第五話 獅子と溝鼠②
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バルコニーにはまだ誰も人はいなかった。ロザリーは首を傾げつつ、ザイルが来るのを待つことにする。
正面玄関側のバルコニーはベルクオーレンの屋敷が誇る広大な庭が一望できた。平面だと把握できない薔薇の迷宮園も、ここからなら入り組んだ小道がしっかりと見えた。
「花が好きか?」
ロザリーがその眺めに魅入っているといつの間にか後方にザイルが立っていて、ロザリーは慌てて居住まいを正した。
「すまないな、突然呼び出して」
「い、いえ」
ロザリーが慌ててザイルの元に駆け寄ると、ザイルはテラスに備え付けられていたテーブルを指さす。
「そこに座りなさい」
「えっ、ですが……」
「私が許可している。今は使用人の身分は忘れていい」
ザイルは有無を言わさぬ口調でロザリーに命じた。仕方なく、ロザリーは椅子に浅く腰掛ける。向かいには当然のようにザイルが座った。
「そんなにかしこまらなくていい。少し君と話がしたくてな」
「私と話……ですか?」
ザイルは相変わらず硬く無表情だ。何故使用人であるロザリーをわざわざ呼び出したのか、その真意がわからない。
「改めて聞くが、君は劇団『サンヴェロッチェ』のロザリー=ヴェロッチェだな?」
ザイルは当然のように『サンヴェロッチェ』の名を出した。カインから事情を聴いたのだろうか。
「はい、そうです」
「『サンヴェロッチェ』は私にとって縁の深い者たちでね。特に君の父君、エドヴィンとは」
「え?」
ロザリーは目を丸くした。ザイルが『サンヴェロッチェ』を知っていたのも驚きだが、亡き父、エドヴィンの名が出てくるとは思わずロザリーの緊張が一気に解けた。
「父を知っているんですか?」
「ああ、エドヴィンとは大戦時代からの知り合いでね」
大戦、というのは二十年前に終結した欧州各国を巻き込んだ戦争の事だ。ロザリーはまだ生まれていなかったから知らないが三十年近く続いた戦争は領土を荒廃させ、一時期略奪や追剥、飢饉などが深刻だったと聞いたことがある。
「君の父エドヴィンはあちこちを渡り歩いていた流れの傭兵だった。この南部領が敵の急襲に遭った時、力を貸してくれたのが彼だったのだ」
「そうだったのですか……」
「戦争が終わってからも交流があってね。私は所領の復興に勤め、そして彼は国内中を回って身寄りのない者たちの慈善活動を始めた。その延長で彼が旅芸人を始めたと聞いた時はひっくり返るほど笑ったものだが」
この抑揚がなく表情も動かない男がひっくり返るほど笑うところなど想像もつかないが、昔の話だしそれだけ衝撃的な出来事だったのだろう。
「初めの頃は随分と杜撰な経営をしていたようでな。高い舞台機材を揃えて人員を増やすばかりで、全く経営には向かん男だった」
ザイルはバッサリと切り捨てるのでロザリーも思わず苦笑した。確かに生前の父は人望厚く人柄もいいが経営に関してはてんでの素人で、会計も途中から別の団員に任せていたくらいだ。
「でも、確か後援者がいたんです。毎年多額の寄付をしてくれる人が」
「ああ、それは私だ」
しれっというものだからロザリーは目が点になってしまった。
「後援者……、貴方が……?」
「ああ。エドヴィンは誰にも言っていなかったようだがな」
「そ、そんな! そうとは知らず、とんだ無礼を……!」
ロザリーは思わずテーブルに額をこすりつけんばかりに頭を下げた。『サンヴェロッチェ』が安定した公演を行えたのは、ひとえにその後援者のおかげだという事は経費に関わっていなかったロザリーですら知っていた事だ。まさか、その正体が南部一の有力者、ザイル=ベルクオーレンだったなんて。
「気にする事はない。私の方こそ、奴からの連絡が途絶えて、不審に思って調べたら劇団はすでに瓦解した後で何も出来なかった。君の行方も分からずじまいになってしまい打つ手がなかったのだが、よもやこうして会えるとは思ってもみなかったよ。まさかエルメルト家に仕えていたとは、偶然というものは本当にあるものだ」
しみじみと呟くザイルの瞳には、ほんの少しばかりの熱が灯っている。この人は感情が見えにくいが無情というわけではないようで、ロザリーも少しずつそれが理解できるようになってきた。
そのザイルがふとそこの深い沼地のような濁った眼をしてこちらを見る。
「しかしながら私が君たちの劇団を支援していたのには理由がある。勿論親友のために手を貸したいというのもあったが、きっかけはまた別なのだ」
「きっかけ?」
「そう。……それは十二年前の、君が関係している」
その瞬間、ロザリーの身体に緊張が走る。
「君は十二年前、自分の身に何があったか覚えているか?」
ロザリーは少し考えて首を振った。だが何があったかという一点については、劇団の仲間から聞いたことがある。
「王都に巡業に行っていた頃、劇団が賊に襲われて損害を受けました。その時、私もそいつらに攫われて暴行を受けた、と。ただ、私自身はその時の事をよく覚えていなくて……まさか、その事ですか?」
ザイルははっきりと頷いた。
「君はあの時誰が『サンヴェロッチェ』を襲ったか覚えているか?」
「いいえ……、父もあの件はあまり話したがらなくて」
「それは当然の事だろうな」
ザイルは一呼吸置くとその真相を打ち明けた。
「劇団を襲ったのは『ジャックドー』という組織だ」
「⁉」
ジャックドー。またその名前だ。
「当時王都の下町で犯罪行為を繰り返していた若者のギャングだ。君たちは彼らに目を付けられ狙われた。王都での公演の千秋楽、その慌ただしい隙を狙って。……そして君が攫われた。君はジャックドーの構成員に暴行を受けて瀕死の重傷を負ったのだ」
頭の奥でカタカタと何かが震え蠢いている。何かを思い出せそうで思い出せない。
でもロザリーはなんとなくわかる。
これはきっと思い出してはいけない記憶だ。開けてはいけないと、ロザリーの本能が叫んでいる。
「思い出さなくていい」
ザイルも同じように記憶を掘り出す事を止めさせた。
「君にとって凄惨な記憶だ。はっきりと思い出せば、君の人格を壊しかねない」
「は、い……。でも、その時の事が劇団の支援とどう関係しているのですか?」
未だに不透明なその謎をロザリーは恐る恐る尋ねた。ザイルはしばし目を逸らしたまま動かない。話すべきかどうか、思案しているのだろうか。その長い逡巡の末、彼がロザリーに尋ねた事は、
「――ルートヴィッヒは君に優しいか?」
予想外の事でロザリーは一瞬何を問われているのか理解が追い付かなかった。
(どうして、あの人の事を?)
話のつながりが見えない。でも、答えなければ――。
「……わかりません」
「わからない?」
「はい。あの方は何故か私にだけは無礼で横暴で、全然いい顔をしないのに」
――どうしてか、彼は時々ロザリーを見て辛そうな顔をする。その姿を見るたびにロザリーは胸が苦しくなって、身体の中で何かが騒めく。
「それがあいつにとっての、精一杯の贖罪なのだ」
「贖罪……?」
「ああ、何故ならあいつは――」
だが、その言葉の先は叫び声で遮られた。
「ザイル!」
バルコニーの入り口に怒り狂ったルートヴィッヒの姿があった。彼は大股でこちらに近付いてくると、容赦なくザイルの胸ぐらを掴んで引き寄せる。
「こいつに何を話した⁉」
「……」
「言え! こいつに何を言ったんだ⁉」
ルートヴィッヒは父であるはずのザイルに激昂した。直接その圧を向けられていないロザリーでさえ、言葉が出ない。
「お前が死んでも口に出せない事を、だ」
「ふざけるな! お前が『過去を捨てろ』と言ったから全てを諦めたんだ! なのに今になってこいつの事を蒸し返すのかよ!」
「蒸し返す? 笑わせるな、未練がましく彼女に縋り付いているのはお前だろう」
怒り狂うルートヴィッヒ、冷酷なザイル。まるで火と氷だ。それほどまでに対極の二人が激しく言い争う中で、ロザリーは一人蚊帳の外だ。
でもこれはロザリーにもかかわりのある話のはず。なのに、その全貌が読めない。
「だいたい俺はお前が劇団を支援するというからお前の元に下ったんだ! なのになんだ⁉ 『サンヴェロッチェ』は解散して、こいつは一人貧しい生活を送ってたってどういう事だ!」
「ま、待ってくれ!」
ロザリーは思わず立ち上がった。もう我慢できない、ちゃんと話を聞かなくてはいけない。
「ベルクオーレン卿は劇団を後援してくれた理由が私にあると言った。私はその話を聞きたいんだ」
「……っ!」
「そこにお前が関係してるのか? 一体どういう事なんだ?」
ジッとルートヴィッヒを見つめると、ルートヴィッヒは怯えた子犬のように急に覇気が無くなった。
ザイルは何事もなくルートヴィッヒの手を振り払う。服の皴を正すと、涼しい顔でロザリーに向き直った。
「ロザリー、これ以上の事は私が話す権利はない。知りたいというのならその息子から聞くと言い。だが――」
ザイルは辛そうに顔を歪めて、
「君が親友の娘だからこそ私は忠告する。これ以上、ベルクオーレン家に――私の息子に関わる必要はない」
「……っ!」
ロザリーは息を呑んだ。でも、同じような反応をしたのはロザリーだけではなくルートヴィッヒも同様で。
「今回の件も、もし本当にジャックドーが関わっているのなら深追いするべきではないだろう。君の事情はエルメルト卿からも聞いている。彼と劇団の再建を約束しているそうだな?」
ロザリーは無言でうなずいた。
「劇団の崩壊は後援者である私の不手際でもある。大事な友の死にも立ち会えなかった。私も再建に力を貸そう。フロレンツィア嬢の事も、リベルタ家の本体が消えた今大きな事はできない。あとは我々ベルクオーレン家が庇護する。だから――君はもう王都に帰りなさい」
そう言ったザイルの目は、『危ない橋を渡るな』と忠告した生前の父に少しだけ似ていた。
「ルートヴィッヒ」
震えあがるような声音に、ルートヴィッヒがびくりと震えた。
「あとはお前が決めろ。話すか、話さないか」
ザイルはそのままテラスから消えた。あとに残されたロザリーは呆然と立ち尽くす。
「ロザリー」
ルートヴィッヒの呼び声が、またしてもロザリーを怯ませる。獣のような鋭い眼差し。この目をロザリーは何度も目の当たりにした。
「あいつから聞いたのか、ジャックドーの事」
「――ああ」
ロザリーは素直に頷いたが、どうして彼がそんなにジャックドーの事を気にするのか、その答えがまだわからない。
ルートヴィッヒは黙ったままロザリーに一歩近づいた。彼の輪郭がぼやけて見える。目の前の彼の姿が薄らぎ、今の『彼』ではない、もっと遠い昔の過去の『彼』の姿が見えた。
「昔『サンヴェロッチェ』を襲ったのがジャックドーだって」
「そうか」
「なあ、お前は――」
聞くべき事ではないのかもしれない。さっきザイルが言ったように、この記憶はロザリーにとって封印すべきものなのだ。
「ジャックドーは、お前と何の関係があるんだ?」
「……」
聞くのが怖かった。でも、聞かなければいけない話なのだとロザリーは直感で思った。 そして、
「かつて王都に存在していたジャックドーのボスは、俺だ」
時が止まったような気がした。
「俺はザイル=ベルクオーレンの私生児で、十五の頃まで父の顔を知らず王都の貧民街で暮らしていた。生きるために犯罪に手を染めて、そこで俺は同じ境遇の餓鬼を集めていつの間にかそのボスに担ぎ上げられてた」
上手く呼吸が出来ない。今聞いている話の全てが、遠い世界で紡がれているような気がして、気が遠くなりそうだった。
「十二年前、『サンヴェロッチェ』が王都へ公演にやって来た時、俺は偶然お前と会って、そして親しくなった」
思い出せない。ロザリーの中にあるはずの記憶の一片が空白になって、どうしてもその靄が晴れない。
「けれどお前は俺と出会った事で俺の仲間に目を付けられ、劇団が襲われ、お前が傷つけられた。――俺のせいなんだ。俺が」
ルートヴィッヒは怒っている様にも、苦しんでいる様にも、悲しんでいる様にも見えた。その複雑な感情の渦の中でもう何年ももがき苦しんでいる。そんな男の姿が浮かび上がりそして、
「――俺が君を好きになってしまったから」
それは喜びでも恥ずかしさでもなくて、ただ直情的な衝撃だった。
(この人は、一体どんな思いで私に接していたのか)
唐突に告げられた真実を知ってもなお、ロザリーは目の前の男の事を理解できなかった。




