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第五十二話 『秋空と純白の花嫁』

 頬を撫でる風の冷たさに、俺は思わず身震いした。


 公園の木々も黄色や赤に色付き、辺りはすっかり秋の景色。もとの世界(ふるさと)でも、この国でも、秋の雰囲気はどこか郷愁を誘う。


 俺は手にした鉾槍を握り直すと、会場となる教会を見上げた。


 聖ミハエル教会。


 荘厳な彫刻と高くそびえる尖塔が目を引くこの教会は、聖マリナ教を篤く信仰した三代皇帝によって建てられたシュテルハイム最大の教会だ。


 皇帝の戴冠式等が行われる由緒正しい教会だそうだが……


 「本当によい天気だこと。きっといい婚約式になるわ」


 「ああ……ここ数日の雨が嘘のようだ。ブルヒアルト卿も幸先がよい」


 きらびやかな服装の夫婦が教会前の広場に入っていく。名前は知らないが、上級貴族の誰かだろう。


 婚約式……か。


 この国の結婚の儀式は二段階に別れている。


 『婚約式』と『結婚式』だ。


 結婚式は夫婦として肉体的(・・・)に結ばれる為の儀式。


 婚約式は結婚の前に神の代理人たる司祭と証人の前で行う社会的な契約の儀式だという。


 結婚の契約(・・)というと何だかドライだけど、結婚を政略や戦略に使う貴族や王族にとっては、条約にも繋がる大事なものだとか。


 この婚約式での契約をもって女性は男性の家に嫁ぎ、改めて結婚式を挙げて夫婦の契りを交わすのだ。


 教会は基本離婚を認めていないから、婚約式の契約は余程のことがない限り撤回できない。


 ……つまり、チャンスはこの一度。


 しかし、騎士団の新兵として式場の警備に捩じ込んでもらったは良いが、体格を誤魔化すために軍服の下に色々着込みすぎて動きにくいったらありゃしない。


 大丈夫なんだろうな?


 「おい、新入り! 何ボサッとしてる? もうすぐ式が始まるぞ。お前も会場の警備に回れ」


 「り、了解!」


 駆け寄ってきた部隊長に兜を小突かれ、俺は慌てて教会前の広場に入った。


 



 マルコルフ公やホルシュタイン伯が招待したのだろうか。教会前の広場には、既に多くの貴族が集まっていた。


 聖ミハエル教会の巨大な門の前には、頸垂帯(ストラ)短白衣(シュルプリ)という、チャペルの結婚式でお馴染みの格好をした司祭と、紅に金糸の刺繍を施した上着を着た大柄でがっしりとした男が立っている。


 あの金髪がザムゾン・フォン・ホルシュタインか。


 遠目でよく見えないが、金髪を短く刈り上げた厳めしい顔付きの若者だ。


 ……今回の結婚。シャルロットに惚れた彼が父親に頼み込んだって噂だが、本当だろうか?


 一昨日の出来事がふと脳裏を過る。


 ……


 ……


 ……


 ……


 「カズマっ!」


 竜巻号(トロンベ)の背中を濡らした藁で拭いていた俺は、闖入者……シャルロットの金切り声に思わず突っ伏した。


 拍子で竜巻号(トロンベ)の背中を強く擦ってしまい、駄馬が抗議の嘶きをあげる。


 「んだよ、シャルロット。いきなり怒鳴るな。ビックリするだろ……って」


 抗議しようと振り向いた俺は、入り口に突っ立ったシャルロットの様子に息を呑んだ。


 「シャル、お前……泣いてるのか」


 彼女はボロボロと珠のような涙を流して泣いていた。


 「お父様が約束を反故にしたの……今すぐあの筋肉馬鹿と結婚しろって……嫌いな男に……抱かれてそいつの子供を産めって!」


 シャルロットは嗚咽しながら振り絞るような声で訴える。


 ああ……知ってるよ。


 でも、筋肉馬鹿って。余程ホルシュタインの息子が嫌いなんだな。向こうはシャルロットに惚れてるらしいのに。


 「本当はね……すぐにカズマに会いたかった。声が聞きたかったの。でも、部屋に閉じ込められて……」


 そうか……だから彼女は今まで顔を見せなかったのか。


 しかし、伯爵がシャルロットを屋敷に閉じ込めたのも分かる。


 結婚を控えた乙女が他の男の元に入り浸っているなんて噂を立てられたら色々不味いし、だからって、シャルロットは言って素直に聞くタイプじゃないしなぁ……


 よく見ると、彼女の向日葵色のドレスの袖口やスカートの裾が何かを引っ掻けたように破れたり解れたりしているし、二の腕や頬には引っ掻き傷までできている。


 「まさか、無理矢理抜け出してきたのか? シャルロット」


 「……もう、耐えられなかったの。このままカズマに一生会えないなんて……そんなの絶対いやっ!」


 そう言って、ぎゅっと唇を噛み締めるシャルロット。その表情は以前会った時より思い詰めている感じだ。


 あんなに傷だらけになってまで……俺に会いたいが為にどれだけ無茶をしたんだ? 彼女は。


 そう考えた途端、俺の胸の奥でざわめきが大きく膨れ上がった。


 誰とも知らない男にこいつを奪われる? そんなのあってたまるか。


 「ねえ、カズマ。私を拐って」


 「何を言って……って?!」


 俺は聞き返そうとして思わず声が上擦った。


 シャルロットが俺の胸に泣きながら縋り付いて来たから。


 思わず抱きとめ、彼女の細い肩を抱く。ふわりと、彼女の匂いが鼻孔を擽った。


 「このまま……誰も私たちを知らない場所まで私を連れて逃げて」


 「……っ!!」


 震える声で訴えるシャルロットの言葉が耳を打つ。


 いつもの勝ち気な雰囲気はなく、不安と悲しみに震える少女の姿に俺の心が激しくざわめいた。


 瞬間、眉間に木槌を打ち込まれたような衝撃が弾ける。





 ーーカズマ……私を拐って逃げて……誰も知らない遠くの場所まで……!


 鼻孔を擽る百合の香りと、視界を掠める亜麻色の髪……知っている……俺は彼女を……


 ーーもしも叶わないなら、私は名を捨てる。貴方と添い遂げられないなんて、死んでいるのと同じだわ……


 俺は……彼女を……





 遠くなりかけた意識を慌てて呼び戻す。何だ? 一体何を見た?


 まとわりつくイメージの残滓を振りほどく為に頭を振ると、俺はシャルロットを抱く腕を弛め、少女の顔を覗き込んだ。


 「シャルロット……俺は」


 「私はカズマが好き! 最初に会ったときからずっと……カズマ以外の男となんて結婚したくない!」


 シャルロットは俺の胸から顔をあげ、悲痛な声で切々と訴える。可愛い顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにして。


 ヤバイ。すごく可愛い。


 そんな風に『好きだ』なんて言われたら、もうたまらない。このまま後先考えず思いを遂げたくなる。


 「……俺だってお前が好きだ。お前が他の男のモノになるなんて、耐えられない」


 「カズマ……だったら一緒に!」


 「ダメなんだよ。それは……っ! 俺がお前を奪って伯爵家の結婚を台無しにしてしまったら、ブルヒアルト家とホルシュタイン家の間に争いが起こる。そこにマルコルフ公が介入したら、もう二つの家だけの問題じゃなくなるんだ。最悪血が流れる。シャルロットや、多くの人が不幸になる」


 「それは、でも……っ!」


 シャルロットも俺の言っていることは分かるのだろう。俯いて唇を噛み締めた。


 俺はシャルロットの肩を掴んでそっと離し、彼女の髪を撫でながら、できるだけ優しい口調で語りかける。


 「俺は、シャルを誰かに奪われるのは死ぬほど嫌だ。でも、お前が傷付いたり辛い目に遭ったりするのはもっと嫌なんだ」


 「カズマ……ねえ、カズマ。何で私はブルヒアルトなの? ただの名もない女だったら、こんな苦しい思いはしなくてすむのに」


 俺の胸に頬を寄せて呟くシャルロット。そして、彼女は少し背伸びして俺の耳元に唇を寄せて囁いた。


 「せめて、私を奪って……あいつに奪われる前に」


 俺はシャルロットの囁きにドキリとした。彼女の表情は真剣だ。自棄(ヤケ)を起こした訳でも無さそうだ。


 彼女が好きなら……愛しているなら、その思いに応えるべきだろうが……それは彼女を幸せにはしない。


 俺は微笑みを浮かべて頷くと、シャルロットの顎を指先で軽く持ち上げ、僅かに開いた彼女の唇にそっと自分の唇を重ねた。


 ただ唇を触れ合わせるだけの軽いキス。


 だが、シャルロットはその細い肩をびくりと震わせ、俺の顔を上目遣いに凝視する。そして彼女は不意に顔を顰め、唇を尖らせた。


 「……こ、これくらい経験あるわよ。馬鹿にしないで」


 「そうか」


 俺は苦笑すると、彼女の強がりに応えるため、抱き締める腕に力を込めた。


 そしてシャルロットの柔らかい唇に再び唇を触れさせると、そのまま唇をこじ開けて下を捩じ込む。


 ……俺の人生で初めて交わすキスの筈なのに、何故こうも(こな)れているのか。彼女の舌を探りながら、俺は心の中で苦笑した。


 突然の深い口付けに驚いたのか、シャルロットは一瞬体を固くする。が、俺の舌が彼女のそれを絡めると、俺に総てを委ねるように力を抜いた。


 「……ん、……ふ……んっ!」


 過ぎる時の流れを縫い止めるようにしばらく口付けを交わす。


 唇が離れ、シャルロットは余韻に浸るようにしばらく目を伏せる。そして再び俺を見上げた彼女は、何時ものように勝ち気な笑顔を作って肩を竦めた。


 「ごめんね……なんか色々あって混乱しちゃって……また、カズマに迷惑、掛けちゃったね」


 「シャルロット……」


 「はあ……やだなぁ。明後日。あの筋肉馬鹿をカズマだって思い込もうとしたけど、無理だったし……私、すぐ顔に出ちゃうから参っちゃう」


 シャルロットはゆっくりと俺から離れながらわざとらしいおどけた表情でそんなことを言う。


 どのタイミングで奴を俺だと思い込むんだよ。


 ってか、キスの後でそれを言うか?


 シャルロットは俺が何を想像したか感付いたらしい。ムッとした表情で唇を尖らせる。


 「……変なこと想像してんじゃないわよ。変態」


 五月蝿い。わざとだろ。性格悪すぎるぞ。


 入り口まで戻ったシャルロットは、名残惜しげに俺を見詰めるとフッと表情を緩めた。


 「……最後にカズマの顔が見れて、声が聞けて……思い出をもらえて、嬉しかった……もう……会わないから」


 「……シャル」


 「……さよなら」


 一言、小さく別れを告げて、彼女は走り去っていった。


 ……


 ……


 ……


 ……


 もう会わない……か。


 ったく、言いたいことだけ言って。まあ、俺もラファエルから口止めされてたから何も言えなかったが。


 しかし、あの時のシャルロット。心の何かが抜け落ちたような表情をしていた。


 ……大丈夫かな。


 「新婦、シャルロット・フォン・ブルヒアルト様がいらっしゃいます」


 進行役を務めるブルヒアルト家の老執事が花嫁の入場を告げる。


 すると、来賓の貴族たちから感嘆のざわめきが起こった。俺は目線だけシャルロットに向ける。


 父親であるブルヒアルト伯爵に付き添われ、広場に敷かれた赤絨毯を歩むシャルロットは、いつもの赤や向日葵色ではなく純白のドレスを身に付けていた。


 レースをふんだんに使った透明感のあるドレスは普段の彼女のイメージとは随分違う。でもとてもよく似合っていた。


 遠目のうえ、顔がヴェールで覆われているのでその表情を窺うことはできない。


 やがて、シャルロットはブルヒアルト伯爵に連れられ、司祭とザムゾンの待つ教会の戸口に辿り着く。


 しかし、式って礼拝堂でやると思ってた。


 ラファエルが言うには、教会の礼拝堂は祈りを捧げる場で、こういった世俗の儀式は基本教会の戸口で執り行われるとか。


 聖と俗の切り離し……そこは庶民も貴族も同じらしい。


 ブルヒアルト伯爵はザムゾンにシャルロットを引き渡すと席に戻る。


 ザムゾンはシャルロットの手を取り、その耳元で何かを囁いた……ように見えた。


 当然聞き取れないし、口の動きも読めなかったが……『綺麗だ』とでも言ったんだろう。


 「天にまします父なる主の御前に、汝らの名を告げよ」


 厳かに告げる司祭に、新郎新婦の二人は跪いて答える。


 「ザムゾン・フォン・ホルシュタイン」


 「……シャルロット・フォン・ブルヒアルト」


 シャルロットの声にいつもの張りがない。何処と無く投げ遣りに聞こえるのは気のせいだろうか。


 「ではザムゾン・フォン・ホルシュタイン、シャルロット・フォン・ブルヒアルト……汝ら二人は、これより永遠(とわ)に、如何なる時も夫婦として助け合い、愛し合うことを神に誓うか?」


 「誓う」


 はっきりと、よく通る声で誓いの言葉を告げたのはザムゾン。


 だが、本来すぐ聞こえるはずの新婦の声が聞こえない。


 一瞬の沈黙に会場がざわめく。


 「シャルロット・フォン・ブルヒアルト、誓いの言葉を」


 「……私は……いえ……誓います」


 誓いを促す司祭に、シャルロットが言葉を振り絞るようにして口にした。


 司祭はホッとした表情をすると、両手を掲げ、出席者に向け声高に問う。


 「父なる神の名に於いて問う。今この場に二人の誓いに異議のあるものはいるか!」


 「ここにいるぞっ!!」


 場違いな大音声が教会の広場に響き渡った……!

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