断が入ると、外からは開かない。電源線を切るだけではだめだ。物理ロックが三つある。
しかも、いまはソフト側も王座のパージ手順に握られている。
スパナ一本でどうにかなる相手ではない。
スパナで殴って、気合でこじ開けて、奇跡が起きて全員助かる。
そんな都合のいい現場はない。
機械は、壊れ方を知らなければ直せない。
壊す時でさえ、どこを壊してはいけないか知らなければ、全部落ちる。
カイは息を吸った。
「ユアン、保安局端末をコンソールに繋げ! 王座命令は止められなくても、現場ログは見えるはずだ!」
「命令停止はできませんよ!」
「止めなくていい。何がいつ動くか分かれば十分!」
カイは隔壁脇の保守端末を開けた。
腰のスパナでカバーをこじる。
焦げた端子を引き出す。
指先が熱い。
爪の間に煤が入る。
王座の青い警告が何度も出る。
権限不足。
接続拒否。
通信遅延。
それでも、外縁区の現場端末は古い。
古いから、完全には閉じていない。
ユアンの端末を横から噛ませると、画面の隅に簡易図面が開いた。
隔壁の物理ロック。
外殻連結ラッチ。
排熱ルート。
補助炉の熱流。
切り離しシークエンスの残り時間。
三十八秒。
「零、切ってくれ」
「どこをだ」
「区画全体を斜めに熱をかけて切断する。区画はスライドしながら落ちるが、途中で熱で圧着するはずだ」
「切断と接続を同時に行うのか」
「外縁区の修理はだいたいそうだ。壊れてるもんを、壊れたまま動かす」
カイは画面を指でなぞった。
「王座はここを捨てるために、ラッチを順番に外してる。でも三番ラッチだけ熱で噛んでる。ここを完全に壊すな。被覆を削って、排熱を通す。溶かして固める」
「溶着か」
「仮だ。三分持てばいい」
「理解した」
「作業員! 冷却パイプを一本持ってこい! ユアン、排熱弁の制御を十秒だけ手動にしろ!」
「そんな手順はありません!」
「だから手動なんだよ!」
作業員たちが走る。
ユアンが端末をつなぐ。
カイはスパナを制御盤に叩き込んだ。
火花が散る。
指がしびれる。
それでも止まらない。
パージのために隔壁が迫る。
この扉が閉じれば、ここにいる全員が下層ごと落とされる。
扉だけを切っても、全員は助からない。
「――刀」
零刃の蒼い光刃が伸び、区画全体に滑り込む。もちろん、人は避けて。
薄皮を剥ぐように、焦げた絶縁材だけが裂ける。
カイはそこに冷却パイプを噛ませ、排熱弁を一瞬だけ逆流させた。
熱が走る。
金属が赤くなる。
切れかけていたラッチが、溶けて、噛んだ。
隔壁が、カイの鼻先で止まった。
「止まった!」
誰かが叫んだ。
区画が半分に分かたれ、人が通るスペースができた。
だが、隙間は狭い。
人ひとりがやっと通れる程度。
「全員、順番に抜けろ!」
カイが叫ぶ。
避難民たちが次々に隙間を抜けていく。
零刃は人の重心を読み、足を引っかけそうな老人を支え、担架の角度を変え、子どもを滑り込ませる。
ユアンは人数を数えていた。
「十四、十五、十六……全員通過!」
「ミラは!」
「ここ」
ミラは零刃に支えられて、最後に隙間を抜けた。
カイは息を吐く。
その瞬間、区画が再び落ち出した。
「カイ!」
ミラが叫ぶ。
カイはまだ向こう側にいた。
隔壁の隙間が狭くなる。
抜けられない。
一瞬で零刃の腕が伸びた。
カイの襟をつかむ。
「転倒リスク、最大」
「今それ言うか!」
零刃はカイを引き抜いた。
次の瞬間、区画は崩壊した。
向こう側で、外殻ブロックの接続が外れる音がした。
遠くで、何かが落ちていく。
毒の雲へ。
旧地表へ。
カイは床に転がったまま、荒く息をした。
助かった。
ここにいる人間は。
だが、外縁第七区の別のどこかでは、いま同じことが起きている。
隔壁が閉まり、ブロックが落とされている。
待機を命じられた誰かが、追悼記録に変えられている。
カイは拳を握った。
「零」
「何だ」
「俺、王座を奪うとか、まだよく分かんねえ」
「そうだろうな」
「でも、これだけは分かる」
カイは閉じた隔壁をにらんだ。
「外縁第七区を丸ごと捨てさせない」
零刃は何も言わなかった。
ただ、発光する目が、カイの右目を見た。
赤い十字星は、まだかすかに灯っていた。
「記録した」
「何を」
「覇王としての最初の方針だ」
「勝手に記録すんな」
「必要だ」
ユアンが近づいてきた。
白い制服は煤で汚れ、片袖が破れている。
彼は端末を見て、それからカイを見た。
「カイ・レダ」
「また反逆対象か?」
「いいえ」
ユアンは、少しだけ迷ってから言った。
「一時避難協力者として、記録します」
カイは眉をひそめた。
「なんだそれ」
「保安局の規定上、私があなたに言える最大限の感謝です」
「分かりにくいな」
「すみません」
ミラが笑った。
苦しそうに、それでもちゃんと笑った。
「カイ、よかったね。公式にちょっとだけ味方」
「ちょっとだけかよ」
「反逆対象よりは前進だよ」
避難民たちも、少しだけ笑った。
その笑いは小さい。
疲れていて、怖がっていて、先のことなんて何も分からない笑いだった。
それでも、笑いだった。
カイは立ち上がる。
閉じた隔壁の向こうでは、外縁第七区の一部がもう落ちている。
頭上では、女神がまだ弓を構えている。
王座の声が響く。
「隔離焼却シークエンス、第三段階へ移行」
ユアンの顔色が変わった。
「第三段階は、外縁第七区全域の熱処理です」
「つまり?」
「残っている区画を、まとめて焼きます」
カイはスパナを腰に差し直し、端末を握った。
零刃の蒼い光刃が、静かに伸びる。
ミラが壁にもたれながら、カイを見ている。
カイは息を吐いた。
「行くぞ」
「どこへですか」
ユアンが聞く。
カイは、閉じた隔壁ではなく、その先にあるはずの都市中枢を見た。
「女神に都市を焼かせない」
零刃が言う。
「具体性がない」
「これから考える」
「遅い」
「うるせえ。仮反逆者なんだろ、俺は」
カイは走り出した。
背後で、誰かが言った。
「仮じゃなくても、ついていくよ」
ミラの声が聞こえた。
外縁区の空は、まだ金色に燃えている。
その下を、カイは走った。
まだ誰も、捨てさせない側でいるために。




