九月十六日 その1
体育祭がやってきた。クラス対抗でポイントを競い体を動かして心を成長させていく行事です、と担任の先生が語っていた。亜悠と出会って以来僕の中で確かに変わったことがある。一つは美術に対する取り組み。そして少しだけ臆病な心が強くなった。
この日は朝早く起きて油絵の勉強からとりかかった。そしてやや遅刻気味で学校に着いた。天気は幸いにも晴れに恵まれた。
『それでは選手宣誓です』
代表の男女の生徒が宣誓する。生徒は一年生から三年生まで皆正しく列をつくっている。その中で亜悠の事を考える。帰り道で僕が画家に、亜悠がダンサーになれるようにと彼女と話したあの出来事は決して約束なんかじゃないけれど、あれから僕は君と同じ速度で生きている実感がするんだ。例えば一緒に歩いている歩幅も、リズムも狂いがない感覚。大切にゆっくりとズレないようにどこまでも一緒に歩いていきたい。チラッと亜悠の方を見ようとしたけれど、君も同じ気持ちのはずだよねとテレパシーが通じるように祈って、あえて彼女を見ないようにした。独りよがりな考え方だけれど。
宣誓が終わり、生徒達は自分のクラスの場所へと集まり競技に備えている。それぞれの学年を区別するために生徒達は指定された色の鉢巻をしている。僕の出番はまだ先だ。
さっそく第一種目男子百メートル走が始まろうとしていた。低学年から順番にスタートしていく。三年生の番になると、エントリーしていた光村が自分のコースのスターティングブロックに入ろうとしていた。
「キャー! 光村くーん! 頑張ってー!」
「光村くん! 応援してるー!」
「浩也センパーイ!」
学年問わず女子生徒の同級生、後輩から黄色い声援がとぶ光村。予想以上の声援を僕は遠回しに見ていた。
「キャーキャーうるっせえなあ。主役は絶賛のラブコールってか。体育祭はアイドルのコンサートじゃねえんだぞ。ったく」
両手を後頭部に組んであぐらをかいている直樹は愚痴をこぼしている。
声援を浴びている光村の顔は遠くてよくわからないがあまり嬉々とした印象ではないように映る。
「あんなにキャーキャー言われてんだから周りに笑顔のサービスひとつぐらいみせろよ。モテて当然と思ってるんだろうな。あ―ダルい」
直樹はそう言い地面に横になった。ふて寝したらしい。龍太郎は体育座りをして細い目で光村の方を見ていた。僕は光村がもう少しよく見えるようにトラックの傍に近づいた。
「位置について」
スターターピストルをもった審判役の生徒が合図をすると同時にそれを掲げる。それぞれの選手たちが自分のペースでクラウチングの構えに入る。
「用意!」
スターターピストルの音が鳴ると同時に位置についていた選手たちは一斉にクラウチングの状態からダッシュした。
そのスタートを一番威勢よくきったのは光村だった。グングン加速していくその間の彼の表情はクールだった。シャカリキな表情ではない。同じダッシュをしている選手達はみな光村を追い抜こうと歯を食いしばって走っている。
結局誰も先頭の光村の位置を奪えないまま決着を迎えた。一位は光村。
「キャー!」
「カッコイイー!」
思っていた通りの結果になった。その結果に今更男子達は誰も驚かない。あいつだけは特別だから。
走り終わると間髪入れずに生徒達の間を通っていく光村。彼は亜悠の元に行くとさっきまで見せなかった笑顔をうかべ彼女と話している。亜悠も笑顔だ。……一体どんな話をしているんだろう。
それからしばらく二人で話をしている。周りは気を遣うように二人から距離をあけていた。二人に漂う雰囲気は周りより異彩を放っていて、僕はといえばそんな二人の後ろ姿に目を奪われていた。
「じゃあいってくる」
龍太郎はそう言うと走り幅跳びの測定をしている砂場へと足を運んだ。まあまだ自分の出番は先だから付き添うことにした。
「記録! 四メートル五センチ!」
龍太郎の幅跳びの記録を審判が高らかに申告する。
「創太」
「ん?」
龍太郎は僕に話しかけるとグラウンドのトラックの方を指さした。見れば女子の百メートル走が始まろうとしていた。亜悠の出番がもう近い。
「あ! 百メートル走! サンキュー!」
龍太郎は、「ん」とだけ返事を返す。僕は亜悠の姿が近くで見れるように百メートル走が行われるトラックのすぐ近くの場所に腰を下ろした。
彼女は百メートル走の選手達が並ぶ列の最後方で脚を伸ばしてストレッチをおこなっていた。髪型をポニーテールでまとめており、白い鉢巻をしている。走り終わったら彼女にこのタオルを渡してみよう。きっと喜ぶだろうな。
亜悠の出走の出番が来た。彼女は体をねじったり手足をぶらぶらゆすって丹念に体のチェックを怠らない。そうして自分のコースのスターティングブロックに足をかけた。
「位置について」
全員が位置につき構えている。僕の鼓動は高鳴った。
「用意」
スターターピストルの音と共に選手は一斉に駆け出した。みな横一線でリードを譲らないまま三十メートルあたりまで走りだす。選手たちは僕の見ている場所から顔の細かい表情がよく見える位置まで来る。亜悠はそこから体一つ先頭に抜き出た。よし! いいぞ!
そのまま亜悠は先頭を守りゴールした。一位かあ。よかった。ほっ。
亜悠はゴールした後すぐにその場にかがんで乱れた息を整えているようだった。タオルを渡すチャンスは今だ! 僕はすぐに彼女に駆け寄りタオルを渡そうとした。
あ……。
すると、光村が僕より先にタオルを持って亜悠に駆け寄っていた。
光村の差し出されたタオルを笑顔で受け取る亜悠。その光景を見つめるだけで何もできなかった。タオルは二つもいらない。僕は引き返した。もし渡せていたら、「がんばったね」なんて言ってささやかな会話でもしたかったな……。我慢するしかない。ゴールした彼女の笑顔が見れた。だからこれでいい。けれどもしその笑顔を僕だけに向けてくれたら、なんて思っちゃったんだ。彼女の眩しい笑顔を光村は独り占めしていた。僕は歯がゆくて仕方なかった。




