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【外伝】幸(さち)、舞い来たる 4

 ――俺たちだけでなく、その親、そのまた親も、幸せを味わう瞬間が確かにあったと教えてくれた。

 俺たちが生まれ育ち、そして巣立ってから今この瞬間にも、見守ることが幸せだと言ってくれる大勢の人がいる。

 そんなたくさんの幸せが詰まった、“俺たち”という命から生まれたキミにも、幸あれとの願いを込めて――。


 ――あなたの存在を知ったとき、まず感じたのは、自分たちで築く家族が宿ってくれた喜びでした。

 いろんな不安や戸惑いの中、あなたの存在そのものが支えになりました。

 あなたがいてくれること、それが何よりも一番の幸せ。

 あなたを取り囲む全ての人の“幸せの象徴”としてこの世に現れてくれたあなたにも、幸せを感じられる毎日を送って欲しい。そんな願いを込めて――。


 ――男の子なら、“コウ”と名づけよう――。

 ――女の子なら、“サチ”という名を贈りたい――。


 そんなふたりの許へ舞い降りた、小さく愛らしい新たな天使は――。




 月日が巡り、翌年の十一月二十二日。日本ではにわかに“いい夫婦の日”として各業界が、それにちなんだイベントや商戦を繰り広げるのが定番になりつつある。

 夫婦としてある意味で再出発とも言えるその日は、小春日和に恵まれた。この一年半、何かとひと悶着あった末にようやく迎えることが出来た今日という日を、目に見えない何かが寿いでくれているようにさえ思えた。

 秋晴れの高い空を見上げていた穂高は、そろそろ望の着替えも済む頃合いだと気がついて、このあと数時間は吸えないだろうと最後の一本を燻らせた。

「お義父さん」

 と背後から気色の悪い呼ばれ方をして振り向けば、なかなかに衣装負けしていない精悍な面持ちに笑みを湛えた新郎が近づいて来るのが見えた。

「だから、今更気色悪いからその呼び方はやめえ言うてるやろうが」

 そんな憎まれ口を叩きつけるが、実のところはそう嫌なわけでもない。

「馬子にも衣装発言を防御してみましたー」

 口を開けば相変わらずの頼りない坊主だと思う。そんな呆れの混じった溜息が紫煙とともに吐き出された。

「望の方の準備が出来たんか」

 イエスの答えが来る前提で、そう尋ねながらもまだ半分しか吸っていない煙草を揉み消した。

「ん、もうそろそろ。その前に、ホタにちゃんとお礼を伝えておきたくて」

 芳音はそう言って、灰皿を挟んだ反対側に回り込み、深々と穂高に向かって頭を下げた。

「今回はまたわがままを聞いてくれて、ありがとうございました」

 今回のわがままとは、芳音の地元で披露宴を催したことだろう。ついでに言えば、彼らの性格を考えると、費用の半分を双方の親が負担したことも含まれていると思われる。

「ま、お互い経営者としての顔があるさかい、お客でもある友人たちを招いたのは妥当だと思うがな」

 とつまらなそうに言い捨ててから、棘のある物言いしか出来ない自分に対して眉を顰めた。

「それに、辰巳も本望と違うんかな。克美もそう思ったから支援したんやろうし」

「でも、ホタの顔があるだろ? 取引先の病院の偉い人とか大学の研究室の先生とか、文句出てないかな、って母さんも心配してた」

「東京で披露宴なんてしてみぃさ。渡部の親族なんて、大阪のおふくろと俺の姉一家しか呼んでへんねんで? お家騒動再燃やなんやってまたマスコミを喜ばすやん。うざいわ」

 八割本音でもある言葉を返すと、ようやく芳音が苦笑から本当の笑顔に変わってくれた。

「はは。確かに。……でも、ホントにありがとう。ずっと悪いな、って思ってたんだ。大阪のおばあちゃんに挨拶にも行けなくて」

 それは半分以上、自分が養母を敬遠していたから、という部分もあるのだが。それは芳音に譲歩し過ぎだと思ったので口にはしなかった。

「八十過ぎた引きこもりのばあさんだったからな。それを外に出る気にさせてくれて、却って姉貴も俺も感謝してる。気にするな」

 それもまた本当のことで。遠い昔から今までを瞬時に遡ると、つい口角が上がる。

『穂高が私なんかに育てられてへんかったら、こんな素直な子に育っとったんやろか』

 この会場で初めて芳音を見るなり、そう言って泣き始めた養母の相変わらずさに苦笑した。義姉の薫は「場を考えて物を言いなさい」と叱り、克美と芳音は目を丸くさせ、そして泰江は穂高を庇って場を取り繕う愛想笑いと意訳のフォローに回っていた。そのときふと望に目を向けると、彼女も自分と同じ種類の笑みを浮かべ、穂高の視線に気づいたかと思うと父をいたわるかのように小さく肩をすくませた。

「なんかさ、ホタが人の息子でもあったんだって、初めて実感した。ホタも色々あったんだよね」

 今まで自分のことで精一杯だったから、そこに思い及んだことがなかったと言う。

「帰って来たらさ、またそういう話も聞かせてな?」

 と屈託なく笑う芳音には、幼い少年時代に見せたあどけなさがまだ残っている。それが非常に腹立たしい。人の娘を盗っておいて、その上盗まれた被害者である自分に可愛いと思わせる。

「いやや」

「なんで!?」

 いっぱしの格好のくせに、涙目になって訴える芳音の姿を見てようやく溜飲が下がった。


 担当の係員に呼ばれ、ふたりは新婦の控え室に赴いた。

「芳音、お父さん。お待たせでした」

 そう言ってふたりの方へ向き直る望を見て、ふたりは同時に言葉を呑んだ。

 肩を抜いたウェディングドレスから覗く真っ白な肌と、それを彩る淡いブルーの縁取り刺繍が施された純白のヴェールは、穂高に晩年の翠を思い出させた。髪を結い上げてあらわになった首筋からは、清楚な色香を漂わせている。それもまた、一度だけ見た和服姿の翠を彷彿とさせる大人の女性にしか見出せない魅力だ。甘酸っぱい思いと、これまでにも何度か突きつけられて来た“もう娘ではなく、人の妻”という一抹の寂しさを感じさせられた。

「どう? 二児の母には見えないでしょ」

 と得意げに、そして高慢な見下す笑みさえ浮かべなかったら、望の放った言葉そのままの感想を抱き続けていられたのに。

「何、その顔。ふたりとも目が私を馬鹿にしてる」

 折角最高の笑みを零していたのに、あっという間に口をへの字に曲げて眉尻を吊り上げる。そんな花嫁など滅多にいないと思う。

(鬼嫁って言葉のまんまやんか)

 穂高の小さな小さな毒舌に、芳音が何度も縦に首を動かした。

「もう。ふたりともお母さんたちとは大違い」

 望はそう言ってわざとふくれっ面を見せたものの、すぐにいつものそんな態度はなりをひそめ、穂高を真摯な眼差しで見上げて来た。

「お父さん、わがままを聞いてくれてありがとう。どうしても一番綺麗なときの私をとっておきたかったの」

 翠の花嫁姿を見ることが出来なかったから、自分の娘が年ごろになったとき、同じ想いをさせたくない。望は申し訳なさそうに、初めて願い出て来たときと同じ言葉を繰り返した。

『ママが幸せだったことは、遺してくれたビデオレターで充分解ってるのよ。それに、ママがお父さんの立場を考えて結婚の事実を隠していたってことも知ってるの。だからお父さんを責める意味で言っているんじゃないのだけれど』

 ただ、自分がいつどうなるのか解らないということを翠の人生から学んだ。幼いうちに亡くしたことで、知らないがゆえに自分が勝手に傷ついて、両親まで傷つけた。みんな本当は幸せだったのに。

『だから、確実に伝えられる今のうちにとっておきたいの。みんなに祝福されて、みんなが幸せを感じている中で、幸せの理由のひとつとしてこの子たちが生まれたことを知っておいて欲しいの』

 望が双子を産んで間もないとき、彼女は切実な瞳で穂高にそう願い出た。芳音はそれを納得済みで、調整をつけると言い添えられもした。「ただし、穂高や泰江の了承があれば」というしおらしい条件まで付けて。その申し出を断れるはずがない、と穂高は今でも思っている。

 そんなふたりは、我が子に、“(コウ”“(サチ)”と名づけた。漢字の成り立ちはさておき、男の子の倖には、自分だけでなく人をも幸せに出来る人に、女の子の幸には、常に幸せを見い出せる豊かな心であって欲しいという願いをこめて。

 そして倖と幸、ともに願うのは、

“ふたりが誰からも祝福され、存在そのものがふたりを囲む全ての人にとって幸せの象徴であると知っていて欲しい”

 ということ――。

「俺はわがままを容認するほど阿呆な親ではないつもりやけどな」

 穂高は半年ほど前にも口にした、そんな解りにくい言い方で同意を繰り返した。




 厳かに流れるウェディング・マーチの曲に合わせ、チャペルの扉が開かれる。望と穂高を迎えるのは、広いチャペルに溢れるたくさんの笑顔。日ごろ疎遠になっている友人であり家族となった克美や北木、望を慈しんでくれた数多くの母親代わりのひとりである愛美やその娘たちとその恋人や夫たち、そして芳音たちにとって何よりの得がたい財産でもある、『Canon』にいつも集ってくれるらしい芳音の仲間や常連客たち。多忙な仕事や執筆活動を休止してまで駆けつけてくれた姪の華や藍が、穂高の初孫を抱いてくれている。

「それでは新婦さまのお母さまより、ヴェールを下ろす儀式をしていただきます」

 司会の女性がそうアナウンスをすると、穂高の腕に絡めた望の腕がするりとすり抜けた。そして泰江に向き直り、彼女に合わせて少し身を屈める。

「ヴェールを下ろす儀式は、新婦が娘時代に幕を下ろすことを意味します」

 そんなアナウンスをBGMに、母と娘が小さな声で短い会話を交し合う。

「これからは、奥さんやお母さんとしてののんちゃんだね。いっぱい私にくれた幸せを、のんちゃんも味わってね」

「ありがとう、お母さん。これからもたくさん相談に乗ってね」

 そんなふたりは、清々しいほど涙ひとつなく、これからもともに在ると信じ合っているように見えた。


「ヴェールを下ろす儀式が終わりました。新婦はお父さまに導かれ、これからの生涯をともに歩んでゆく新郎の許へと、ゆっくりヴァージンロードを進みます。みなさまには、盛大な拍手でお迎えいただきたいと思います」

 同時に耳をつんざく勢いに轟く拍手が沸き起こる。これにはさすがの穂高にも、ぐっと堪えるものが湧き上がった。奥歯を強く噛みしめて、ゆっくりと祭壇へ進む。

「お父さん、普通はこんなこと言わないんだろうけど」

 小さな声で語り掛けて来た望をそっと窺うと、その視線はまっすぐ芳音へ向けたまま晴れ晴れしい笑みを湛えていた。

「これからもお世話になるから、“長い間お世話になりました”なんて言わないわよ」

 だから寂しがらないでね、と言ってのけるのが我が娘だ。そのお陰でゆるみ掛けた涙腺が閉まった。思わず口角までが上がる。自慢の娘は、しんみりとした感覚が苦手な父親の気性をよく理解しているらしい。

「上等や。人の親になってまで甘えに来たら、速攻で追い出してやる」

 穂高が小声でそうやり込めてやると、隣からくすりと小さな笑い声が漏れた。

 祭壇の前に来ると、芳音が緊張の面持ちでゆっくりと望に手を伸ばす。今度こそ再び絡められることのない、華奢で細い腕が穂高の腕からするりと抜けた。

 一抹の寂しさが少しずつ穂高を覆ってゆく中、粛々と人前式の式次第が進んでいった。

「それでは、誓いのキスを」

 司会に促され、ふたりが向き合う。芳音の手によってヴェールが上げられ、ほんのりと頬を染める望の素顔が列席者の目に触れる。だがそれは一瞬のことで、一生で一番の彩を添えられた花嫁の顔は、新郎に独り占めされた。

 一秒、二秒、三秒――。

(長い……ッ)

 どうにも父親として居た堪れない心境で目を背けていたが、いつまで経っても司会が次の進行へと移らない。耐えかねて伏せていた顔を上げてみれば、それと同時に後ろの席から飛び交う冷やかしの声。

「なげーぞ!」

「あとで好きなだけやれっつうの!」

 それと同時に湧く爆笑。祭壇へ視線を投げた穂高の目には、芳音の腕を掴んで身を剥がそうと躍起になっている花嫁と、そんな抵抗にびくともせずにしっかと花嫁の腰を抱いてまだやらかしている阿呆な新郎、それを居心地悪そうに見守っている仲介人の苦笑いが映っていた。

(阿呆が)

 目も当てられないコミカルな光景にまた目を背けると、反対側の席には握り拳を掲げて顔を真っ赤にしているバカ新郎の母親と、その隣で必死になって彼女の肩を抱きながら無言でなだめる彼女の夫がいる。

「のんちゃんが安心して遠距離でいられるのは、あの一途さのお陰だね」

 隣から泰江が笑いを堪えた震える声でそう言ってくれなければ、克美よりも先に自分のほうがバカ新郎を殴り倒していたかも知れない、と思った。


 どうにか式を終え、再びチャペルの扉が開く。新郎新婦を導くように、ヴァージンロードだけでなく、チャペルの外、披露宴会場に続く中庭の道にまで延びて列席者が横一列に並ぶ。秋晴れの中で輝く太陽が、ふたりの前途を表すように路面の敷石をきらめかせた。

「おめでとー!」

「こんぐらちゅえーしょーん!」

「お幸せに!」

 たくさんの祝福の声と、ライスシャワーがふたりに投げられる。両脇からの寿ぎの声に応えるふたりは、穂高が今まで見た中で最高の笑顔を振り撒いていた。

 穂高はそれを最後尾から見守っていたが、ふと遠い秋の晴天を見上げた。そして、語り掛ける。


 ――翠。お前の願いは叶ったぞ。俺は父親としては巧くやれていたか?


 ――辰巳。あんたへの借りは返したぞ。あんたの残したかったモノを、あとは芳音が引き継いでくれる。


 安堵と寂寥と自己満足な達成感が、天を見上げる穂高に柔らかな笑みを浮かばせた。

 真っ青な空に薄く広がる雲が流れてゆく。それはまるで天使がすべてを見届け終え、さらに上、天界へと飛び立ってゆく翼のように見えた。

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