052話 奈落よりの帰還
奈落の最深部は、静まり返っていた。
先ほどまで空間を支配していた圧倒的な魔力の気配は消え、ただ崩落した岩と歪んだ空間の残滓だけが残されている。
その中心に、アベルは倒れていた。
「……アベル!」
ガルドが駆け寄る。全身に負った傷も構わず、地面に膝をついた。アベルの胸は、かすかに上下している。
息はある。
だが――意識はない。
「おい……聞こえるか……!」
反応はない。バルドがすぐに脈を取り、短く息を吐いた。
「生きてはいる。ただ、かなり危ない状態だ。」
リックが荒い呼吸のまま笑う。
「これで生きてるとか、どういう身体してんだよ……俺たちを助けるために…」
トーヴは静かに魔力を探る。
「……深刻な消耗だ。魔力も生命力も、限界まで引き出されている。」
ガルドはすぐに回復薬を取り出し、アベルに振りかけた。だが、薬の反応が全く現れない。
「……効いてない?」
バルドも続けて治癒魔法を展開する。
しかし――魔力は弾かれるように霧散した。
「治癒も通らない……?」
トーヴが目を細める。
「普通の傷じゃない。これは……魔力が素通りしているようだぞ…?」
リックが舌打ちする。
「厄介すぎるだろ……」
⸻
少し離れた場所。
崩れた岩壁にもたれかかるように、ルシィは座っていた。蜘蛛の脚はすでにほとんど崩れ、下半身の魔力も薄れている。だが、その表情に焦りはない。むしろ満足に近い微笑みが浮かんでいた。
「……やっぱり、足りないわね。」
かすれた声。視線の先には、意識のないアベル。
「でも……面白いものは見れたわ。」
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「魔王様。」
その言葉の響きには敬意と忠誠があった。
「もうすぐ、あなたの時代よ。」
それだけを残し、ルシィの身体は闇へと溶けるように崩れていった。
抵抗もなく。
未練もなく。
最初から役目を終えた存在のように。
⸻
沈黙が落ちる。
ガルドが低く呟く。
「……今の、聞いたな?」
リックが険しい顔をする。
「魔王…だと?復活してるっていうのか?」
バルドは短く息を吐く。
「確証はない。だが、無視できる話でもない。」
トーヴは遠くを見るように言った。
「少なくとも、こに世界のどこかで“何か”が動いているのは確かだ。」
だが誰も、それ以上は言わなかった。
今はそれどころではない。
「……とにかく、ここを出るぞ。」
ガルドが立ち上がる。
「アベルを運ぶ。」
バルドがすぐに担ぎ上げる。アベルの身体は軽い。それが逆に危険な状態であることを示していた。
「急ぐぞ。」
リックが前衛に立つ。
「ここ、長居はできねぇ。」
トーヴも頷く。
「空間が不安定だ。」
五人は崩れた奈落を進む。満身創痍のまま、それでも歩みを止めない。その中心で、アベルは意識のないまま運ばれていた。
呼びかけても反応はない。
治癒も届かない。
ただ、かろうじて“生きている”だけの存在。
ガルドが悔しそうに呟く。
「まったく……無茶しやがって。」
その声には、責める響きはなかった。ただ、生還を信じる者の静かな決意だけがあった。
奈落の出口へ。
そして王都へ。
彼らは、崩れゆく迷宮を背にして進み続ける。
まだ終わっていない。始まってしまったものを前にして、ただ一つ確かなのは――
この命を、絶対に繋がなければならないということだけだった。




