第四十三話 『毒と炎』
……時は僅かに遡る。
遠くの空に数発の爆音が響いた。
そして、宝石箱を引っくり返したように煌めく夜空を覆うように、あちらこちらから朦朦と黒い煙が立ち上る。
「……無粋な」
星空の下、テラスの安楽椅子で酒を煽る手を止め、男は顔を顰めた。
夜空を焼く炎を睨む男の目は猛禽のように鋭い。良く言えば鋭く、悪く言えば剣呑……そんな目だ。
金髪を短く刈り上げ、豪奢な服に雄牛のように屈強な体躯を強引に詰め込んだその男は、名をマンゴルト・フォン・ホルシュタインという。
ホルシュタイン伯家当主の座にある男の風貌は、宮廷の貴族というより戦場の軍人という方が似合う。
「あれは何事か」
「……どうやら街で火災が起きているようです。閣下」
ホルシュタイン伯の問いに傍らに立つ男が答える。その態度は恭しく優雅だが、声色は冷たく無表情だ。
年齢は30代後半位。灰色がかった髪をオールバックに撫で付けた、端正な顔立ちの男。切れ長の瞳は氷の刃のような冷たく鋭い。
アレクシス・フォン・ファーレンハイト。ホルシュタイン伯爵に寄騎として仕える人物である。
「何処が燃えている?」
「あの方角ですと中層市民街の商業区かと」
「そうか。ならばよい」
ファーレンハイトは短く答え、ホルシュタイン伯は軽く頷いて手にした杯の酒を飲み干した。
伯が火事への興味を無くしたのを察したファーレンハイトは、庭園の奥に氷刃のような瞳を向ける。
「……トルゲと言ったな。許す。話せ」
彼の視線の先、綺麗に刈り込まれた芝生に一つの影が平伏していた。
全身を覆う鼠色の毛並み、白い筋が入った長い鼻先、大きく尖った耳。狼人の男だ。
彼の後ろにも二人の狼人が這いつくばるように平伏している。
「はい……我等グラウ氏族は銀狼を騙るゲルルフめに妻子を人質に取られ、無理矢理従わされたのです。此度 銀狼討伐に数万の軍が出ると噂を聞き、偉大なるホルシュタイン伯爵様のお力にすがるべく叛徒どもの目を盗んで参りました。何卒、我等を救っていただきたく……」
「経緯はどうあれ、貴様らは一度帝国に叛いた。今更討伐軍に怯えて命乞いとは、虫がよすぎるのではないか」
地面に額を擦り付けるように土下座して訴えるトルゲ。だが、ファーレンハイトは冷たい視線で彼を見下ろし、鼻で笑う。
「命乞いなど。我等は意に反して賊徒の汚名を受けたのです。このまま死ねば子々孫々の恥となります。この汚名を雪ぎ、氏族の命と誇りを守るためには閣下の御慈悲にすがるしかないのです。何卒……」
「……自らの誇りの為に狼人を裏切るか?」
「ゲルルフは同胞ではございません。奴は我等氏族に仇為す罪人でございます。その罪人を裁く閣下の力となることに躊躇いなど御座いましょうや?」
平伏しながら、射抜くような鋭い視線をファーレンハイトに向けるトルゲ。ファーレンハイトはそれを真正面から受け止め睨み返した。
二人の視線は互いの真意を探ろうと絡み合い、激しく火花を散らす。
が、その緊迫は不意に途切れた。
「よい。トルゲとやら、貴様の思いは分かった」
ホルシュタイン伯が安楽椅子を立ち、平伏するトルゲを見下ろして鷹揚に頷く。
ファーレンハイトは賊の話に乗り気になった主人に微かに眉を顰め、言葉を返す。
「閣下……しかしながら」
「よい、と言っている」
伯はファーレンハイトを鋭く一瞥して黙らせると、まるで日向の雨蛙のように平伏する狼人達を睥睨した。
「一度賊に身をやつしながら、正義の在処に気付き心改めて儂に救いを求める……それはよい。して、お前は汚名を雪ぐ為に何をする?」
「偉大なる閣下の御為ならば力を惜しみませぬ。何なりと……先ずは謀反人どもの情報をこちらに」
トルゲは先程の気迫から一転、媚びるような笑みを浮かべ、懐から油紙に包んだ紙束を取り出す。
「ほう……ファーレンハイト、改めよ」
「……は」
主人の指示にファーレンハイトは表情を消して頭を下げ、トルゲの差し出した紙束を受け取ると中身に目を通した。
「『銀狼団はワルト城を拠点として占拠。数は千人……しかし各地の居住地に檄文を飛ばしており、数がさらに増えるおそれあり』と……今上陛下が廃されたとはいえ、ワルトは『戦乙女の首飾り』と呼ばれる帝都守護の要の一つであった名城。そう易々と賊の手に堕ちるとは思えません。情報の精査が必要かと」
「その様な時間はないわ。しかし、ワルトが堕ちるとは……時代に合わぬからと古きものを見境なく廃するからこうなるのだ。美しい帝国の誇りが下賤な野良犬に汚されるなど、あってはならぬことよ」
ファーレンハイトの疑念はホルシュタイン伯爵の耳に届かないようだ。
伯爵はファーレンハイトが差し出した紙束に目を通すと、トルゲに満足げな表情を向ける。
「大義であった。これからも賊の内情を報告せよ。そなたらの助命や名誉の回復はこれからの働き次第である。大いに励め……儂の為にな」
「はっ……有り難き幸せにございます」
意味ありげに口許を歪め笑うホルシュタイン伯爵に、トルゲも諂うような笑みで答えた。
そんな二人に、ファーレンハイトは複雑な表情を浮かべ、微かに溜め息をつく。
停滞していた銀狼団を巡る事態は、軋みをあげながら再び動き始めていた……
……
……
……
……
「ふっ! その程度、温いわっ!」
空気を切り裂く鈍い音が鼻先を掠める。
「ちぃ……っ!」
上体を反らしてなんとか躱したが、前髪が一房宙を舞った。背筋を悪寒が駆け上がり、俺は体を投げ出すように後ろに飛ぶ。
「貴様、人を殺したことはあるか」
転がるようにして距離を取り、刀を構え直す俺。それを待っていたように、ロートが問うてきた。
「人を? ……あるわけないじゃないか、そんなの」
俺は答えながら彎刀を正眼に構え、攻めるタイミングを計る……が、何気なく構えているように見えて、全く隙がない。
かなりの手練れだ。俺とは格が違う。
「だから攻め込めぬのだ。今は戦、死合いよ。一太刀に相手を殺す意思を込めて斬り込まねば死ぬ」
「……ご高説痛み入るよ」
俺はジリジリとロートの死角に回り込みながら吐き捨てた。
たまにいるんだよなぁ……真剣勝負の最中に格下相手に説教したがる奴。
……ま、本気で勝とうと思ったら殺す気でいかないと駄目だろうな。奴は。
「武器を捨て投降しろ! これ以上の抵抗は無意味だ!」
ルーファスがロートの背後に回って細剣を構える。騎士団組は他の狼人を制圧したらしい。彼の部下もサーベルを構えて遠巻きにロートを囲んでいる。
多勢に無勢……一見すれば勝負ありの状況だが、対するロートは獰猛な笑みを浮かべたまま斧を下ろさない。
「……仔犬が何匹吠えようが無駄だ。抵抗が無意味なら取り押さえてみせよ! 我が双斧の錆にしてくれる」
そう言って、舌舐めずりをしながら斧を振って挑発するロート。
その言葉は自棄でも脅しでもない。奴の技量なら、俺達全員を相手にできるだろう。
だが、俺は奴の死合いに付き合うつもりはない。
「『……我、汝に乞う。水の鎚にて我が前の穢れを押し流し、清浄をもたらさん。顕現せよ、怒濤の水撃……水柱っ!』」
俺の背後……ロートから死角になる場所から少女の詠唱が飛ぶ。
刹那、虚空に十個程の大きな水の塊が顕れ、音をたてながら一斉に水を吹き出した。
アレクシアの水の魔法だ。
狙いは燃え盛る建物。腕ほどの太さの水流が脆くなった石壁や焦げた窓枠を吹き飛ばし、荒れ狂う炎に食らいつく。建物からは火災の煙に代わり水蒸気が吹き出して視界を覆う。
「魔法使いだと!? ちっ!」
アレクシアの存在に気付いたロートが体をずらして、斧を振り上げた。
斧を投げる……? 狙いは俺の背後か!
「やらせるかっ!」
俺は一気にロートとの間合いを詰め、振り上げた腕を斬り付けた。ロートは舌打ちして俺の斬撃を体を捻って躱すが、避けきれず切っ先が二の腕を浅く抉る。
続けて斬り付けたルーファスは咆哮を上げたロートの左の一撃で吹き飛ばされた。
片手、しかも利き腕じゃないほうで人間ひとり吹き飛ばすって、化け物かよ!
だが、ルーファスを吹き飛ばした時に無理をしたのかロートの体勢が崩れる。
やれる!
俺が彎刀を握り直し、ロートに斬り込もうとした、その刹那。突然頭に刺すような痛みが走った。
激しく乱れた映像が脳裏に流れ込む。
……全身を炎に焼かれ、崩れ落ちる少女。割れた眼鏡と苦悶に見開かれた淡褐色の瞳……彼女は?!
ぐっ……またか?!
「……『炎よ』」
微かに、しかしはっきりと耳に届く『ことば』。
「『盾よ』っ!!」
逡巡は一瞬。俺は少女を包む光をイメージして『ことば』を叫んだ。
魔法の制御に集中するアレクシアが、俺の声に振り向いたそのとき、彼女の周囲を夥しい数の炎の矢が囲む。
「……え?」
突然のことに戸惑い、呆然とするアレクシア。
くそっ! 間に合うか?!
次の瞬間、炎の矢が一斉に少女に放たれ、悲鳴は爆音に掻き消された。




