前編
『ネコにエサを与えないでください』
赤文字の警告ポスター。
その真下に、ひび割れたプラスチック皿と腐敗したエサが転がっている。
アパートの裏手をのぞいた彰は、むらがるハエの影に眉をひそめた。
――またか。
犯人の悪意を感じる。警告文の真下に置くなど、挑発以外にありえない。
管理会社も無能だ。ペット禁止のアパートで餌付けをする人間が、張り紙一枚で悔い改めるはずがない。
彰はスマホで現場を撮影する。
平穏が脅かされる前兆は見過ごせない。
証拠を集め、いざという時は戦ってみせる――もう無力な子供ではない。
朝の六時台だというのに、すでに熱気が充満している。
さわがしいセミの声を払うように、彰は踵を返した。
昼下がりの金沢市役所。
環境政策課の窓口では、職員と市民がおだやかに言葉を交わす。
プリンターの駆動音と、書類をめくる紙の音。
ゆるやかに流れる時間を、ひときわ強い金沢弁が切り裂いた。
「やし、飼い猫じゃないって言っとるやろが!」
高齢女性の怒鳴り声が、室内の空気を震わせる。
周囲の視線があつまり、ざわめきが沈下する。
彰はその正面で、背筋を伸ばす。
新卒で市役所に入って6年。窓口業務は2年目だが、中堅社員の自覚ゆえ、屈する選択肢は無い。
「不妊手術費用の助成は“市内に生息する飼い主のいない猫”に限られますので」
女性はカウンターを指先で叩き、彰のネームプレートを一瞥する。
「いいか、よるしろさん」
「夜城です」
「……あのな、母猫はうちのやけど、子猫は知らん。ほっといたら、また要らん猫が増えるって、旦那もうるさいんや」
そもそも飼い猫を放置するから増えたのだ。
惰性で生きる人間ほど、平然とルールをねじまげる。そのツケを、なぜ他人に支払わせようとするのか。
責任転嫁も甚だしいと、彰ははっきり発音する。
「規則ですので」
「お役所仕事も、いい加減にしたらどうや!」
女性は唾を飛ばして怒鳴る。
もうマスクは必須ではないが、こういう市民がいる以上、仕事中は外せない。
好奇な視線が、集中している。圧力。期待。予測。
興味本位の視線の波にも、彰は無表情を崩さない。
彰の背後から、ゆるい声がした。
「どうされましたかね~?」
課長の河村だ。今日も軽薄な笑顔で、のんびりこちらに歩いてくる。
肩をたたかれ、彰は自分のデスクへ戻った。
耳をそばだてていると、女性が語る経緯では、彰は偏屈で融通が利かない職員に仕立てあげられている。
そのカスハラ案件を傍聴していると、河村は女性と雑談したあげく、彼女の肩を持ちはじめた。
「え! 野良猫の不妊手術してくれるん? 助かるわー。子猫、何匹おるん?」
「それが五匹もおって」
「大変やがいね」
「おいね。助成もらわな、やってけん」
「ぜひ使ってま。こういう制度は活かさんと、すぐ終わってしまうげんて」
「あんやと。きのどくな」
「なんもや。気ぃつけてね」
女性は笑顔で帰っていった。
河村は軽い笑顔を浮かべたまま、彰のところにやってくる。
「夜城が間違っているとはいわないが、彼女は夫を亡くしたばかりだ。もうすこし寄り添った対応を――」
「え、でも」
彼女は配偶者の話をしていたはずだ。
彰の疑問に気づいた河村は、複雑そうに苦笑した。
「亡くして日が浅いと、どうしてもなぁ……。夜城、興味があるなら、グリーフケア団体の資料をやるよ。俺が動物愛護センターにいたとき、ちょうど連携した事例があって――」
「それでも、規則違反は困ります」
話を切って、立ち上がる。
河村の顔は見ずに、窓口へと戻った。
疲れた顔で帰宅した彰は、階段下の共有スペースに向かう。
くたびれた蛍光灯の下に、六つの集合ポストが並んでいる。
名札が空白の203を開けると、携帯会社からのハガキが一通。
破りにくい耐水紙に、いささか面倒臭さを覚える。
斜め下の102のポストは、いつも郵便物があふれていて、嫌でも目についた。
投入口からのぞく封筒の隙間に、情報誌やハガキが所狭しとねじ込まれている。
去年、彰がこのアパートに引っ越してきた時からそうだ。
年に数回、回収されることがあるため、孤独死案件ではなさそうだが。
こういうだらしない人間がいると防犯意識が下がる。
だから何をやってもいいと思う人間が発生して、ついには野良猫に餌付けする人間まで出てくるのだろう。
そのとき、陽気な鼻唄が聞こえてきた。
裏手だ。エサのある場所。
彰はハガキを握りしめ、音のする方へと急ぐ。
壁からのぞき込むと、しゃがんで猫をなでながら、サンドイッチを食べる男がいた。
こんな不衛生極まりない場所で食事ができる神経の持ち主など、餌付け犯以外に考えられない。
彰はレコーダーアプリを起動させ、スマホとハガキをポケットに滑らせ、気合を入れて足を踏み出した。
「すみません。このアパートの方ですか」
男は咀嚼しながら、彰を見上げてうなずく。
ブラウンに金が混ざった髪、その毛先が無邪気に跳ねた。
「貼り紙にも書いてあるとおり、餌付けはしないでください。市の条例でも指導の対象です。近隣の市民にも迷惑ですので」
小首をかしげ、男は猫を抱いて立ち上がる。
近くで見ると、体格がいい。
シルバーチェーンのネックレスと、オーバーサイズの黒シャツが相まって、陽キャオーラが全身から出ている――苦手なタイプだ。
「あー、誰だっけ」
「初対面です」
彰が返答すれば、何がおかしいのか、男がけらけら笑った。
「ストレス溜まってる? 猫、足りてないんじゃない?」
目ヤニだらけの猫を近づけられ、彰はおもわず一歩とびのく。
白黒のブチ猫は、先だけが黒いしっぽを、抗議するように揺らした。
「その猫に迷惑しているんです」
「でもさ、猫は全部ゆるしてくれるよ。最高に必要な存在だって」
男は猫に頬ずりする。
よくもあんな汚れた猫に、と彰はドン引きしながら言い返す。
「要不要の話ではありません。ルールは守ってください。……ここも必ず掃除してください」
「ごめんにゃー♪」
男は猫の前足をつかんで、ひらひら振らせた。
まったく真剣味のない態度に、彰は眉をひそめる。
「……お名前を伺ってもよろしいですか」
「首輪が無いから分からないにゃ」
「ふざけないでください。あなた住人ですよね? 何号室のどなたですか」
「俺? 202号室の雷堂令恩でーす」
彰の心臓が大きく跳ねた。
雷堂。
忘れもしないその名前。
相馬の土地を根こそぎ奪い、一家離散に追い込んだ元凶の、『雷堂建設』。
ある時期を境に、土地をよこせと荒っぽい男たちが家に来るようになった。
断れば嫌がらせが続き、相馬家当主だった父は、先祖代々継承してきた土地を手放した。
嫌がらせに屈するような人でない。
何より世間体を気にする性分だったから、小学生だった彰には分からない、田舎特有のどうにもならない事情があったのだろう。
あとで知ったことだが、似たような話は近隣でいくつかあった。
どれも最終的に土地を買い取るのは、雷堂建設。
偶然にしては出来すぎていると、真実味を帯びた黒い噂が、絶えることはなかった。
「202号室って、猫に縁がある番号じゃない? にゃんにゃんって」
令恩は猫の体を左右に揺らし、小さく鳴いた猫と目を合わせている。
雷堂という姓は珍しい。
社長は九州出身らしいが、市役所勤務の彰でさえ、雷堂の名を持つ者を、その家族以外に見たことがない。
「猫っていいよな。小学生の時、マカロニって名前の茶トラを飼っていて――」
令恩が笑う。その笑顔が、記憶の中の、小学生の令恩と重なる。
間違いない。
こいつはあの雷堂建設社長の息子だ。
熱くなった額を押さえ、おもわず後ずさる。
その動きで、ポケットからハガキがするりと抜け落ちた。
そのまま乾いた土を滑り、運悪く令恩の足元まで転がった。
彰の息が止まる。
令恩が拾い上げるのを、彰は微動だにできず凝視する。
令恩は宛名に目を落とすと、少しだけ口の端を上げた。
「よろしく、よるしろさん」
「…………ああ」
ようやく肺に空気が戻った。
手の震えを慎重に隠し、ハガキを受け取る。
そう、令恩は知らないはずだ。
引っ越した彰が、親の離婚で苗字が変わったことも、母親の旧姓が夜城だということも。
彰は一刻も早くこの場を立ち去るのが賢明だと判断を下す。
「……とにかく、餌付けはしないでください」
自分の声さえ遠くに聞こえる。
令恩が何かを言ったが、彰は構わず踵を返した。
逃げるように帰宅し、施錠したドアを背に、彰は深く息を吐く。
雷堂令恩。因縁の相手が、隣室にいたなんて。
いや、違う。過去は過去だ。自分はもう相馬の姓でも、その跡取りでもない。
己に強く言い聞かせ、彰はのろのろと靴を脱いだ。
ゲーミングパソコンに全振りした部屋は、殺風景きわまりない。
ハンガーラックとベッドがあるだけ、食事はゲーム中に摂れるものしか選ばないから、テーブルすら置いていない。
よけいなことを考える前に、イスを引き寄せ、電源を入れた。
ファンが唸り、モニターが青白く灯る。
黒のヘッドセットを付け、ログイン画面を抜けると、見慣れたロビーが広がった。
キーボードの打鍵音とともに、彰の意識はオンラインへと潜っていく。
理不尽な現実から距離を置くため、この世界に潜るようになって久しい。
ここでは、関わる相手も距離感も自分で決められる。
少なくとも、いきなり土足で踏み荒らされることはない。
パーティメンバーの名前が、画面の端に並ぶ。
Neko☆Sugar、CrowZ、ゴリマックス――いつもの顔ぶれだ。
彰はボイスチャットをひらき、マイクの位置を指で直す。
仲間に指示を飛ばすと、画面のエルフの女性「沙雪」が、静かに口を開いた。
彰の声はボイスチェンジャーを通して、澄んだ女性の声に変換され、仲間たちはそれを沙雪の声として聞いている。
高レベルダンジョンは今日も秩序に満ちていて、正しい選択をし続ければ、高確率でラスボスまでたどりつける。
BGMが変わる。荘厳で静謐。
チームメンバーたちは、それぞれに高揚を叫ぶ。
ゴリマックス:「おっしゃあ! ブチ壊すぞおお!」
Neko☆Sugar:「がんばるにゃ~♡ 今日こそ限定コス、ほしいにゃ~!」
CrowZ:「…虚無に還る準備はできてる…」
沙雪:「ゴリマックス、前線でタゲ固定。Neko☆Sugar、回復は最優先で。CrowZは位置取り注意――開始」
さあ、腕の見せどころ。
ここは、彰の価値が証明される場所だ。
けだるい朝。
彰はあくびをかみ殺し、アパートのドアを閉めた。
通路を進み、脇の階段へ足を向ける。
角部屋で、隣室との間には階段がある。
隣と距離が取れるこのレイアウトが気に入っていたのに。
隣室を睨んだ時、ドアが開いた。
鼻唄まじりの令恩が出てきて、彰は気付かないふりで顔を逸らす。
こっちはスーツ、あっちはスウェット。
「いいご身分だな」と内心で毒づき、足取りを速めて階段を下りる。
「おっはよー! よるしろさん」
朝から無駄に明るい声が、上の通路から降ってきた。
彰は踊り場で足を止め、見上げる。
どうやら令恩は気付いていない。ならば挨拶を無視するのは不自然だと、彰は一瞬で判断した。
「……おはようございます。急いでますので」
端的に告げて、背を向ける。
令恩とは、できるだけ距離を取っておきたかった。
「あ、掃除しといたよ」
彰は令恩を見る。
自分の指示を守る人間は嫌いではない。
だが令恩が掲げる透明ゴミ袋を見て、評価は一変した。
「金沢市の指定ゴミ袋で出してください」
ルールを破る人間より、ルールそのものに無関心な人間の方が質が悪い。
「それってどこに売ってるの?」
令恩の声を無視して、階段を下りる。
そのとき、黒い影が靴先をかすめて走り抜けた。
ゴキブリだ。
とっさにバランスを崩し、彰は手すりにしがみつく。
「だいじょうぶ? 救急車よぶ~?」
げらげら笑う声が、真上から降ってくる。
彰は背筋を伸ばして息を整えると、何事もなかったように階段を下りた。
――あいつの冗談は、昔から全くおもしろくない。
舌打ちをひとつ落とし、足早にアパートを後にした。
終業後、彰はドラッグストアへ急ぐ。
目的は殺虫剤だ。
あの黒い悪魔を早急に退治しなければ、いずれ部屋への侵入を許すことになる。
棚いっぱいに並ぶ商品を見て、AIに相談した結果、緑のスプレー缶を購入した。
ジェット噴射で速攻で動きを止めるらしい。頼もしい限りだ。
アパートに帰ると、殺虫剤をお守り代わりに、裏手へそっと足を踏み入れた。
昼の熱気がまだ残っていて、足元からむっとした空気が立ちのぼる。
セミの声がやけに近く、急かされているような気分になる。
地面にエサや虫が落ちていないか、細心の注意を払って一歩ずつ進む。
果たして、現場は今日も無秩序だった。
掃除した痕跡に、新たなエサが置かれている。
令恩は話を理解していない。
できないのか、する気がないのかは置いといて、実害が出た今、餌付けは早急にやめさせたい。
そのとき、表から令恩の鼻唄が聞こえた。
彰は駆け出す。
集合ポストの前で、コンビニ袋を下げた令恩をつかまえた。
「餌付けを今すぐやめてください」
単刀直入に告げる。
令恩は「よく会うねぇ」とのんきに笑い、袋から細長い棒を取り出した。
「みてみて、猫じゃらし。釣り竿に、鳥の羽がついてるんだよ」
楽しそうに振ってみせる。
彰はこめかみを押さえた。
――いったいこいつは、何を考えている。
「ペット禁止物件で、猫に迷惑しているって、何度言えばわかる――……何してるんですか」
令恩は話を聞くどころか、大量の郵便物をまとめて引き抜いた。「102」のポストから。
令恩の部屋は202――つまり、他人の郵便物だ。
「そこ、あなたの場所じゃありませんよね」
彰の指摘を気にも留めず、令恩は郵便物を抱えて歩き出す。
おどろいて追いかける彰は、彼が102号室のチャイムを鳴らすのを見て、足を止めた。
「こんばんは~! 昨日引っ越してきた、202号室の雷堂令恩でーす」
彰は息をのむ。
予想外の事態だ。行動が破天荒すぎる。
室内からの物音に、彰は我に返った。
102号室の住人に会うのは初めてだ。
あれだけの郵便物を放置する人物――軽度認知症が入った老人か、ずぼらな中年か。
だが、ドアチェーン越しに顔を見せたのは、おどおどした若い女性だった。
「こ、こんばんは」
「はい、これ。あふれてたよ」
彼女はわたわたとドアを閉め、チェーンを外してドアを開け、丁寧な仕草で郵便物を受け取った。
「あ、ありがとう、ございます」
「おねえさん、お名前は?」
「あ……片岡笑里です」
深々と頭を下げる。
どうしても非常識な人間には見えず、彰は不可解な気持ちに包まれる。
それでも、根掘り葉掘り聞くのは憚られる。きっと人に言えない何らかの事情が――。
「エミリ、なんでポストいっぱいだったの?」
本当に令恩はデリカシーがない。
呆れると同時に、彰はその無神経が少しだけうらやましくなる。
彰も気になっていたことなので、黙ってエミリの答えを待った。
「あの、私、片足が不自由なので、どうしても後回しになってしまい……ご迷惑をおかけしてます」
彰は目を見張る。
軽々しく聞いていい話ではない。
止めようと口を開くが、令恩の方が早かった。
「そうなんだ! じゃあ俺が届けるから、いつでも言ってよ。はい、これ俺のQRコード」
彰がまばたきを繰り返す間に、ふたりは連絡先を交換した。
あぜんとする彰に、エミリが遠慮がちに目線を向ける。
「あの、そちらの方は……」
「203号室のよるしろさん」
彰はわずかに眉をひそめた。
なぜ令恩が答える。そもそも読みが違う。間違った苗字で覚えられるのも煩わしい。あとで本当の読みを知れば、なぜ訂正しなかったと詮索される。
だが令恩の前で訂正するのは避けたい。万が一にも、気づかれる可能性は排除しておきたい。
とはいえ、考えすぎかもしれない。そもそも令恩は、夜城の読みすら知らないのだから。
わずかに迷い、口を開いた。
「……“やしろ”です。よろしく」
「ええ! やしろあきらだったの?」
耳障りな声に、眉が寄る。
なぜ下の名前まで、と思った瞬間、フルネーム入りのハガキを思い出した。
「なんか演歌歌手みたい。そういえば、俺が小学生の時に引っ越していったやつが、離婚して演歌歌手みたいな名前になったって聞いたな」
「……は?」
「たしかそいつの名前も彰で……ん? もしかして相馬?」
舌打ちをこらえる。
最悪だ。
やっぱりこいつは最悪だ。
声が震えないよう、力を込めて告げる。
「……用事があるので、俺はこれで」
その場を離れようとした瞬間、令恩の声が飛んだ。
「エミリ、よかったらこれ食べてね。じゃ、また」
視界の端で、コンビニスイーツを手渡すのが見えた。
直後、令恩の声が追ってくる。
「待って、彰」
彰はとっさに踵を返した。
逃げるように、階段を駆け上がる。
203号室のカギをあけた瞬間、令恩に腕をつかまれた。
「ねえ、なんで逃げるの? もっと話そうよ」
「雷堂の人間と話すことなど、何もない」
「やっぱそれかぁ」
彰は信じられない思いで令恩を見る。
なぜこいつはこんなにも軽い。相馬の家を、潰しておいて。
「……罪悪感は無いのか? あんなことまでしといて」
「じゃあ聞くけど――彰の父親は、小学生の息子の話を、真剣に聞く人だった?」
息が詰まる。
額が熱くなり、とっさに押さえた。
涌ヶ崎地区で名の知れた地主、相馬家。
当主だった父は、八歳の彰を殴り、額を九針縫うケガを負わせた男だ。
それぐらいでなければ、務まらない――そんな価値観が横行する名家で、母は彰を守るために離婚を決意した。
令恩の言いたいことはわかる。
あのとき、令恩も小学生だった。
だが今も飄々としている姿を見ると、どうしても思ってしまう。
その生活は、相馬の土地を奪った利益の上にあるのではないかと。
「仕方ないよ。小学生の息子にできることなんて何も無いんだから。それより、お隣なんだし、仲良くしようよ」
令恩は笑い、コンビニスイーツを差し出した。
彰は殴られたような衝撃を受ける。
溝は埋まらない。
過去を笑い飛ばす令恩と、過去を引きずったままの自分では、見ている世界がまるで違う。
「……要らない」
震える声で吐き捨て、彰は部屋へと逃げ込んだ。
残された令恩は瞬きをする。
やがて202号室に戻ると、スマホを取り出した。
メッセージアプリを起動し、親友とのトーク画面を開く。
《さっき片足が不自由な女性に、郵便物を届けたよ》
送信してアプリを閉じる。
彰に拒まれたコンビニスイーツを、照明にかざした。
ココアワッフルに、クッキー入りのホイップクリームを挟んだ一品だ。
「これは“要らない”のか」
令恩は明るくうなずき、軽い手つきでゴミ箱へと落とした。
彰は布団にもぐりこみ、天井を見つめた。
頭を占めるのは令恩の存在、引っ越しもよぎったが、すぐに打ち消す。
騒音が原因で、短期間に二度も部屋を変えている。
荷造り、手続き、住所変更。数えきれない雑務に加え、職場への届出。
前回でさえ「また引っ越したのか」と呆れられた。これ以上は、もう無理だ。
それに、この角部屋は、気に入っている。
深夜でも、気兼ねなくゲームができる造りだ。
バス一本で職場に行けて、実家も近い。
初めて長く住みたいと思えた場所だ。
令恩の部屋は、階段を挟んだ向こう側。
生活音も届かず、普通に暮らしていれば、その存在を意識することはない。
「俺が出ていく必要はない」
自分に言い聞かせ、目を閉じる。
二度寝返りを打ち、彰は観念して布団から出た。
この状況で眠れるほど、能天気ではない。
デスクの前に座り、パソコンの電源を入れる。
モニターが明るく光る。
ログインすれば、ギルドチャットが一気に流れた。
《野生の沙雪姉さん、発見!》
《レア指揮官、確保じゃー!》
すぐにパーティー招待が飛んできた。
承諾を押した瞬間、メンバーたちが一斉に跳ねた。
拍手や歓声のエモートが次々と湧き上がる。
直後。
《何うちの沙雪たんに群がっとんじゃボケ!!》
一瞬、ギルドチャットが止まった。
《やべぇNeko☆Sugar来た!》
《散れ散れ! ワープ!》
「あ」
沙雪の足元に、転移の魔法陣が広がった。
次の瞬間、強制転移が発動する。
画面が白くはじけ、フィールドが切り替わる。
間近で誰かが転移し、それに巻き込まれたようだ。
《我らに勝利を! 軍師殿!》
《火力出すので指揮ください》
《命預けます》
戦闘フィールドのBGMが流れ出す。
その重低音に、胸を締めつけていた現実が、だんだん遠のいていく。
彰はキーボードに手を置いた。
ヘッドセットを引き寄せ、マイクを入れる。
――考えるのは、あとだ。
短く指示を飛ばす。
パーティーが一斉に動く。
敵を処理し、罠を抜け、隊列を崩さずダンジョンを駆け抜けていく。
警告音。
レイドボス出現。
画面中央に、ボスの巨大なHPバーが表示された。
全員の連携と、寸分の狂いもない指揮がなければ倒せない相手だ。
彰は乾いた目を瞬かせ、モニターを見据えながら、わずかに息を詰めた。
それでも――。
現実を直視するより、たやすい。
マスクで寝不足の顔をかくし、彰は義務的に職場へ向かう。
自分のデスクに『地域猫との正しい付き合い方』と書かれたチラシを見つけ、うんざりと天を仰ぐ。
グリーフケア団体の資料もあったので、河村の仕業であることが確定した。
その当人が、フロアの奥から明るいあいさつを振りまきながら歩いてくる。
資料を手にした彰を見て、目尻をゆるめた。
「夜城、それはおまえの仕事に役立つと思うぞ」
「……ありがとうございます」
形だけの礼に、河村は満足そうにうなずく。
そのまま別の職員に声をかけ、軽口を飛ばして笑っている。
彰は資料をひとまとめにして、ひきだしの奥へとねじこんだ。
そうしてやってくる無秩序な時間。
本日のトップバッターは、よりにもよって彰と揉めた高齢女性だ。
顔が引きつらないよう細心の注意を払うが、女性は彰を見るなり、あからさまに顔をしかめた。
「ちょっと。河村さんに代わってま」
「河村は別の業務についております。ご用件をお伺いします」
「あんたじゃ話にならんって言っとるやろが!」
ホストクラブじゃねぇんだぞ、と彰は内心で悪態をつく。
最初に河村がへらへらと下手に出るから、無駄に調子づかせる結果になった。
規定を曲げると秩序が乱れる。課長ともあろう河村が、率先して課を乱して何になる。
女性の怒鳴り声を聞きつけ、諸悪の根源が現れた。
「新居さん、どうしたがけ」
「あらぁ河村さん。聞きたいこと、あれんけど」
とたんに愛想よくなる新居に、彰は疲労感をかくせない。
河村に肩をたたかれ、すぐに窓口から離れる。
職員たちが河村に羨望のまなざしを向けているのに気づき、彰はマスクの下で歯を食いしばる。
正しい行動をとるたび、彰の評価は下がっていく。
仕事帰りの夕暮れ。
アパートに戻った彰は、階段下の集合ポストへ向かう。
前から来た人影とぶつかりかけ、顔を上げた彰は小さく眉をひそめた。
令恩だ。
一瞬だけ視線が合う。
彰は無言で目を逸らし、そのまま横をすり抜けた。
関わる気は無い。
「よるしろさーん」
彰のこめかみがぴくりと動く。
聞こえないふりをして、ポストを開けた。
「無視?」
軽い声が背中にまとわりつく。
ポストの中身は空だった。
わざわざここまで来たことを、彰は早くも後悔する。
「市民の声、ちゃんと聞いてくださいよー」
手が止まる。
ゆっくり振り向くと、声音どおり軽薄な笑みを浮かべた令恩が、気楽そうに立っていた。
「……なぜ」
短く問う。
令恩はすぐに意味を察した。
「市役所勤務の友達と、同じ匂いだから」
「犬かよ!」
「マジレスすると、出退勤が規則正しい、話し方が公務員、俺らのことを“市民”って呼ぶ」
うそだろ、と彰は頭を抱えたくなった。
令恩は得意げな顔のまま続ける。
「で、猫の件だけど」
「……餌付けはやめろ」
「俺じゃないって」
「信じられるか」
「二日前だよ」
「なにが」
「俺が引っ越してきたの。ここのエサ、もっと前からあった感じじゃん」
その言葉で、令恩がエミリにもそんなことを言っていたことを思い出す。
まったく気づかなかった己のうかつさに、彰は頬が熱くなる。
「……まぎらわしいことをするからだ」
反射的に口をついて出た。
令恩は首を少し傾けた。
からかっているのか、本気なのか分からない顔だ。
「彰、地域猫の制度とか調べてきてよ。市役所なら、専門家のツテくらいあるでしょ」
一瞬、河村の顔が浮かぶ。
だがすぐに、頭の中で却下した。
厄介な上司の力を借りる気は、これっぽっちもない。
「……犯人を突きとめて正せば、済む話だ」
「じゃあ勝負しよう。先に真犯人を見つけた方の勝ち!」
「くだらない」
「逃げるんだ。まあ、逆上がりも出来ないような男には無理か」
「……はあ?」
思い切り低い声が出た。
彰はずかずかと令恩に近づく。
「授業中にいっつも騒いでた問題児に言われたくねぇよ」
「給食残すのはエコじゃないよねぇ。SDGsと正反対」
「食いすぎて腹痛起こすよりマシだ」
「そういえばゴキブリ見て泣いてたよね。昨日大丈夫だった? あのあと泣いてない?」
「うっぜぇ」
「はい、俺のQRコード。逃げてもいいよ。大縄跳びの時も、そうだったもんね」
「あれは体調不良だ!」
「繊細なんだねー。じゃあ俺の不戦勝ってことで」
スマホを仕舞おうとする令恩の腕を、彰はつかんで引っ張る。
「おまえごときに負けるはずねぇだろ。こちとら泉丘からの金大卒だ!」
学力で令恩に負ける気はしない。
令恩のQRコードを読み込み、友だち追加をタップする。
「何だこのアイコン、ふざけてるのか」
ゆるい絵柄のライオンが、やけに調子に乗った顔をしている。
そのとき、画面にメッセージ通知が出た。
《学歴で犯人捜すんだー。見つかればいいねー》
令恩の肩を殴れば、楽しそうにげらげら笑われた。




