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「じゃあ、行ってきます」
「あまり遅くならないようにね」
「行ってらっしゃい」
母と祖母に見送られて、葵は夕方の街に出た。
日が沈んで少しは涼しくなるかと思ったのだが、多くの人で賑わっているせいで昼間の熱気が残っている。
人混みを縫うようにして道を歩いていた彼女は、道の先に懐かしい鳥居を見た。周りを歩く人もほとんどがそこへ向かっているようだ。
「これじゃあ迷子にもなるよね」
呟きながら鳥居をくぐる。その先はもう別世界のようだ。
普段では滅多に見られないような、鮮やかな色の奔流。比較的地味な普段着で来た葵はそれに圧倒されてしまう。
帰省しただけで知り合いもいない祭りは、何となく身の置き場がないような、ふわふわとした感じだった。
少しだけ気後れして、ラムネを買った彼女はそそくさと人が少ない方へ向かった。空いているベンチに腰掛け、冷たい液体を喉に流し込む。
持って来ていた写真を取り出し、提灯の明かりに透かした。
「まぁ……見つかんないか」
これだけ人がいては、探すことは難しいだろう。どうせ端から期待はしていないのだが。
何せ、十二年前に一度会ったきりで顔もわからないのだ。
「何しに来たんだか」
自嘲気味に小さく笑って、ラムネを飲み干した。炭酸が鼻を刺してつんとする。
空き瓶をゴミ箱に捨てて、立ち上がりかけた葵はふと動きを止めた。
いつの間にか、彼女の前に誰かが立っている。
井桁の絣に身を包んで下駄を履き、懐に細長い棒のようなものを差している。あれはいわゆる煙管という物だろうか。
この時代には似つかわしくない、妙な風体だと思った。
あまり関わらない方がいい類の人かもしれない。
そう考えて少しだけ顔を上げ、葵は目を瞠った。
「私の顔に何かついているかな?」
その人は、困ったような声と共に軽く首を傾げた。女性のようだ。
その人は黒い狐の面をつけていた。
思わず手の中の写真と見比べる。
「……いえ…」
色が違うのは当然だが、よく見れば模様も微妙に異なっていた。同じ物ではない。
少し落胆した彼女は、ふいに手元に影が差して仰け反った。
「なっ」
「その写真……」
下駄を履いているというのにまるで足音を立てないその女性が、葵の目の前でじっと写真を覗き込んでいる。
「ご存知なんですか?」
「……さてね」
それだけ言って、女性は体を起こした。
「知っていると言ったらどうする?」
「この人のこと探してるんです。どこにいるか知りませんか?」
「その少年のことかな? 君のような若い娘が探しているんなら、そのうち出てくるだろうさ」
面をずらして器用に煙管を咥えた女声は、不思議な香りの紫煙を吐き出した。思ったよりも不快な匂いではない。
それよりも彼女の癇に障ったのは、女性のからかうような声だった。
「やめてください、そんなこと言うなんて」
「男なんてそんなものだよ」
煙管を咥えた口元が笑っている。それが無性に苛立って、彼女は眉間に皺を寄せた。
「…………」
それを黙って見ていた女性が、からんと下駄を鳴らす。
「いいことを教えてあげようか」
ゆらゆらと漂う紫煙が葵に絡みつく。そういえばいつ火を点けたのだろうと、今更ながらに訝しく思った。
女性は煙管を懐から取り出して咥えただけだ。そこから煙が立ち上っている。
ふいに得体の知れないものを感じて身を引いた葵を追うように、女性は更に体を寄せてくる。
目の前で狐の面が笑んでいる。
「もしも君が望むなら、」
その言葉を遮るように。
「――よせ、ぎん」
低い声が聞こえた。
「……随分遅かったじゃないか、ねぇ?」
すっと姿勢を戻した女性が、口元だけで艶やかに笑う。
葵の腕を、後ろから誰かが掴んだ。
「この娘に手を出すなよ」
「お前を探していたと言っていたがね、その子は」
軽やかな女性の声は変わらない。反対に、腕を掴む手には僅かに力が籠もった。
「……それでもだ。俺にはこの娘を返す義務がある」
硬い声に、女性は軽く肩を竦めた。ひらりと手を振って踵を返す。
その後ろ姿が鳥居の向こうに消えていくのを、葵は無言のまま見ていた。
取り残された二人に、居心地の悪い沈黙が訪れる。
恐る恐る振り返った葵は、後ろに立っていた背の高い人物を見上げた。
古風な矢絣の浴衣に、高い下駄を履いている。さっきの女性とよく似た佇まいだった。
顔は見えない。白狐の面で隠されている。
写真に映っているものと瓜二つの面だった。
間違いない。この青年だ。
「……あの、」
なるべく刺激しないようにと小さく声をかけると、青年は黙って見下ろしてきた。表情が見えないのがむしろ怖い。
「私のこと、覚えてますか?」
勇気を振り絞って尋ねる。
青年は黙っている。面の奥から、強い視線を感じた。
返事はない。それも当然だろう。
十二年も前のことだ、覚えている方がおかしい。
急に恥ずかしくなって、葵は俯いた。まともに顔を見られない。
「……あの時の、迷子だろう」
だから、その答えは意外だった。
目を瞬いた彼女を、青年は静かに見下ろしてくる。
「一瞬わからなかった。もうそんなに経ったんだな」
少しくぐもった声は淡々としていて、そのことが逆に彼女を安心させた。
この十二年間、夢を見たことがないとはいえない。
少女漫画のような展開を想像したことも、一度や二度ではない。
心のどこかで期待していたのかもしれない。
しかし、それをいとも簡単に払拭してしまったこの青年が、葵が探していた写真の中の少年なのだ。
「――久しぶり、キツネ」
ようやく面と向かって、その言葉を言えた。