第2話 王座戦《リアライメント・アーク》
女神の矢が割れた。
金色の残光が、外縁第七区の空で砕け散る。
熱い風が吹き抜けた。
カイはミラを背負ったまま、目の前に立つ黒銀の剣士を見ていた。
なめらかな黒い装甲。発光する目。背中に畳まれた薄い翼。右腕から伸びる、蒼い刃。
その刃が、いま確かに女神の矢を斬った。
外縁第七区を丸ごと焼くはずだった金色が、空の途中で二つに裂け、霧みたいに消えていく。
信じられないことばかりだった。
守護女神アウレリアが、自分たちに弓を向けた。
自分が王座に叛逆した。
頭の中で、知らない声が響いた。
右目には、赤い十字星が灯った。
そして、空から黒い星が落ちてきた。
カイは喉を鳴らした。
「……お前、何なんだよ」
黒銀の剣士は振り返らない。
ただ、割れた矢の残光を見上げていた。
「零刃」
「名前じゃなくて」
「英星だ」
「だから、それが何だよ」
「説明は後だ」
「今しろよ」
「今は、死ぬ」
零刃は空を見上げた。
アウレリアがいる。
遠い。
遠いのに、圧倒的に大きい。
女神の背後で、光輪がさらに広がっていく。二つに割られた矢の残光が、弓へ吸い戻されていた。
また撃つつもりだ。
「移動する」
零刃が言った。
「どこへ」
「射線の外へ」
「外ってどこだよ。区画ごと焼く気だぞ、あれ」
「だから急ぐ」
零刃はそこで、初めてカイの背中を見た。
ミラがいる。
防塵布の下で、肩が上下していた。呼吸補助端末の警告灯は黄色に落ち着いているが、息はまだ浅い。
「俺が運ぶ」
「は?」
「転倒防止は基礎機能だ」
カイは一瞬、言葉を失った。
女神の矢を斬った黒銀の剣士が、転倒防止と言った。
「お前、戦闘用じゃないのか?」
「現在は戦闘可能だ」
「質問に答えろよ」
「最初の機能は、転倒防止だった」
零刃はカイの背中からミラを抱え上げた。
動きが妙に丁寧だった。
武器を持つ動作ではない。壊れやすい部品を外す時の、慎重で迷いのない手つきに近い。
ミラも驚いていたが、抵抗する力はないらしい。零刃の腕の中で、気まずそうにカイを見る。
「カイ、これ、ちょっと楽かも」
「そんな感想でいいのかよ」
「今それ以外、言う余裕ない」
「だろうな」
道の向こうで、装甲服の関節が鳴った。
王座防衛軍。
白い装甲を着た兵士たちが、封鎖線の向こうからこちらへ銃を向けている。青い識別灯が、煙の中で規則正しく点滅していた。
「反逆対象を確認」
「所属不明の戦闘ユニットが接触中」
「周辺住民を退避させろ。発砲は最小限に抑えろ」
拡声器の声が飛ぶ。
殺す気ではない。
少なくとも今は。
だが、拘束されたら終わりだ。
ミラは非優先移送者として置き去りにされる。カイは反逆対象としてどこかへ運ばれる。そして外縁第七区は、都市存続率のために焼かれる。
「零刃!」
呼んでから、カイは少し言いにくさを覚えた。
「長いな。零でいいか」
黒銀の剣士は一瞬だけ沈黙した。
「識別に支障はない」
「じゃあ零。どうする」
「把握している」
「何を」
「撃たせない」
兵士が三人、前に出た。
装甲服の膝が低く唸る。銃口が上がる。避難民の何人かが悲鳴を上げ、保安局員が身をかがめろと叫んだ。
零刃はミラを片腕で抱えたまま、空いた右手を下ろした。
蒼い光刃は伸ばさない。
一人目の兵士が踏み込む。
零刃は、兵士の手首に触れた。
次に肘。
それから肩。
それだけだった。
重い装甲服ごと、兵士の身体が宙へ浮く。
カイには、何が起きたのか分からなかった。
投げ飛ばしたようにも、突き飛ばしたようにも見えない。ただ、立っていたはずの兵士が、足場を失ったみたいに回っていた。
だが頭は打たなかった。
零刃は空中で回る兵士の足に自分の甲を添え、勢いを殺して地面に降ろす。そのうえで、銃の機関部だけを踏み砕いた。
「転倒リスク、処理完了」
「防止してねえだろ!」
「頭部損傷は防止した」
「そういう問題か!?」
二人目の兵士が発砲した。
銃声。
カイの頬を、熱いものがかすめる。
その手前で、蒼い刃が一瞬だけ伸びた。
銃弾が散った。
弾を斬ったのではない。
銃口からカイの頬まで伸びる、見えない通り道の途中に、刃を差し込んだように見えた。
「射線は見えている」
零刃は言った。
「身体の向き。銃口。退路。今は、それだけで足りる」
「何の話だよ」
「お前が生き残るための話だ」
声は冷たい。
けれど、妙に信じられた。
零刃は敵を壊している。
でも、殺していない。
兵士の銃を壊し、足を崩し、倒れる頭の位置には配慮している。戦っているのに、人を落とさないように動いている。
カイはようやく気づいた。
こいつは、斬るために斬っているんじゃない。
殺さないために斬っている。
「カイ・レダ」
零刃が言った。
「走れ。私はミラ・オルフェを運ぶ」
「なんで名前まで知ってる」
「お前に紐づく情報が開いた」
「だから何の話だよ!」
「王座戦の話だ」
その言葉だけは、カイの頭の奥で鳴った声と同じ響きを持っていた。
さっきの世界が軋む音。
赤い十字星。
黒い星。
全部が、その言葉に引っかかっている気がした。
だが、考えている時間はなかった。
上空で、アウレリアの弓が再び金色を集めている。
「走れって、どこへ!」
カイは叫びながら、外縁区の路地へ飛び込んだ。
零刃はミラを抱えたまま隣を滑るように進む。背後で兵士たちが追ってくる。足音。装甲の駆動音。避難放送。泣き声。全部が混ざって、外縁区の通りに流れ込んだ。
「王座が揺れた時に起きる戦いだ」
零刃が言った。
「は?」
「王座戦。その宇宙の秩序を守る者と、奪う者の戦い」
「今説明するなって言っただろ!」
「質問された」
「したけど!」
カイは瓦礫を飛び越えた。
右目の奥が、まだ熱い。
視界の端で、赤い十字星がちらついている。瞬きしても消えない。痛みはないのに、そこに刻まれている感覚だけがある。
「お前は王座に叛逆した」
零刃が続ける。
「知らねえよ。俺はミラを助けたいだけだ」
「最初はそれでいい」
「最初は?」
「その次が来る」
「来なくていい!」
前方に隔壁があった。
外縁第七区の古い保守通路へ続く扉だ。錆びたフレームに、緊急時用の黄色い表示が貼られている。だが表示灯は赤い。王座系統が遮断している。
カイは腰のスパナを抜いた。
「そこは手動で――」
言い終わる前に、零刃の右腕が短く鳴った。
蒼い光刃が、扉の中央ではなく、脇の制御盤を一筋だけなぞる。
火花が散った。
ロック音が外れる。
扉が開いた。
「今、何を斬った」
「鍵の命令だけだ」
「そういうの、普通は斬れねえんだよ」
「普通ではないからな」
「それは見れば分かる」
カイは保守通路へ飛び込んだ。
中は暗い。
天井が低く、配管がむき出しで、床には油が浮いている。古い排熱の匂い。焦げた樹脂の匂い。外縁区の人間しか使わない道だ。
背後で隔壁が半分閉まりかけ、零刃が足で止めた。
ミラが小さく咳をする。
零刃はすぐに彼女の呼吸補助端末を確認した。角度を直し、接続部を指で押さえる。黄色いランプが、かすかに安定する。
「苦しいか」
「うん。でも、だいぶまし」
「発声は控えろ」
「保安局みたいなこと言うね」
「保安局ではない」
「分かってるよ。黒いし」
こんな時に何を言っているのか。
カイはそう思ったが、ミラの声が出るだけで少し救われた。
通路の奥で警報灯が回っている。
赤い光が、配管と油膜を交互に照らした。
カイは息を切らしながら零刃を見る。
「アウレリア様は、敵なのか」
ずっと聞きたかった。
聞くのが怖かった。
ミラも、零刃の腕の中で動かなくなる。
零刃は少しだけ黙った。
「あれは女神だ。この都市にとっては」
「じゃあ、なんで撃った」
「王座は守るべきものを選んだ。アウレリアは、その選択に応じた」
「選んだって何を」
「この都市は、外縁第七区を切れば残ると判断した」
「だから、俺たちを焼くのか」
「そうだ」
短い答えだった。
残酷なほど、短かった。
カイは奥歯を噛んだ。
「女神なのに」
「女神だからだ」
零刃の声は変わらない。
「守るために選ぶ。選ぶために切る。あれは、そういう守護者になった」
「なった?」
「昔は違ったのだろう。この都市の記録を見る限りでは」
ミラが、零刃の腕の中で小さくつぶやいた。
「昔は……降りてきてくれた」
零刃はうなずいた。
「なら、その記憶は間違っていない」
「じゃあ、今のアウレリア様は……」
「間違っているとも限らない」
ミラが黙る。
カイは思わず声を荒げた。
「俺たちを焼こうとしてるんだぞ!」
「都市全体を守るためなら、正しい」
「ふざけんな」
「だから、お前がそれを許せないなら、奪うしかない」
「何を」
「王座だ」
遠くで、また警報が鳴った。
天井の配管が震える。
外では女神が二射目を準備している。
中枢では、誰かが外縁第七区を切り捨てる判断を下している。
カイは走りながら、初めて思った。
自分は、逃げているだけではない。
何かと戦うことになっている。
しかも相手は、悪人ではない。
都市を守る女神。
都市を残す王座。
都市のために動く兵士たち。
それでも。
さっきまで背負っていたミラの軽さを、まだ背中が覚えている。
あの子に配られなかった未来を、まだ覚えている。
カイは息を吐いた。
「分かった」
零刃が横目で見る。
「何がだ」
「王座戦でも、リアなんとかでも、今はどうでもいい」
「リアライメント・アークだ」
「うるさい」
カイは前を向いた。
古い保守トンネルの先に、外縁区の地下水路へ続く非常扉が見える。あそこを抜ければ、少しは逃げられる。
逃げて、ミラを助ける。
それから考える。
王座を奪うとか、秩序がどうとか、そんなものはまだ分からない。
けれど、ひとつだけは分かっている。
「俺は、あの矢を認めない」
零刃の光刃が、かすかに蒼く脈打った。
「よし。なら、走れ。覇王」
「その呼び方やめろ」
「現状、最も正確だ」
「最悪だな」
その時、背後のトンネル入口が金色に染まった。
カイは振り返る。
隔壁の向こうで、空そのものが燃えているみたいだった。
女神の二射目。
さっきより近い。
さっきより速い。
そして、さっきより正確だった。
零刃がミラを抱え直す。
カイはスパナを握りしめた。
逃げ道は細い。
足元は油で滑る。
天井の配管は、今にも弾けそうに震えている。
金色の光が、保守トンネルの入口を埋めた。
「伏せろ!」
カイの叫びと同時に、女神の二射目が外縁第七区へ落ちた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第1章は、カイとミラのいる外縁区、そして継承都市アステラードの王座戦を描く章です。
この先で、都市を守る女神アウレリアと、黒い星として降る英星の物語が本格的に動き出します。
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