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後編

 未読スルーにも限界がある。

 一般常識と良心の呵責。

 通知を切ったところで、アプリを開くたびに増えている未読の数字は、見て見ぬ振りをした回数を残酷に可視化する。

 いや、それよりも。

 未読スルーされているのに、送り続けてくるメンタルが怖い。


「業者もこんな送ってこねぇよ」

 

 半日で42件。

 社員食堂でハントンライスをつつきながら、彰はついに観念し、ゆるいライオンのアイコンをタップした。

 連なるメッセージを、適当に読み飛ばす。


 現場のこと、猫のこと――いちいち写真がついている。

 猫のとなりに、令恩のピース。ごつい指輪がやたらと目立つ。

 空の写真に、新装開店のラーメン屋、コンビニの肉まん。

 半分以上が関係ない。

 令恩の友人になった覚えはない。


《近所のばあちゃんがさ》

《夜中にエサやってる人影を見たって》

《黒い帽子をかぶってたらしい》


 彰は画面を見つめた。


 行動力がありすぎる。

 無駄は多いが、精査すれば使えるかもしれない。


 小学生の頃、令恩はサッカー部の部長だった。

 人を巻き込むのも、動くのも、やたらと早い。


 ならば暇人の令恩を正しく使ってやろうと、彰はメッセージを送る。


《新しいエサが置かれたら、前のと同じか確認しろ。同じエサなら同一犯だ》


 しばらくすると、令恩から《掃除した》と返ってきた。

 感心したのも束の間、送付された写真を見て、彰は思わずスマホを握りしめる。


《金沢市の指定ゴミ袋に入れろ。コンビニで今すぐ買ってこい》


 両手でサムズアップしたライオンのスタンプが返ってきた。

 小さなサムズアップが、とめどなく弾けて画面を埋め尽くす。

 うっとおしいことこの上ない。

 令恩のセンスに呆れた直後、《猫専門家の先生です》という謎メッセージとともに、古い家で老人とピースしている写真が届いた。


 彰はスプーンを動かしながら、本気でブロックを考える。

 だが写真の奥に、猫を六匹も見つけ、思わず拡大して見直す。

 この一枚だけで信じられない密度だ。――実際の現場には、もっといる。


 どこの家かと聞くと、《近所》とだけ返ってくる。

 《現在地を送れ》と指示するが、あろうことか既読スルーされた。


 もしかして、野良猫はこの家から出ているのではないか。

 そう予測を立て、帰ったら令恩を問い詰めると決めて、彰は残しておいたエビフライをほおばる。

 開きっぱなしのトークに、新着が浮かんだ。


《今のところ、俺が一歩リードだな!》


 次々弾ける、うるさいスタンプ。

 彰は無言で、アプリを閉じた。


 



 今日は珍しく残業だった。

 就業間際の苦情対応で、現地確認と報告書の作成に追われた。

 冷房の効いたバスから降りて、暗くなりきれない夜を歩く。

 昼の熱が居座った空気は、数歩で汗がにじみ、残業の疲れを増幅させた。 


 住宅街の中、アパートの外廊下の蛍光灯だけが、やけに白い。

 光に引き寄せられた羽虫が、ちらちらと揺れている。


 エミリが片足をひきずりながら、102号室に向かうのが見えた。

 挨拶が面倒で、彰は歩く速度をわずかに落とす。

 だが、抱えた大きな袋が見えて、彰は眉をひそめた。

 小さな郵便物を取りに行くだけでも大変そうな彼女が、いったい何をしているのか――。

 近づくにつれ、それが猫のエサだと分かった瞬間、彰は駆け出していた。


「エミリさん!」

 

 苗字は忘れた。バカ令恩のせいだ。

 エミリはあわてて102号室に逃げ込もうとする。

 だが彰の方が早い。

 エミリの肩をつかみ、強く懇願する。


「餌付けをやめてください」


 エミリはキッと彰を見すえ、きっぱりと告げた。


「離してください。通報しますよ」


 彰は虚を突かれ、手を放す。

 通報という言葉の威力はもちろん、おどおどしていた彼女らしからぬ堂々とした物言いは、間違っているのは彰の方だと、勘違いしてしまいそうだ。

 その隙をついて、102号室のドアが閉まる。

 廊下にひびく施錠音は、彰を責める響きがした。


 帰宅した彰は、靴も脱がずにスマホを開く。


《犯人はエミリさんだ》


 令恩から《すぐ帰るから待って》と来たが、待ってやる義理はない。

 犯人はつきとめた。勝負はついた。――あとは正すだけ。


 彰はアパートの管理会社に電話する。

 明るく社名を名乗る女性に、事の次第を報告する。

 少々お待ちください、と保留になり、しばらくして代わった男性の声は、不愛想かつ傲慢だった。


「夜城さん、カスハラってご存じですか」 


 彰は言葉を失う。

 ご存じもなにも、毎日職場で受ける、無秩序で理不尽で独善的な迷惑行為じゃないか。

 彰の無言を了承と取ったのか、男性は毅然と続ける。


「エサをやっているのはあなただという連絡も受けています。これ以上、こちらの業務を妨害する行為が続くようなら、しかるべき処置をとらせてもらいます」


 そうして電話はブツリと切れた。弁解する(いとま)もなかった。どうして罪をなすりつけられた。餌付け犯のエミリが、自分だと管理会社に知られるのを恐れたのか。


「俺は何ひとつ、間違ったことはしていない」


 その証拠に、犯人は特定した。河村の手も、令恩の助けも借りていない。管理会社が無能なのは、前から分かっていたことだ。

 押しよせる悪意に潰されそうになっても、動かなければ何も変わらない。


 大きく息を吐き、彰はドアを開けた。

 廊下へ出て、そのまま階段へ向かう。


 一段、また一段と下りるたびに、思考が整っていく。

 言葉を尽くせばいい。

 相手が理解できるよう、丁寧に説明すればいいだけのこと。


 102号室の前に立つ。

 チャイムを押す指は震えていたが、エミリが出てくる気配はなく、拍子抜けの気分がした。

 彰はドア越しに、冷静に餌付けの弊害を訴える。

 どこかでパトカーのサイレンが鳴り、ルールを守らない人間はたくさん存在するんだなと淡く思った。


「悪臭などで、生活環境が悪化するんです。現に害虫があつまり、不衛生になっています。猫の声も近隣の迷惑になりますので――」


 サイレンがうるさい。

 思った瞬間に音が途切れて、彰はハッと振り向いた。

 目に痛いパトカーの赤色灯。

 懐中電灯を手に、降車してきたふたりの警官は、まっすぐに彰を射抜く。


「こんばんはー、ちょっとお話いいですか?」


 やわらかい言葉遣いだが、有無を言わせぬ圧力に、彰は身を固くした。


「お兄さん、お住まいこの辺です? ここで何されてました?」

「いや……猫の、エサが……」


 言葉が詰まって出てこない。

 どうしてこんな目に遭わなきゃいけないのか、全く理解が及ばない。


「はい? 身分証、見せてもらっていいですか」


 彰の言葉を待つことなく、警官は淡々と仕事をこなしていく。


「え……家にあります」


 口にした瞬間、まずいと思った。

 身分証を出せば、市役所職員だと知られる。

 職場に連絡が入れば、河村の耳にも届くだろう。

 彼はきっと彰をとがめない。困ったように眉尻を下げ、「災難だったな」と彰の肩をたたく――その裏にある憐れみが、なにより屈辱だというのに。

 警官たちは無言で目を見合わせ、「じゃ、案内してもらっていいですか」と彰に最終通告を下す。


「うっそ、何やってんの」


 場違いな明るい声が、重い空気を切り裂いた。

 振り返ると、コンビニ袋を下げた令恩が立っていた。


「まさかの職質? うける」


 げらげら笑いながら、彰と警官のあいだに割り込んだ。


「ちょっと、君――」


 警官のひとりが制止しかけたが、令恩はまったく悪びれず、彰を指さす。


「この人、俺のお隣さん。ふつうに真面目な人なんで、何かの間違いじゃないっすか?」


 気負いなく言い切った令恩に、警官たちは顔を見合わせた。


「お隣ってことは、あなたも住人さん?」

「はーい、雷堂令恩でーす」


 スマホケースから免許証を取り出し、写真と照合するように自分の頬に当てて笑う。その仕草も妙に人懐っこく、警官たちは拍子抜けしたように表情をゆるめた。


「……まあ、確認は取れましたんでね」


 もうひとりも頷きながら、穏やかな口調で続ける。


「一応、ご近所で行き違いがあったみたいですけど。お互い、気をつけてください」


 令恩は「了解しました!」と敬礼し、警官たちは苦笑まじりに去っていった。


 彰は息を吐いた。

 遅れて、心臓がうるさく鳴り出す。

 令恩の背中が大きく見えた。


 その瞬間、何を守りたかったのか思い知った。

 世間体だ。

 自分がひどく浅ましいものに思え、喉の奥が引きつった。

 

 それでも、助けられた事実だけは、どうやっても切り離せない。

 ぐちゃぐちゃのまま、言葉を押し出す。

 

「……助かった」


 令恩がゆるく振りむいた。

 街灯の光が、淡く彼を照らす。


「どうして待ってくれなかったの」


 ため息まじりに落ちた声は、ただ淡々としていた。

 その温度の低さに、彰はわずかに眉をひそめる。


「待ってどうなる。現行犯だぞ。すぐに止めなければ、猫も虫も湧き続けるぞ」

「彰にはできない。エミリを説得することも、猫を救うことも」


 それだけを告げると、令恩はふと首を傾け、アパートの裏手へ向かった。

 その言葉に虚を突かれていた彰は、一拍遅れて後を追う。

 

「待て、どういうことだ」


 背中に問いかけると、令恩は足を止めた。

 落ちた彼の視線を追うと、一匹の猫が令恩の足にすり寄っていた。

 令恩はしゃがんで、喉を鳴らす猫の頭から背中を、ゆっくりと撫でた。

 

「相手の立場に立って考えられない。相手の立場に立とうともしない。相手の事情を汲むことも、お互いにとってより良い着地点を探ることも、何もかもできない。しようとしない。見ていればわかる。相手の幸せは、端から勘定に入っていない。そんな人間に共通するのは、自分の感情に引きずられるまま行動していることだ。それに気づきもしない人間が、無意識に何かを救えるほど、現実は易しくない」

「――雷堂の人間が、偉そうに語るな!」


 怒鳴り声に、猫が弾かれたように逃げる。

 令恩は立ち上がり、ようやく彰を見た。


「またそれ。いつまで過去に縛られているの」

「縛られてはいない。事実は変わらない。雷堂建設は、相馬家を壊した」


 彰は前髪を掻きあげ、額をあらわにした。


「この傷が証拠だ! 雷堂が送った人間と話したせいで、激怒した父親にやられた。奪われたのは、土地だけじゃない。一家離散だ。その後、俺がどんな思いで生きてきたか――」


 令恩が吹きだした。

 最初は小さく、だが次第に抑えきれなくなったように肩を震わせる。

 笑いを止めようとしているのに、どうしても止まらない、そんな笑い方だった。


 彰は反射的に令恩の胸ぐらをつかむ。

 令恩は抵抗もせず、笑いの名残を口元に残したまま、彰を見下ろした。

 その目だけが、ひどく冷めていた。


「そんな傷のために、マカロニは殺されたのか」

「……は?」


 マカロニ。

 令恩が飼っていた猫の名前だ。


 彰はいぶかしげに令恩を見つめる。

 身に覚えは全く無い。


「ねぇ彰、売買の話を最初に持ち込んだのは、誰だと思う?」

「……雷堂と懇意のヤクザだろ」


 令恩は小さく鼻で笑った。

 ためらいもなく、当然のように彰の手を取り除く。

 彰の目をまっすぐ見たまま、ゆっくりと息を吐いた。

 

「もう、黙ってる義理も無い。――相馬の土地の売却を持ち掛けたのは、相馬義信(そうまよしのぶ)。当主だった、彰の父親だ」


 言葉が喉で止まった。

 意味を理解するまでに、すこし時間がかかる。


「う、そだ」

「原因は、多額の借金。取り立てに来てただろ」

「あれは……相馬の土地を奪うために、雷堂建設と裏でつながっていた人間が嫌がらせを……」

「ああ、そういう設定か。だから近所のばあちゃんたちは、鬼の子を見るような目で俺を見てたんだ」


 軽すぎる口調だった。

 首を少し傾けた令恩は、感情が読めない。 


「怖いよね、ギャンブル依存症。完済しても完治できなきゃ、同じことの繰り返しだ」


 ギャンブル依存症に完治はない。

 職場の研修で習ったことが、彰の脳裏に蘇る。

 河村に連れていかれた、生活保護世帯。

 ゴミの中で暮らしていた老人の顔が、父親の顔にすり替わる。


「何……言って……」


 令恩はトントンと自分の額を指さす。


「そのケガの直後、マカロニに会っただろ」


 彰は眉をひそめた直後、ハッと令恩を見返した。


 土間で父親に殴られ、石段に額をぶつけた日。

 縁側に座り、血の止まらない額を押さえていると、どこからか茶トラの猫がやってきて、足にすり寄った。

 その温もりに手を伸ばした瞬間、現れた父親が雑菌が入ると怒鳴り、猫の首根っこをつかんで、表へ連れて行った。

 直後、鈍い音と、短い鳴き声。

 彰は腕をつかまれ、家の中へと引きずり戻された。

 何が起きたのか確かめることすらできなかった。

 ――あの茶トラが、マカロニだったのか。


「俺は見た。彰の父親が、マカロニをブロック塀に叩きつけるところを。すぐに病院に連れて行ったけど、折れた肋骨が肺を傷つけていて、手の施しようが無かった。数日後、マカロニが死んだことを知った相馬義信が謝罪に来た。ケガをした息子が破傷風になると思い、とっさに外に放り出してしまった、と。――父さんは、俺にあきらめろと言ったんだ。相馬義信は心神喪失、仕方のないことだと」


 彰は言葉を失う。


「何も知らないんだね。そりゃそうだ。人の視野には限りがある。なのにどうして彰は、雷堂が敵だということを疑いもしなかったの? 自分が辛いのは、過去の因果のせい――まるでどこかの新興宗教だ」

「……俺に、どうしろと」

「だから言ってやっただろ。“仕方ない。小学生の息子に、できることなど何もない”」


 令恩は小さく息を吐く。

 自嘲するようにかすかに笑い、一度だけ目を伏せた。

 そうして、彰の横を通り過ぎる。


「……死んだら、生き返らないんだよ」


 足音が遠ざかっていく。

 彰はその場に立ち尽くしたまま、胸を押さえた。

 息がうまく吸えない。

 頭の中で、いくつもの記憶と情報がぶつかり合う。

 父親、借金、土地、雷堂建設、マカロニ、ギャンブル依存症――。


 突き付けられた事実に、理解が追いつかない。

 いや、追いつけないのは気持ちの方だ。


 どうやって部屋に戻ったのかは覚えていない。

 すがるようにヘッドセットを装着し、ほとんど反射的にログインする。

 固定メンバーたちが、画面の向こうで手を振った。


 そこから先の記憶は、曖昧だった。

 指は動いていたはずなのに、沙雪の反応がぎこちない。

 判断が遅れ、動きがずれ、連携が嚙み合わない。

 立て直そうとしても、なぜだか指示が通らない。

 気づけば仲間が倒れ、画面が暗くなり、再挑戦を選び、また全滅して同じ戦いに戻る――それを何度もループする。

 さっきも同じ場面を見た気がするのに、どこで失敗したのか思い出せない。


 最初は気遣っていたメンバーたちも、その異変に、それぞれ都合のいい理由を当てはめ始める。

 偽物だとわめくNeko☆Sugar、「今日は呪いが強い日だ」と言い残して去るCrowZ、筋トレを勧めてきたゴリマックスが最後にログアウトして――。


 気づけば沙雪はひとりきり、風に草が揺れるフィールドに立っていた。

 しばらく、そのまま画面を見つめる。


――なぜ、自分だけが残っているのか。


 遅れて、そんな疑問が浮かぶ。


 かすかな音が聞こえた。

 か細く甘い――猫の鳴き声。


 彰はふらりと立ち上がる。

 考えたわけではなかった。

 ただ、その音の方へ行かなければならない気がした。

 手近にあった殺虫剤をつかんだことにも、特に意味はなかった。


 


 アパートの裏手。

 薄暗い壁には、赤文字の警告ポスター。

 『ネコにエサを与えないでください』と書かれた真下に、エミリが置いたエサがある。

 エサが無ければ、猫は来ない。虫も湧かないし、管理会社と争うことも、令恩に絡まれることもない。

 エミリの行動を止められないなら、止めざるを得ない状況を作ればいい――例えば、このエサが原因で、猫に被害が出たと知れば。


 手の中の殺虫剤に、ふと視線が落ちた。


 周囲に人の気配はない。

 ぬるい空気がまとわりつき、流れる汗がやけに冷たく感じた。


 大丈夫だ。

 ふつうの猫は、エサの異変に気付く。

 気づけないほど弱っている猫なら、どのみち長くはもたない。

 どうせ碌な死に方をしないのだから、さっさと楽にしてやる方が親切だ。


 噴射口をエサに向ける。

 手が震えている。いや、揺れているのは視界か。

 自分の荒い呼吸だけが聴覚を支配する。

 激しい動悸がして、足元の感覚が遠くなる。


 額に硬い衝撃が走り、壁の金属の配電箱がぼやけて見えた。

 握力が抜け、手から缶が外れる。

 ぶつけたと遅れて理解したとき、視界の端が赤くにじんだ。

――血だ。

 思った瞬間、近くで猫の鳴き声がした。


 あのときも鳴いていた。

 血の匂いと、父親の怒声の中にいた時も。

 令恩に真実を突き付けられた時も。

 いつも、猫の声がしていた。


 足元に柔らかなものが触れた。

 視線を落とすと、茶色い毛並み。

 ――マカロニ。

 名前がだけが先に浮かぶ。


『猫は、全部許してくれる』


 耳に残る令恩の言葉。

 彰は、そっと手を伸ばす。

 指先が沈む。毛並みがゆっくり形を変える。


「温かい」


 ――あのとき。

 縁側で痛みに耐えていた時、本当は触れたかった。

 そのことに、今さら気づく。


「……何してんの」


 背後から声がした。

 振り返るより先に、影が差す。

 見上げると令恩が、コンビニ袋を下げて立っていた。

 彰の顔を見るなり、目を見開いた。


「大丈夫? 救急車呼ぶ?」

「――お前の冗談は、昔から全くおもしろくないんだよ!」


 立ち上がり、胸倉をつかむ。


「いや、冗談じゃ――」

「何なんだよ、お前は」


 声が勝手に強くなる


「全部知っていたんだろ、何で言わなかった。言ってくれればよかったじゃねぇか。そんなに俺のことが信用できなかったのか」


 息が乱れる。

 言葉が止まらない。


「お前のせいで俺は、自分が一番被害者みたいな顔で生きてきたんだぞ。それが全部間違いだった? 何でもっと早く教えてくれなかった」


 喉が引きつり、血の味がした。


「お前は俺を無駄に苦しめた。でもそれは、俺のせいなんだろ。雷堂も、父親も、全部……思い込みで、勝手に決めつけて。疑いもしなかったよ、お前の言う通り。全部お前が正しい。それで満足か!」


 胸倉を突き放す。

 視線が落ち、地面に一滴落ちて、土の色が変わった。


 次の瞬間、頭から水をかけられた。

 顔を上げると、ペットボトルを持った令恩が、真顔で立っている。

 そのまま肩をつかまれ、ハンカチを額に押し当てられた。


「とにかく手当て。傷は洗った、あとは止血」

「いや……ふざけんなよ。びっちょびちょじゃねぇか」

「夏だし乾く。頭も冷えただろ」


 悪びれもせず、令恩は口元をゆるめる。

 うながされ、ふたりで縁石に腰かけた。


 彰は額を押さえたまま、隣を見やる。

 令恩は、何事もなかったようにスマホをいじっている。

 彰の目線に気づき、令恩は画面を掲げた。


「親友に《ケガ人を手当てした》って送った」


 あの暴挙が手当て。

 言い返そうとして、トーク画面のメッセージがすべて未読なのに気づき、彰は眉をひそめる。これはおそらく――。


「ブロックされてるぞ」


 令恩はかすかに笑い、首を振った。


「違うよ。もう死んでる。……俺の親友」


 その平然とした響きに、彰は言葉を失う。

 令恩は画面を見たまま、ぽつりと続ける。


「大学の時さ、すげぇ気の合うやつがいて、毎日つるんでた。おまえの結婚式なら、俺絶対泣く自信あるわとか言い合って。なのに、何も相談してくれなかった。俺がもっと頼れる人間だったら、あいつも、あのとき俺を頼ったかもしれない」


 軽い声音に、痛みや迷いの影は見えない。

 そんな重い過去を乗り越えたのかと、彰は目を見張る。

 令恩は彰に目を転じ、少しだけ首を傾けた。


「彰の言う通り、思い込みだ。過去も、未来も。お前の目から俺が正しく見えたなら、誰かの目からはお前が正しく見える。それだけのことだ」

「……でも俺は今、羞恥の消化に忙しく、罪悪感が迷子だ! この期に及んで保身ばかり、本当に、消えてしまいたい」

「そう思うなら、行動を変えればいい。それで未来の誰かが救えるなら、彰の過去も捨てたもんじゃないだろ」

「話聞いてたか? 保身しかないんだ俺は! 謝ればいいのか? 何を、どこから、どうやって……――無理だろ! そもそも謝って済む問題じゃない」


 頭を抱えてうずくまる彰に、令恩が吹きだした。

 どうしてここで笑えるんだ、と彰は顔を上げ、口元を押さえた令恩の、弧を描く目とぶちあたる。


「うだうだ考えてないで、俺に聞けばよくない?」

「……それはそれで癪に障る。が、一応、参考程度に聞いてやる。……俺に、どうしてほしい」

「頼ってほしい」


 歌うような口調。

 口元から手を離した令恩は、恍惚とした笑みを刻んでいた。

 熱に浮かされた目に絡めとられ、それは新興宗教の信者が、奇跡を語る表情にそっくりだと彰は思った。


「それが頼られる人間になる近道だ。それがあいつの供養につながる。あいつの死は無駄じゃない。未来で大勢の人間を救うんだ」


 彰はようやく理解した。

 令恩こそが過去に縛られている。自分を曲げるほどに、強く。


 小学生にできることなんて、たかが知れている。

 大学生など、できることは増えても、届かないものは多い。


 そして年を重ねても、どうにもならないことは残る。

 今の彰が、令恩に何もできないように。


 張りつめた空気は、すぐにほどけた。

 すぐに令恩は、いつもどおりの軽い調子で笑う。


「じゃ、これからはチームとしてよろしく」


 そう言って身軽に立ち上がり、彰に手のひらを差し出す。


「……は?」

「救うんだろ、猫」


 変わり身の早さに、しかし彰は、その流れに乗るべきだと思った。

 胸の奥がかすかに熱を帯び、それで覚悟が決まった。

 令恩の手をつかんで、立ち上がる。


「仕方ねぇな。市役所職員の俺が、自治体権力を総動員して、早期解決してやるよ」

「お前が頭脳で、俺が実動隊。なつかしいな、美化委員」

「おまえが佐々木のじいちゃんちから勝手にスイセン持ってきたの、忘れてないからな」

「圧巻だったな、相馬家長男の謝罪。権力ってこうやって使うんだ―って勉強になったわ」

「ゴミ拾いで缶蹴り始めるわ、チョークの粉ばらまくわ」

「あれで美化委員が仲良くなったんじゃん」

「確かに。教室のドア吹っ飛ばしながら仲良くケンカしてたな」

「あれはこぶしで語り合ったんだよ」

「連帯責任で校庭の草むしりさせられたの、いまだに納得してねぇからな」


 しばしにらみあい、ふっと表情がゆるむ。

 夜の路地に、笑いがこぼれる。

 額の血はもう止まっていた。






 いつもより早く出勤した彰は、静かなオフィスの机に向かい、引き出しの奥から資料を取り出す。

 紙の束が、かすかにバサリと音を立てた。

 河村に押し付けられたそれを、彰は一枚ずつ読み込んでいく。


 明るい挨拶の声が、廊下を伝って聞こえてきた。

 河村だ。

 課に入ってくると、彰が手にした資料を見て、いそいそと近づいてくる。


「どうした、どうした? ついに俺の後を継ぐ気になったか」  


 あいかわらずうっとおしいと思いながらも、彰は気になっていたことを質問する。


「地域猫じゃない場合、保健所に連絡して引き取ってもらうことになるんですか」


 河村は少しだけ目を見張り、落ち着いた声でこたえた。


「持っていかれた先で、生き延びられる猫は少ない。ひとつの命を片付けるたび、誰かが手を汚しているんだ」

「地域猫にするには、どうすればいいですか」

「まずは近所への説明。猫を捕獲し、不妊手術をして、さくら猫にする。見たことあるか? 耳に切り込みが入った猫」

「以前、広報誌で」

「あとはエサやりの時間を決め、その後の掃除を徹底する。さくら猫の事例がない地域では、住民が認めるまでに時間がかかるのが常だ。焦らず、こちらの理由ばかり押し付けるのではなく、あくまで理解をお願いする立場だということを念頭に置いて行動しろ」


 ただしそれは野良猫の場合だ。

 彰は令恩が送ってきた写真を思い出す。


「では多頭飼育の場合は」

「現地訪問して調査報告書を作成し、支援や指導方法を決定する。生活支援が必要な場合は地域包括センターと連携することも多い」


 連携、という言葉に、河村が語っていたことを思い出す。


「以前、グリーフケア団体と連携したっておっしゃってましたよね。それって、どういう……」


 詳しく聞いていいのかを測るため、語尾をにごす。河村はまったく頓着せず、さらりと続けた。


「家族を亡くした方が猫を集めてしまってね。何かあったか?」


 面倒見のいい上司の顔になった河村を見て、彰は理解した――これは業務の一環として相談してもいいのだと。


「知り合いが、親友を亡くして、まだ立ち直れていなくて」

「そうか、つらいな」


 そういって河村は、棚から冊子を取り出す。

 淡い黄色の紙に、やわらかいイラスト。市民向けのグリーフケア冊子だ。


「渡してみたらどうだ?」

「でも……もしかしたら、迷惑かもしれません」

「その友達は、夜城がいてよかったな」


 そう言い残し、他の職員に呼ばれた河村は、上機嫌に去っていった。 


 彰はまたたく。

 友人になった覚えはない。

 だが、メッセージのやりとりもあって、猫を救うためのチーム結成に加え、同じ地元の幼馴染――令恩は明らかに彰を友人と認識している。


 巻き込まれてきたから分かる。

 どうせ今回も、容赦なく友人面される。


 彰は冊子の表紙を手で撫でる。

 まだ問題は山積みだ。

 エミリと話すには、令恩の力が必要だ。多頭飼育になりかけている老人の家も、令恩しか知らない。ならば――。


「うっとおしいほど友人面してやる」


 彰は不敵な笑みを浮かべ、冊子をかばんに放り込む。

 令恩のためではなく、自分のためだ。勝ち逃げなんて、許さない。令恩もきっちり過去に決着をつけて、前に進んでもらおうか。いつか自分が前を向けた時、令恩が過去に縛られたままでは、どうにも寝覚めが悪すぎる。


「俺の安眠のためだ。覚悟しろ、雷堂令恩」

 

 始業のチャイムが鳴り響く。

 彰は静かな闘志を燃やし、背筋を伸ばして立ち上がる。

 窓口へ向かう足取りは、昨日までより、確かに前を向いていた。

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