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前編

『ネコにエサを与えないでください』

 赤文字の警告ポスター。

 その真下に、ひび割れたプラスチック皿と腐敗したエサが転がっている。

 アパートの裏手をのぞいた(あきら)は、むらがるハエの影に眉をひそめた。


――またか。


 犯人の悪意を感じる。警告文の真下に置くなど、挑発以外にありえない。

 管理会社も無能だ。ペット禁止のアパートで餌付(えづ)けをする人間が、張り紙一枚で悔い改めるはずがない。


 彰はスマホで現場を撮影する。

 平穏が脅かされる前兆は見過ごせない。

 証拠を集め、いざという時は戦ってみせる――もう無力な子供ではない。


 朝の六時台だというのに、すでに熱気が充満している。 

 さわがしいセミの声を払うように、彰は(きびす)を返した。 




 昼下がりの金沢市役所。

 環境政策課(かんきょうせいさくか)の窓口では、職員と市民がおだやかに言葉を交わす。

 プリンターの駆動音と、書類をめくる紙の音。

 ゆるやかに流れる時間を、ひときわ強い金沢弁が切り裂いた。


「やし、飼い猫じゃないって()っとるやろが!」


 高齢女性の怒鳴り声が、室内の空気を震わせる。

 周囲の視線があつまり、ざわめきが沈下する。


 彰はその正面で、背筋を伸ばす。

 新卒で市役所に入って6年。窓口業務は2年目だが、中堅社員の自覚ゆえ、屈する選択肢は無い。


「不妊手術費用の助成は“市内に生息する飼い主のいない猫”に限られますので」


 女性はカウンターを指先で叩き、彰のネームプレートを一瞥(いちべつ)する。


「いいか、よるしろさん」

夜城(やしろ)です」

「……あのな、母猫はうちのやけど、子猫は知らん。ほっといたら、また要らん猫が増えるって、旦那もうるさいんや」


 そもそも飼い猫を放置するから増えたのだ。

 惰性で生きる人間ほど、平然とルールをねじまげる。そのツケを、なぜ他人に支払わせようとするのか。

 責任転嫁も甚だしいと、彰ははっきり発音する。


「規則ですので」

「お役所仕事も、いい加減にしたらどうや!」


 女性は唾を飛ばして怒鳴る。

 もうマスクは必須ではないが、こういう市民がいる以上、仕事中は外せない。


 好奇な視線が、集中している。圧力。期待。予測。

 興味本位の視線の波にも、彰は無表情を崩さない。


 彰の背後から、ゆるい声がした。


「どうされましたかね~?」


 課長の河村だ。今日も軽薄な笑顔で、のんびりこちらに歩いてくる。

 肩をたたかれ、彰は自分のデスクへ戻った。


 耳をそばだてていると、女性が語る経緯では、彰は偏屈で融通が利かない職員に仕立てあげられている。

 そのカスハラ案件を傍聴していると、河村は女性と雑談したあげく、彼女の肩を持ちはじめた。


「え! 野良猫の不妊手術してくれるん? 助かるわー。子猫、何匹おるん?」

「それが五匹もおって」

「大変やがいね」

「おいね。助成もらわな、やってけん」

「ぜひ使ってま。こういう制度は活かさんと、すぐ終わってしまうげんて」

「あんやと。きのどくな」

「なんもや。気ぃつけてね」


 女性は笑顔で帰っていった。

 河村は軽い笑顔を浮かべたまま、彰のところにやってくる。


「夜城が間違っているとはいわないが、彼女は夫を亡くしたばかりだ。もうすこし寄り添った対応を――」

「え、でも」


 彼女は配偶者の話をしていたはずだ。

 彰の疑問に気づいた河村は、複雑そうに苦笑した。


「亡くして日が浅いと、どうしてもなぁ……。夜城、興味があるなら、グリーフケア団体の資料をやるよ。俺が動物愛護センターにいたとき、ちょうど連携した事例があって――」

「それでも、規則違反は困ります」


 話を切って、立ち上がる。

 河村の顔は見ずに、窓口へと戻った。




 疲れた顔で帰宅した彰は、階段下の共有スペースに向かう。

 くたびれた蛍光灯の下に、六つの集合ポストが並んでいる。

 名札が空白の203を開けると、携帯会社からのハガキが一通。

 破りにくい耐水紙に、いささか面倒臭さを覚える。


 斜め下の102のポストは、いつも郵便物があふれていて、嫌でも目についた。

 投入口からのぞく封筒の隙間に、情報誌やハガキが所狭しとねじ込まれている。


 去年、彰がこのアパートに引っ越してきた時からそうだ。

 年に数回、回収されることがあるため、孤独死案件ではなさそうだが。


 こういうだらしない人間がいると防犯意識が下がる。

 だから何をやってもいいと思う人間が発生して、ついには野良猫に餌付けする人間まで出てくるのだろう。


 そのとき、陽気な鼻唄が聞こえてきた。

 裏手だ。エサのある場所。


 彰はハガキを握りしめ、音のする方へと急ぐ。

 壁からのぞき込むと、しゃがんで猫をなでながら、サンドイッチを食べる男がいた。

 こんな不衛生極まりない場所で食事ができる神経の持ち主など、餌付け犯以外に考えられない。

 彰はレコーダーアプリを起動させ、スマホとハガキをポケットに滑らせ、気合を入れて足を踏み出した。


「すみません。このアパートの方ですか」

 

 男は咀嚼(そしゃく)しながら、彰を見上げてうなずく。

 ブラウンに金が混ざった髪、その毛先が無邪気に跳ねた。


「貼り紙にも書いてあるとおり、餌付けはしないでください。市の条例でも指導の対象です。近隣の市民にも迷惑ですので」


 小首をかしげ、男は猫を抱いて立ち上がる。

 近くで見ると、体格がいい。

 シルバーチェーンのネックレスと、オーバーサイズの黒シャツが相まって、陽キャオーラが全身から出ている――苦手なタイプだ。


「あー、誰だっけ」

「初対面です」


 彰が返答すれば、何がおかしいのか、男がけらけら笑った。


「ストレス溜まってる? 猫、足りてないんじゃない?」


 目ヤニだらけの猫を近づけられ、彰はおもわず一歩とびのく。

 白黒のブチ猫は、先だけが黒いしっぽを、抗議するように揺らした。


「その猫に迷惑しているんです」

「でもさ、猫は全部ゆるしてくれるよ。最高に必要な存在だって」


 男は猫に頬ずりする。

 よくもあんな汚れた猫に、と彰はドン引きしながら言い返す。


「要不要の話ではありません。ルールは守ってください。……ここも必ず掃除してください」

「ごめんにゃー♪」


 男は猫の前足をつかんで、ひらひら振らせた。

 まったく真剣味のない態度に、彰は眉をひそめる。


「……お名前を伺ってもよろしいですか」

「首輪が無いから分からないにゃ」

「ふざけないでください。あなた住人ですよね? 何号室のどなたですか」

「俺? 202号室の雷堂令恩(らいどう れおん)でーす」


 彰の心臓が大きく跳ねた。

 雷堂。

 忘れもしないその名前。

 相馬(そうま)の土地を根こそぎ奪い、一家離散に追い込んだ元凶の、『雷堂建設』。


 ある時期を境に、土地をよこせと荒っぽい男たちが家に来るようになった。

 断れば嫌がらせが続き、相馬家当主だった父は、先祖代々継承してきた土地を手放した。


 嫌がらせに屈するような人でない。

 何より世間体を気にする性分だったから、小学生だった彰には分からない、田舎特有のどうにもならない事情があったのだろう。

 

 あとで知ったことだが、似たような話は近隣でいくつかあった。

 どれも最終的に土地を買い取るのは、雷堂建設。

 偶然にしては出来すぎていると、真実味を帯びた黒い噂が、絶えることはなかった。

 

「202号室って、猫に縁がある番号じゃない? にゃんにゃんって」


 令恩は猫の体を左右に揺らし、小さく鳴いた猫と目を合わせている。

 雷堂という姓は珍しい。

 社長は九州出身らしいが、市役所勤務の彰でさえ、雷堂の名を持つ者を、その家族以外に見たことがない。


「猫っていいよな。小学生の時、マカロニって名前の茶トラを飼っていて――」


 令恩が笑う。その笑顔が、記憶の中の、小学生の令恩と重なる。

 間違いない。

 こいつはあの雷堂建設社長の息子だ。


 熱くなった額を押さえ、おもわず後ずさる。

 その動きで、ポケットからハガキがするりと抜け落ちた。

 そのまま乾いた土を滑り、運悪く令恩の足元まで転がった。


 彰の息が止まる。

 令恩が拾い上げるのを、彰は微動だにできず凝視する。

 令恩は宛名に目を落とすと、少しだけ口の端を上げた。


「よろしく、よるしろさん」

「…………ああ」


 ようやく肺に空気が戻った。

 手の震えを慎重に隠し、ハガキを受け取る。


 そう、令恩は知らないはずだ。

 引っ越した彰が、親の離婚で苗字が変わったことも、母親の旧姓が夜城(やしろ)だということも。

 彰は一刻も早くこの場を立ち去るのが賢明だと判断を下す。


「……とにかく、餌付けはしないでください」


 自分の声さえ遠くに聞こえる。

 令恩が何かを言ったが、彰は構わず踵を返した。




 逃げるように帰宅し、施錠したドアを背に、彰は深く息を吐く。

 雷堂令恩。因縁の相手が、隣室にいたなんて。

 いや、違う。過去は過去だ。自分はもう相馬の姓でも、その跡取りでもない。

 己に強く言い聞かせ、彰はのろのろと靴を脱いだ。


 ゲーミングパソコンに全振りした部屋は、殺風景きわまりない。

 ハンガーラックとベッドがあるだけ、食事はゲーム中に摂れるものしか選ばないから、テーブルすら置いていない。


 よけいなことを考える前に、イスを引き寄せ、電源を入れた。

 ファンが唸り、モニターが青白く灯る。

 黒のヘッドセットを付け、ログイン画面を抜けると、見慣れたロビーが広がった。


 キーボードの打鍵音とともに、彰の意識はオンラインへと潜っていく。

 理不尽な現実から距離を置くため、この世界に潜るようになって久しい。

 ここでは、関わる相手も距離感も自分で決められる。

 少なくとも、いきなり土足で踏み荒らされることはない。


 パーティメンバーの名前が、画面の端に並ぶ。

 Neko☆Sugar(ネコ シュガー)CrowZ(クローゼット)、ゴリマックス――いつもの顔ぶれだ。

 彰はボイスチャットをひらき、マイクの位置を指で直す。

 仲間に指示を飛ばすと、画面のエルフの女性「沙雪(さゆき)」が、静かに口を開いた。

 彰の声はボイスチェンジャーを通して、澄んだ女性の声に変換され、仲間たちはそれを沙雪の声として聞いている。


 高レベルダンジョンは今日も秩序に満ちていて、正しい選択をし続ければ、高確率でラスボスまでたどりつける。

 BGMが変わる。荘厳で静謐(せいひつ)

 チームメンバーたちは、それぞれに高揚を叫ぶ。


ゴリマックス:「おっしゃあ! ブチ壊すぞおお!」

Neko☆Sugar:「がんばるにゃ~♡ 今日こそ限定コス、ほしいにゃ~!」

CrowZ:「…虚無に(かえ)る準備はできてる…」

沙雪:「ゴリマックス、前線でタゲ固定。Neko☆Sugar、回復は最優先で。CrowZは位置取り注意――開始」


 さあ、腕の見せどころ。

 ここは、彰の価値が証明される場所だ。




 けだるい朝。

 彰はあくびをかみ殺し、アパートのドアを閉めた。

 通路を進み、脇の階段へ足を向ける。


 角部屋で、隣室との間には階段がある。

 隣と距離が取れるこのレイアウトが気に入っていたのに。


 隣室を睨んだ時、ドアが開いた。

 鼻唄まじりの令恩が出てきて、彰は気付かないふりで顔を逸らす。

 こっちはスーツ、あっちはスウェット。

 「いいご身分だな」と内心で毒づき、足取りを速めて階段を下りる。


「おっはよー! よるしろさん」


 朝から無駄に明るい声が、上の通路から降ってきた。

 彰は踊り場で足を止め、見上げる。

 どうやら令恩は気付いていない。ならば挨拶を無視するのは不自然だと、彰は一瞬で判断した。


「……おはようございます。急いでますので」


 端的に告げて、背を向ける。

 令恩とは、できるだけ距離を取っておきたかった。


「あ、掃除しといたよ」


 彰は令恩を見る。

 自分の指示を守る人間は嫌いではない。

 だが令恩が掲げる透明ゴミ袋を見て、評価は一変した。


「金沢市の指定ゴミ袋で出してください」


 ルールを破る人間より、ルールそのものに無関心な人間の方が(たち)が悪い。


「それってどこに売ってるの?」


 令恩の声を無視して、階段を下りる。

 そのとき、黒い影が靴先をかすめて走り抜けた。

 ゴキブリだ。

 とっさにバランスを崩し、彰は手すりにしがみつく。


「だいじょうぶ? 救急車よぶ~?」


 げらげら笑う声が、真上から降ってくる。

 彰は背筋を伸ばして息を整えると、何事もなかったように階段を下りた。


 ――あいつの冗談は、昔から全くおもしろくない。


 舌打ちをひとつ落とし、足早にアパートを後にした。




 終業後、彰はドラッグストアへ急ぐ。

 目的は殺虫剤だ。

 あの黒い悪魔を早急に退治しなければ、いずれ部屋への侵入を許すことになる。


 棚いっぱいに並ぶ商品を見て、AIに相談した結果、緑のスプレー缶を購入した。

 ジェット噴射で速攻で動きを止めるらしい。頼もしい限りだ。


 アパートに帰ると、殺虫剤をお守り代わりに、裏手へそっと足を踏み入れた。

 昼の熱気がまだ残っていて、足元からむっとした空気が立ちのぼる。

 セミの声がやけに近く、急かされているような気分になる。  

 地面にエサや虫が落ちていないか、細心の注意を払って一歩ずつ進む。


 果たして、現場は今日も無秩序だった。

 掃除した痕跡に、新たなエサが置かれている。

 令恩は話を理解していない。

 できないのか、する気がないのかは置いといて、実害が出た今、餌付けは早急にやめさせたい。


 そのとき、表から令恩の鼻唄が聞こえた。

 彰は駆け出す。

 集合ポストの前で、コンビニ袋を下げた令恩をつかまえた。


「餌付けを今すぐやめてください」


 単刀直入に告げる。

 令恩は「よく会うねぇ」とのんきに笑い、袋から細長い棒を取り出した。


「みてみて、猫じゃらし。釣り竿に、鳥の羽がついてるんだよ」


 楽しそうに振ってみせる。

 彰はこめかみを押さえた。

 ――いったいこいつは、何を考えている。


「ペット禁止物件で、猫に迷惑しているって、何度言えばわかる――……何してるんですか」


 令恩は話を聞くどころか、大量の郵便物をまとめて引き抜いた。「102」のポストから。

 令恩の部屋は202――つまり、他人の郵便物だ。


「そこ、あなたの場所じゃありませんよね」


 彰の指摘を気にも留めず、令恩は郵便物を抱えて歩き出す。

 おどろいて追いかける彰は、彼が102号室のチャイムを鳴らすのを見て、足を止めた。


「こんばんは~! 昨日引っ越してきた、202号室の雷堂令恩でーす」


 彰は息をのむ。

 予想外の事態だ。行動が破天荒すぎる。


 室内からの物音に、彰は我に返った。

 102号室の住人に会うのは初めてだ。

 あれだけの郵便物を放置する人物――軽度認知症が入った老人か、ずぼらな中年か。

 だが、ドアチェーン越しに顔を見せたのは、おどおどした若い女性だった。


「こ、こんばんは」

「はい、これ。あふれてたよ」


 彼女はわたわたとドアを閉め、チェーンを外してドアを開け、丁寧な仕草で郵便物を受け取った。


「あ、ありがとう、ございます」

「おねえさん、お名前は?」

「あ……片岡笑里(かたおか えみり)です」


 深々と頭を下げる。

 どうしても非常識な人間には見えず、彰は不可解な気持ちに包まれる。

 それでも、根掘り葉掘り聞くのは(はばか)られる。きっと人に言えない何らかの事情が――。


「エミリ、なんでポストいっぱいだったの?」


 本当に令恩はデリカシーがない。

 呆れると同時に、彰はその無神経が少しだけうらやましくなる。

 彰も気になっていたことなので、黙ってエミリの答えを待った。


「あの、私、片足が不自由なので、どうしても後回しになってしまい……ご迷惑をおかけしてます」


 彰は目を見張る。

 軽々しく聞いていい話ではない。

 止めようと口を開くが、令恩の方が早かった。


「そうなんだ! じゃあ俺が届けるから、いつでも言ってよ。はい、これ俺のQRコード」


 彰がまばたきを繰り返す間に、ふたりは連絡先を交換した。

 あぜんとする彰に、エミリが遠慮がちに目線を向ける。


「あの、そちらの方は……」

「203号室のよるしろさん」


 彰はわずかに眉をひそめた。

 なぜ令恩が答える。そもそも読みが違う。間違った苗字で覚えられるのも煩わしい。あとで本当の読みを知れば、なぜ訂正しなかったと詮索される。

 だが令恩の前で訂正するのは避けたい。万が一にも、気づかれる可能性は排除しておきたい。

 とはいえ、考えすぎかもしれない。そもそも令恩は、夜城の読みすら知らないのだから。


 わずかに迷い、口を開いた。


「……“やしろ”です。よろしく」

「ええ! やしろあきらだったの?」


 耳障りな声に、眉が寄る。

 なぜ下の名前まで、と思った瞬間、フルネーム入りのハガキを思い出した。


「なんか演歌歌手みたい。そういえば、俺が小学生の時に引っ越していったやつが、離婚して演歌歌手みたいな名前になったって聞いたな」

「……は?」

「たしかそいつの名前も彰で……ん? もしかして相馬?」


 舌打ちをこらえる。

 最悪だ。

 やっぱりこいつは最悪だ。

 

 声が震えないよう、力を込めて告げる。


「……用事があるので、俺はこれで」


 その場を離れようとした瞬間、令恩の声が飛んだ。


「エミリ、よかったらこれ食べてね。じゃ、また」


 視界の端で、コンビニスイーツを手渡すのが見えた。

 直後、令恩の声が追ってくる。


「待って、彰」


 彰はとっさに(きびす)を返した。

 逃げるように、階段を駆け上がる。

 203号室のカギをあけた瞬間、令恩に腕をつかまれた。


「ねえ、なんで逃げるの? もっと話そうよ」

「雷堂の人間と話すことなど、何もない」

「やっぱそれかぁ」


 彰は信じられない思いで令恩を見る。

 なぜこいつはこんなにも軽い。相馬の家を、潰しておいて。


「……罪悪感は無いのか? あんなことまでしといて」

「じゃあ聞くけど――彰の父親は、小学生の息子の話を、真剣に聞く人だった?」


 息が詰まる。

 額が熱くなり、とっさに押さえた。


 涌ヶ崎(わきがさき)地区で名の知れた地主、相馬家。

 当主だった父は、八歳の彰を殴り、額を九針縫うケガを負わせた男だ。

 それぐらいでなければ、務まらない――そんな価値観が横行する名家で、母は彰を守るために離婚を決意した。


 令恩の言いたいことはわかる。

 あのとき、令恩も小学生だった。

 だが今も飄々(ひょうひょう)としている姿を見ると、どうしても思ってしまう。

 その生活は、相馬の土地を奪った利益の上にあるのではないかと。


「仕方ないよ。小学生の息子にできることなんて何も無いんだから。それより、お隣なんだし、仲良くしようよ」


 令恩は笑い、コンビニスイーツを差し出した。

 彰は殴られたような衝撃を受ける。

 溝は埋まらない。

 過去を笑い飛ばす令恩と、過去を引きずったままの自分では、見ている世界がまるで違う。


「……要らない」


 震える声で吐き捨て、彰は部屋へと逃げ込んだ。


 残された令恩は瞬きをする。

 やがて202号室に戻ると、スマホを取り出した。

 メッセージアプリを起動し、親友とのトーク画面を開く。


《さっき片足が不自由な女性に、郵便物を届けたよ》


 送信してアプリを閉じる。

 彰に拒まれたコンビニスイーツを、照明にかざした。

 ココアワッフルに、クッキー入りのホイップクリームを挟んだ一品だ。


「これは“要らない”のか」


 令恩は明るくうなずき、軽い手つきでゴミ箱へと落とした。




 彰は布団にもぐりこみ、天井を見つめた。

 頭を占めるのは令恩の存在、引っ越しもよぎったが、すぐに打ち消す。


 騒音が原因で、短期間に二度も部屋を変えている。

 荷造り、手続き、住所変更。数えきれない雑務に加え、職場への届出。

 前回でさえ「また引っ越したのか」と呆れられた。これ以上は、もう無理だ。


 それに、この角部屋は、気に入っている。

 深夜でも、気兼ねなくゲームができる造りだ。

 バス一本で職場に行けて、実家も近い。

 初めて長く住みたいと思えた場所だ。


 令恩の部屋は、階段を挟んだ向こう側。

 生活音も届かず、普通に暮らしていれば、その存在を意識することはない。

 

「俺が出ていく必要はない」


 自分に言い聞かせ、目を閉じる。

 二度寝返りを打ち、彰は観念して布団から出た。

 この状況で眠れるほど、能天気ではない。


 デスクの前に座り、パソコンの電源を入れる。

 モニターが明るく光る。

 ログインすれば、ギルドチャットが一気に流れた。


《野生の沙雪姉さん、発見!》

《レア指揮官、確保じゃー!》


 すぐにパーティー招待が飛んできた。

 承諾を押した瞬間、メンバーたちが一斉に跳ねた。

 拍手や歓声のエモートが次々と湧き上がる。


 直後。


《何うちの沙雪たんに群がっとんじゃボケ!!》


 一瞬、ギルドチャットが止まった。


《やべぇNeko☆Sugar来た!》

《散れ散れ! ワープ!》


「あ」


 沙雪の足元に、転移の魔法陣が広がった。

 次の瞬間、強制転移が発動する。

 画面が白くはじけ、フィールドが切り替わる。

 間近で誰かが転移し、それに巻き込まれたようだ。


《我らに勝利を! 軍師殿!》

《火力出すので指揮ください》

《命預けます》


 戦闘フィールドのBGMが流れ出す。

 その重低音に、胸を締めつけていた現実が、だんだん遠のいていく。

 

 彰はキーボードに手を置いた。

 ヘッドセットを引き寄せ、マイクを入れる。


――考えるのは、あとだ。


 短く指示を飛ばす。

 パーティーが一斉に動く。

 敵を処理し、罠を抜け、隊列を崩さずダンジョンを駆け抜けていく。


 警告音。

 レイドボス出現。

 画面中央に、ボスの巨大なHPバーが表示された。

 全員の連携と、寸分の狂いもない指揮がなければ倒せない相手だ。


 彰は乾いた目を瞬かせ、モニターを見据えながら、わずかに息を詰めた。


 それでも――。

 現実を直視するより、たやすい。




 マスクで寝不足の顔をかくし、彰は義務的に職場へ向かう。

 自分のデスクに『地域猫との正しい付き合い方』と書かれたチラシを見つけ、うんざりと天を仰ぐ。

 グリーフケア団体の資料もあったので、河村の仕業であることが確定した。


 その当人が、フロアの奥から明るいあいさつを振りまきながら歩いてくる。

 資料を手にした彰を見て、目尻をゆるめた。


「夜城、それはおまえの仕事に役立つと思うぞ」

「……ありがとうございます」


 形だけの礼に、河村は満足そうにうなずく。

 そのまま別の職員に声をかけ、軽口を飛ばして笑っている。

 彰は資料をひとまとめにして、ひきだしの奥へとねじこんだ。


 そうしてやってくる無秩序な時間。

 本日のトップバッターは、よりにもよって彰と揉めた高齢女性だ。

 顔が引きつらないよう細心の注意を払うが、女性は彰を見るなり、あからさまに顔をしかめた。


「ちょっと。河村さんに代わってま」

「河村は別の業務についております。ご用件をお伺いします」

「あんたじゃ話にならんって言っとるやろが!」


 ホストクラブじゃねぇんだぞ、と彰は内心で悪態をつく。

 最初に河村がへらへらと下手に出るから、無駄に調子づかせる結果になった。

 規定を曲げると秩序が乱れる。課長ともあろう河村が、率先して課を乱して何になる。

 女性の怒鳴り声を聞きつけ、諸悪の根源が現れた。


新居(あらい)さん、どうしたがけ」 

「あらぁ河村さん。聞きたいこと、あれんけど」


 とたんに愛想よくなる新居に、彰は疲労感をかくせない。

 河村に肩をたたかれ、すぐに窓口から離れる。

 職員たちが河村に羨望のまなざしを向けているのに気づき、彰はマスクの下で歯を食いしばる。

 正しい行動をとるたび、彰の評価は下がっていく。

 



 仕事帰りの夕暮れ。

 アパートに戻った彰は、階段下の集合ポストへ向かう。

 前から来た人影とぶつかりかけ、顔を上げた彰は小さく眉をひそめた。

 令恩だ。


 一瞬だけ視線が合う。

 彰は無言で目を逸らし、そのまま横をすり抜けた。

 関わる気は無い。


「よるしろさーん」


 彰のこめかみがぴくりと動く。

 聞こえないふりをして、ポストを開けた。


「無視?」


 軽い声が背中にまとわりつく。

 ポストの中身は空だった。

 わざわざここまで来たことを、彰は早くも後悔する。


「市民の声、ちゃんと聞いてくださいよー」


 手が止まる。

 ゆっくり振り向くと、声音どおり軽薄な笑みを浮かべた令恩が、気楽そうに立っていた。


「……なぜ」


 短く問う。

 令恩はすぐに意味を察した。


「市役所勤務の友達と、同じ匂いだから」

「犬かよ!」

「マジレスすると、出退勤が規則正しい、話し方が公務員、俺らのことを“市民”って呼ぶ」


 うそだろ、と彰は頭を抱えたくなった。

 令恩は得意げな顔のまま続ける。


「で、猫の件だけど」

「……餌付けはやめろ」

「俺じゃないって」

「信じられるか」

「二日前だよ」

「なにが」

「俺が引っ越してきたの。ここのエサ、もっと前からあった感じじゃん」


 その言葉で、令恩がエミリにもそんなことを言っていたことを思い出す。

 まったく気づかなかった己のうかつさに、彰は頬が熱くなる。


「……まぎらわしいことをするからだ」


 反射的に口をついて出た。

 令恩は首を少し傾けた。

 からかっているのか、本気なのか分からない顔だ。


「彰、地域猫の制度とか調べてきてよ。市役所なら、専門家のツテくらいあるでしょ」

 

 一瞬、河村の顔が浮かぶ。

 だがすぐに、頭の中で却下した。

 厄介な上司の力を借りる気は、これっぽっちもない。

 

「……犯人を突きとめて正せば、済む話だ」

「じゃあ勝負しよう。先に真犯人を見つけた方の勝ち!」

「くだらない」

「逃げるんだ。まあ、逆上がりも出来ないような男には無理か」

「……はあ?」


 思い切り低い声が出た。

 彰はずかずかと令恩に近づく。


「授業中にいっつも騒いでた問題児に言われたくねぇよ」

「給食残すのはエコじゃないよねぇ。SDGsと正反対」

「食いすぎて腹痛起こすよりマシだ」

「そういえばゴキブリ見て泣いてたよね。昨日大丈夫だった? あのあと泣いてない?」

「うっぜぇ」

「はい、俺のQRコード。逃げてもいいよ。大縄跳びの時も、そうだったもんね」

「あれは体調不良だ!」

「繊細なんだねー。じゃあ俺の不戦勝ってことで」


 スマホを仕舞おうとする令恩の腕を、彰はつかんで引っ張る。


「おまえごときに負けるはずねぇだろ。こちとら泉丘(いずみがおか)からの金大(きんだい)卒だ!」


 学力で令恩に負ける気はしない。

 令恩のQRコードを読み込み、友だち追加をタップする。


「何だこのアイコン、ふざけてるのか」


 ゆるい絵柄のライオンが、やけに調子に乗った顔をしている。

 そのとき、画面にメッセージ通知が出た。


《学歴で犯人捜すんだー。見つかればいいねー》


 令恩の肩を殴れば、楽しそうにげらげら笑われた。

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