1時間目:真夏の迷路
「ではみなさん、これから夏休みに入りますが、1人で海や川に行かないように!必ず大人の人といっしょに行くこと!それと、宿題は計画的にやること!夏休み最後の日に泣きながらやるなんてことにならないように!あとは――」
話なげーよ先生、とクラスの誰かから文句が飛び出す。みんな同じことを思っていたのか、クラス中からもう帰りたいだの、疲れただの、いろんな声が聞こえてくる。
この先生は今年の3月に大学を卒業したばかりらしい。
私は基本的に人に興味がないから、先生に関する情報はそれだけしか持っていない。
一気に騒がしくなるクラスの雰囲気に負けまいと、
先生も静かにしてと声を張り上げる。
「先生、大変そうだね」
私の前の席に座っている光莉が困り顔で話しかけてくる。
星乃光莉。多分私の友達。
3年生で同じクラスになってからというもの、この子はしょっちゅう私に話しかけてくる。
最初はうっとうしく思っていたけど、最近ようやく慣れてきたところだ。
「ご苦労様って感じだよね。早く終わんないかな」
「ご苦労様って目上の人が目下の人に使うらしいよ。正しいのはお疲れ様だってママが言ってた」
「へえ、そうなんだ。ご苦労様だよね」
「凛ちゃん!?」
適当に光莉の豆知識を受け流していると、先生が深くため息をついた。
「じゃあ、これで最後にします……。みんな学校の近くにある山は知ってるよね? あの山には絶対入ったらダメです! あそこにはこわ〜い怪物がいて」
「何度も聞いた! 入った人を襲って食べるって! オレ見たことあるし!」
「えっ! ウソ!」
「ウッソ〜!!」
「押谷くん! あとで職員室!」
クラスに最低一人はお調子者のヤツがいる。
このチビでバカでいじめっ子で脳みそ矮小ガキ大将の押谷響がそうだ。
私より小さいくせに力が強いから、ケンカで勝った
試しがない。
ケンカをするのは自分より弱そうな人間をいじめているからだ。
暴力を振るったり、汚い言葉を吐いたりする様子はアイツそっくりで、無性に腹が立ったからだ。
「凛ちゃんは夏休みどこか行くの?」
「行かないよ」
「そうなんだ、私も!家が一番だよね」
光莉は自分を指さしてニコニコ笑いながら言った。
彼女はこのクラスの学級委員長だ。
人懐っこい性格だから誰とでも仲良くなれるし、頭もいい。
「あんたならほかの友達に誘われそうなもんだけど」
「家の手伝いがあるから」
「ふうん」
その言葉を、私はこの1学期で何回か聞いていた。人気者の彼女は遊びに誘われることがよくあったが、ほぼ同じ理由で断っていた。
その家の手伝いとやらは、夏休みもずっとしなくちゃダメなのだろうか。
それはかわいそうな気がした。
「では皆さん! 夏休み明けに元気な顔を見せてください! 日直の人、号令!」
いつもの号令には熱がこもっていて、クラス中がそわそわしている感じがした。
クラスメイト達の表情はキラキラしていて、私にはまぶしく見える。
私にとっては絶望でしかない夏休み。
出口のない迷路に迷い込んだみたいに、不安がどっと押し寄せてくる。
「じゃあ帰ろうか」
「うん!」
「ちょっと待てよ音凪」
ランドセルを背負い、空っぽの引き出しを右わきに抱えて教室を出ようとしたその時、後ろから私を呼ぶ声がした。
「今日の夜七時、学校のグラウンドに来い」
「無理、命令しないでくれる? ウザいから」
この赤ん坊の頃から脳みそが進化していないであろう押谷は、事あるたびに私に突っかかってくる。
男のかまってちゃんは本当に見ていられない。
「ダメだよ押谷君。五時までには家に帰らなきゃ」
「うるせえな星野。いい子ぶってんじゃねえよ」
「先生に怒られるよ」
「どうでもいいね。それよりお前、なんでそんな奴と仲良くしてんだよ」
「してたらダメなの?」
「ははーん、さてはお前知らないな」
「何が?」
「こいつの母親、フーゾクで働いてんだぜ!」
私を指さして、馬鹿にしたような目で押谷が見てくる。押谷の両隣にいる取り巻きの二匹もそれにつられてゲラゲラ笑う。
「その顔じゃあ、何してるのか知らねえな? 教えてやろうか?」
「凛ちゃん……フーゾクって何?」
「はあ……」
自然とため息が出てくる。
光莉は良くも悪くも無駄に好奇心がある。
知らない言葉が出てくるといつもこんな感じで私に尋ねてくる。
私は風俗の意味を知っている。その言葉を小学生が知っていたらおかしいことも。
「でも、働くってことはお金をもらってるんでしょ? どんな仕事でも、それってすごいことじゃん」
「知らないからそんなこと言えるんだよ。とにかく、そんな奴と仲良くしてたら嫌われるぜ?」
「どうでもいいよ。で、凛ちゃんフーゾクって何? 凛ちゃんも知らない?」
「あんたはちょっと黙って。辞書取り出さないでマジで」
流石に小学生向けの辞書には載っていないと思うけど、一応止める。
そこにさらなる追撃を仕掛けるクソガキ。
「教えてやるよ!気になんだろ?」
「き、気になる……。でも押谷君に教えてもらうのは悔しいから、先生に聞こう!」
教室から飛び出しかけた光莉を羽交締めにする。
この先には地獄しかない。
「ほんと勘弁して、理性保って」
「理性はあるよ!」
「フーゾクってのはなあ!」
「わかった、わかったから!夜七時!?」
クソ、やられた。
光莉が好奇心旺盛なことを利用して、汚い言葉を教える。光莉はその意味を知るまで誰かに聞きまくる。
その対象が大人だったら……考えたくもない。
仮に風俗の意味を適当に教えて誤魔化せたとしても、また違う言葉を教えるつもりなんだろう。
大した知能は持ち合わせていないと思っていたから、完全に油断していた。
「絶対来いよ、来なかったら星野の家で同じこと言うぞ」
「……」
念押しする気持ち悪い声が、私の鼓膜にこびりついた。
「ほんっとひどいよね! いつもひどいけど、今日は凛ちゃんのママもバカにするなんて」
学校からの帰り道。光莉はさっきのことでまだ怒っているようだ。
たくさんの店が隙間なく立ち並ぶ一本道を、私たちは歩いている。
ガードレールの向こう側では、見た目も種類も全く違う車が、忙しそうに動いている。
「どうでもいい。それに、アイツがろくなやつじゃないのは確かだし」
今でこそ大嫌いだが、少し前まではどうすれば私を見てくれるのかばかりを考えていた。
アイツが喜ぶことをすれば、きっと私のことを気にかけてくれると信じていた。
でも、そんなものは存在しなかった。
冷蔵庫にあったわずかな食材で料理を作ったときは「こんなもの食えるか、次やったら明日の食事ないから」と言い、一口も食べずに三角コーナーに捨てていたし、苦手な算数のテストで百点取って見せたら「それくらいできて当然」と言われた。
そのくらいだったら、まだよかった。少し心が痛むだけで済んでいたから。
でもあの日、私は生まれて初めて暴力を受けた。
その日は、あいつの似顔絵を描いて喜ばせようという作戦を立てていた。
昔から絵を描くことが好きだったから、それなりに自信があった。
とはいえ、実物がいないと書きようがないし、私のわがままを聞いてくれる可能性は低い。
困り果てた私は、絶対に入るなと言われたアイツの部屋に侵入した。
木製の小さな机の上に、写真立てがあった。その写真にはアイツと、その横に知らない男が写っていて、二人ともピースサインを作っていた。
私が一度も見たことがない、すごく幸せそうな表情をしていた。
私はそれを抜き取って持ち出し、アイツの似顔絵を正確に描いた。
描き終えると、どっと疲れが押し寄せてきて、仰向けになったまま眠ってしまった。
次に目を覚ましたのは、アイツの怒鳴り声が聞こえた時だ。意識がもうろうとしている中、思い切り右頬を殴られ、はっきりと目が覚めた。
一発では満足しなかったのか、罵声を浴びせながら、殴り続けた。せっかく描いた絵は、ビリビリに破られてしまった。
それ以来、私はアイツを母親だとは思わなくなったし、かまってちゃんごっこもやめた。
「あんなヤツのとこに生まれたくなかったよ」
優しい母親であれば、きっと光莉みたいな人間に育つんだろう。
「そんなにひどいなら警察の人に言えばいいんじゃない?」
「無駄だよ。そもそもアイツが逮捕されたらたぶん私たち離れ離れになるけど」
「それは......いやだね」
「おとなしくしてれば何も言われないし、大丈夫」
「それなら……いいんだけど」
「あんたの家に生まれたかったなぁ。そしたら」
私が本音をこぼすと、光莉はなぜかうつむいてしまった。そして、小さくつぶやいた。
「......生まれないほうがいいよ、絶対」
「え?」
車の音にかき消されそうな声だったけど、はっきり聞こえた。でも、光莉の言葉の意味がよくわからなかった。
「な、何でもないよ! それじゃ、また二学期にね!」
「う、うん」
張り付けたような笑顔でそう言って、光莉は歩道橋の階段を勢いよく上っていった。
私の住んでいるアパートははっきり言ってボロボロだ。二階建ての小さな木造アパートで、白い壁にはツタが何重にも巻き付いている。
二階の一番隅っこの部屋の前には小さなポストが置いてあって、その中には溢れんばかりの新聞やチラシが入っている。
私はそれを無視してスカートのポケットから鍵を取り出す。
「あー重い」
鍵を開けて中に入ると同時に、持っていた大量の荷物を全部玄関に投げ出した。
普段の倍近くの重みから解放され、なんだか肩が軽くなった気がした。
「シャワー浴びよ」
殺人的な暑さだったうえに荷物が多かったから、体中が汗でベトベトになっている。
靴箱の上の置き時計を見ると、まだ三時だった。約束の時間まではまだまだある。
荷物は後で片付ければいいや。とにかく汗を洗い流したい。
「ふう......」
シャワーを終えて、リビングの椅子の背にもたれかかる。目の前のテーブルの上には、コンビニ弁当が一つ置かれている。
その周囲には匂いを嗅ぎつけたであろうハエが一匹、同じ場所をグルグルと飛び回っている。
アイツは料理をするのが面倒らしく、いつもコンビニで買ったもので済ませようとする。
その証拠に、アイツの部屋には空になったカップ麺の容器が大量に並んでいる。
私は毎日弁当を与えられ、生き延びるためだけに食べる。
生き延びるのが目的なら、このハエと同じなんじゃないかとさえ思ってしまう。
家庭科の授業で家族団らんという言葉を学んだけれど、今の私はそんな言葉とはかけ離れた生活を送っている。
いつになったらここから抜け出せるんだろうと思いながら、小さい唐揚げを頬張る。
最近食欲がなくなってきたけど残すと殴られるから、無理やり水で胃に流し込んだ。
弁当を食べ終え、玄関の荷物を回収して自分の部屋に向かう。
部屋には私のお気に入りの絵が何枚か壁に貼り付けてある。
学校に生えているキンモクセイや絶対に入ってはいけないと言われた禁断の森、家の窓から眺めた夕焼け。
自然や風景の絵がほとんどだけど、その中にアイツの似顔絵が貼ってある。
どんなにアイツが嫌いでも、情熱を注いで描いた作品を放ってはおけなかった。
だから、アイツに破られた絵の破片をゴミ箱から全部拾い集めて、セロテープで元通りにした。
アイツが私の部屋に入ることはまず無いから、堂々と貼っている。
ランドセルからクーピーと0点の算数のプリントを取り、机の上に出す。
回転式の椅子に座って、プリントを裏向きにして、白紙にクーピーを走らせる。
絵を描いている時間だけが、私を寂しさや苦しさから逃がしてくれる。
現実から逃げて逃げて逃げまくって――気がつくと約束の時間が迫っていた。




