029話 深層の探索
深層区画。
学院の資料にもほとんど記載のない領域。高難度迷宮の中のさらに奥深いその区画の空気は薄く、魔力は重く沈み、足元の感覚すら微妙に狂う場所だった。
黒髪の生徒――アベルは、その空間を一人で進んでいた。
足取りは乱れない。
表情も変わらない。
ただ淡々と、最適なルートを選び続けている。
(地形は想定より安定している。崩落リスクは低い)
そう判断した直後だった。
空間が“揺れた”。
「……っ」
次の瞬間、床が消える。
正確には、魔力構造そのものが崩壊し、足場が維持できなくなった。
落下。
暗闇。
アベルは反射的に身体を捻り、壁面に短く手をかけるが、支えきれない。
重力が異常に偏る。
魔力の流れが乱れている。
(罠ではないな。おそらく構造崩壊型の自然現象)
理解はできているが、対応が間に合わない。
身体が浮き、制御が外れかけたその瞬間――
「おい、下がれ!」
低い声が響いた。
次の瞬間、横から衝撃が走る。アベルの身体が引き寄せられ、別の足場へと投げ出される。
「っと……危ねえな」
そこにいたのは、装備の擦り切れた熟練冒険者の一団だった。
年齢は高い。だが動きに無駄がない。
「新人か? こんなとこ一人で来るなよ」
リーダー格の男が肩をすくめる。
アベルは短く息を整える。
「助かった」
「助かったで済む場所じゃねえよ、ここは」
別の男が周囲を確認しながら言う。
「この層は“構造が生きてる”。常に形が変わる」
アベルは視線を巡らせる。
(動的迷宮構造。想定より変化速度が速い)
情報と現実の誤差が存在している。
「単独か?」
「そうだ」
短いやり取り。
リーダーの男は呆れたように笑う。
「無茶すんなよ、若いの」
だがその声には軽い責めよりも、経験者としての現実的な警告が混じっていた。
「この辺はな、ソロで踏み込む場所じゃねえ」
別の隊員が周囲に結界を張る。
安定した魔力の膜が空間を一時的に固定する。
「しばらくここで休め。出口まで一緒に行ってやる」
その言葉は命令ではない。
だが拒否の余地もない自然さがあった。
アベルは一瞬だけ間を置く。
「了解した」
それ以上は言わない。
熟練冒険者たちは顔を見合わせる。
「素直で助かるな」「最近の学院生にしちゃ珍しい」
軽い笑いが生まれる。
その空気の中で、アベルは周囲の魔力流を静かに観測する。
(この層は危険度が想定より高い)
情報の再評価が進む。だが同時に、どこかで別の現実も並列に存在していた。
学院。
安全な訓練区画。
レオニスの指示のもとで安定した連携を続けるヒロイン達。
そのどちらも、同じ世界の出来事だ。
だが今この瞬間、アベルが立っている場所だけは、明確に“別の難度”を持っていた。
熟練冒険者の一人が呟く。
「それにしても、よく生きてたなさっきの」
「運がいいのか、腕がいいのか……」
アベルは答えない。ただ静かに、前を見ている。
その目の先には、まだ終わりの見えない深層が広がっていた。




