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月兎取月  作者: 銀ねも
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役立たず

 


 母は辰が生まれる前から、辰を恨んでいた。これまで一度たりとも、招き寄せられたことはなかった。


 初めてのことに、辰は驚き、戸惑った。言いつけに背けば痛い目に遭うだろうに、指一本、動かせない。


 母がにじり寄って来る。逃げ場などありはしないのに、後退りしようとして、背を壁に押し付けてしまった。


 母はそんな辰を咎めず、そっと抱き寄せた。


 母の身体は火を含んだように熱かった。生まれて初めて感じる人の温もりは、凍えた身に、痛みと紙一重の衝撃をもたらした。


 だが、それは決して辰を脅かすものではなかった。


 狼狽える辰の髪を、母は震える指で撫でる。


「お前はね……私と、あの人の子なの」


 辰は呆然としながら、母の顔を見上げた。母は夢に夢見るような眼差しを辰に注いでいる。


「あの人は、息子を欲しがっていた。だから……お前がいれば……」


 言葉が、絡まる。


「……迎えに、来てくれる。今度こそ……私を……」


 母は、ふっと笑った。


「あの人は寅年の生まれで……名に寅の字があったの。お前の名はね、あの人に倣ってつけたのよ。だから、辰年生まれのお前は、辰なの」


 母の言わんとすることを、辰は理解できなかった。

 それでも、呼吸が楽になった。胸の内を針で突かれるような苦痛を、この時は感じなかった。


 自分の胸に手を当ててみる。

 微かに、だが確かに、自身の鼓動を感じる。生きている、息をしているという、確かな手応え。


 母の肩越しに、藍色の夜の匂いが届く。母の温もりが、凍える胸の奥に染み入る。


 息を整えようとしても、鼓動はまだ小刻みに跳ね回る。それは、恐怖や痛みとは違う、ぬくもりに寄り添う漣だった。


 恐る恐る、母の胸に耳を当ててみる。とくん、とくんと優しい鼓動が聞こえてくる。まるで、辰の胸の震えに呼応するかのように。


 その鼓動に意識を集中すると、世界が少しだけ遠ざかる。母の温もりが辰の身体を包み込み、逸る鼓動にそっと寄り添う。母の鼓動も辰に寄り添い、じんわりと温めてくれる。


 母は辰の髪を撫でる。いつもは髪を引っ張って引き千切る手が、今は優しく髪を撫でてくれる。


 そして、母は言った。


「お前のおかげだよ。ありがとうね、辰」


 母の髪がふわりと香り、柔らかな頬が辰の頭に触れる。強張っていた辰の身体から、徐々に力が抜けていく。


 この時、辰は初めて、恐怖に耐えるだけではなく、ただ息をし、温もりに身を委ねる自分を受け入れられた。

 鼓動は生きている証であり、鼓動を重ねることは、互いの鼓動を認め合うことだと、そう思った。


 ――役に立てばいい。母さまの役に立てば、母さまはこうして、辰を抱いてくれる


 母は今、正気ではないのかもしれない。それでも良い。母が辰を抱き、髪を撫でてくれるのだから。


 辰は夢見心地で、母の胸に頬擦りをした。


 その時だった。髪を撫でていた母の手がぴたりと止まった。さっと血の気が引く音さえ、耳に届いた気がした。


 母はぱっと顔を上げると、辰の顔をまじまじと見つめる。その顔は蒼白だった。


「……違う」


 母の声が、低く沈む。


「違う……」


 次の瞬間、辰は突き飛ばされていた。行灯が床に倒れた。紙が擦れる音、油が垂れる音。それらに甲走った母の声が重なる。


「触るな!」


 横倒しになった灯が母の顔を半分だけ照らし出す。母の目に、恐怖が宿る。


「……違う……この子は、あの人の子……なのに……その顔……御主人様の……お前は……違う!」


 母は行燈の脚を掴み、振りかぶる。辰は咄嗟にうつ伏せになり、頭を抱えた。倒れ付す辰の背に、行燈が振り下ろされる。


「お前のせいだ! お前のせいだ!」


 辰は、声を上げなかった。泣かなかった。ただ、床に伏した。


 行燈の灯が消え、闇が一気に押し寄せた。


 まるで、夢から醒めたかのようだった。


 抱きしめられたことも。

 髪を撫でられたことも。

 名を呼ばれたことも。

 温もりも安らぎも。

 すべて、一睡の夢であったのだ。


 同時に、辰は悟った。


 ――辰の父さまは「寅の字」だ。「銀狼屋の御主人様」なんかじゃない


 そうでなければ、母は壊れてしまって、取り返しのつかぬことになる。


 そうして始まった折檻は、一番鶏が鳴くまで続いた。


 その後、母は何事もなかったように振る舞った。

 あの夜のことを覚えている様子はなかった。


 辰も、何も言わなかった。


 辰は相変わらず、笑わなかったし、泣かなかった。

 笑えないし、泣けなかったのだ。

 ただ、眠りに落ちると、あの夜を夢に見た。


 そして、季節は巡り、秋の頃。最初に気付いたのは、においだった。

 焦げた木のにおいが、納屋の戸の隙間から忍び込んできた。

 辰は、いつものように身を丸め、息を殺していた。

 火の気配に気づいても、声を上げてよい理由が、彼にはなかった。


 しばらくして、外が騒がしくなった。


 人の声。走る足音。黒い煙が隙間から忍び込んでくる。


 火だ。


 納屋の中にも、赤い光が揺れ始めた。


 辰は、それでも動かなかった。


 動いてはいけない。

 騒いではいけない。


 ――ここでじっとしていれば、叱られない


 やがて、母屋のほうで誰かが叫んだ。


 梁が軋む音がする。

 母屋の方から、何かが崩れる轟音。


 戸に空いた穴を覗く。燃え上がる母屋が見えた。


「……母さま」


 思わず声が漏れた。


 その声は、誰にも届かなかった。


 やがて、納屋の外は静かになった。


 火は、ここまでは来なかった。


 母屋は炎に包まれ、母も祖父母も、その中で命を落とした。

 納屋に閉じ込められていた辰だけが、生き残った。


 やはり、あの時、母は狂っていたのだ。


 ――だって、辰は、何の役にも立たない


 父は母を迎えに来なかった。何もかもすべて「辰のせい」であり「辰のおかげ」なんてあり得なかった。


 とどのつまり、辰は徹頭徹尾、母を苦しめるだけだった。


 ――父さまに、会わせてあげられなくて、ごめんなさい


 そうして、辰は母を亡くした。


 辰に温もりをくれた母に、何一つ報いることもできぬまま。

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