1話 お前、誰だ
「どうした?」
「……」
ただ、泣いていた。
頭は冷静なのに、涙だけが止まらなかった。
親父の顔を見た瞬間、すべてが溢れ出した。
親父はタバコを吸い、ギターを弾きながら何も言わなかった。
煙が行き場をなくしたように部屋に漂う。
何も聞かれないのが、ありがたかった。
「あのさ、母さんと……」
親父はタバコの火を消し、ただ黙っていた。
俺は全部話した。
あったことも、感じたことも、そのまま話した。
親父は新しいタバコに火をつけた。
「お前、こっちに来い。」
吐いた煙は換気扇に吸い込まれていく。
俺はただ頷いた。
——————
ひとしきり泣いた俺は久しぶりに、ぐっすりと眠った。
起きる気もないのにかけていた目覚ましが鳴らない朝は、とても気持ちよく起きれた。
それでも時間はいつもと変わらなかった。
———「当分、休ませますので。」
親父は電話で忙しそうだった。
昨日の夜、「俺に任せろ」とだけ言った親父は早速色々とやってくれているのだろう。
俺はその通りに全部、親父に預けた。
朝食をとりに下へ降りる。
———「おはよう。」
祖母は毎日のことのように、俺の飯を用意してくれていた。
祖父も何事もないように新聞を眺めている。
俺にとっては一番ありがたい気の使い方だった。
スーツを着た親父が降りてくる。
「おはよう。」
「おう。」
そう言って味噌汁を啜る。
仕事へ行く親父を見るのは新鮮だった。
———朝飯食うの早いんだな。
「じゃあ行って来る。」
「親父……昨日は……」
「いいからゆっくりしとけ。」
親父はそう言って家を出た。
少しだけ大きく息が吸えた気がする。
——————
ベランダに椅子を出し、ぼーっと空を眺める。
こんなに頭の中がクリアになったのはいつ以来だろう。
いつもより世界が綺麗に見える。
『まだ、救われたわけじゃないけどな。』
いや十分に救われたよ。
『ただ逃げただけだ。』
これでいいんだよ。
『宗介はどうする。』
『お前がいなきゃ標的はアイツだ。』
俺がいなきゃ母さんも荒れないさ。
『本当にそう思うのか。』
『あの暴力彼氏に殴られるかもな。』
アイツは彼氏とはうまいことやってたし。
『太陽と隼人はどうする。』
落ち着いたら連絡するさ。
『落ち着いて転校しますってか。』
いや、まだ決めてないよ。
『転校するなら、間違いなく母親と揉めることになる』
わかってるよ。
そこは親父がなんとかしてくれるさ。
『親父は本当に頼れるのか。』
『1人で逃げて今まで何もしなかったろ?』
そんなことない。
親父は俺の気持ちを優先して……。
『都合のいい解釈がお上手だな。』
そんなんじゃない。
『金出して月一会う方が楽だもんな。』
でも俺に任せろって言ってくれた。
『やっとな。』
『どこかで助けて欲しかったんだろ。』
それは……。
『でも本当に母親の家から離れられるのか。』
どう言うことだ。
『母親、昔言ってたろ。』
『あんたらがいなかったら死ぬって。』
『俺は知ってんだぜ。』
『ずっとそれが引っ掛かってるだろ。』
それは……。
———おい。
お前、誰だ?
俺は当たり前のように頭で鳴る声と話していた。
———『……知ってるだろ。』
『俺はお前だよ。』
お前なんて知らない。
『ずっとお前の中にいたさ。』
『お前が目を逸らし続けていただけで。』
そうだ。
俺はコイツを知っている。
職員室の前で山本と揉めた時。
あの日から、ずっといた。
『お前はずっとここへはいられない。』
うるさい。
『自分でわかっているだろ。』
『すでに母親を裏切った気持ちでいる。』
じゃあどうすればいいんだよ!
『俺が知るかよ。』
『ただ一つ言えるのは戻っても地獄、残っても地獄ってことだ。』
そんなのどうしようもないじゃねえか。
———『だから救われてない。』
声はそう言って消えた。
俺を夢の中から叩き起こして。
俺はイヤフォンをつける。
それでも、声は消えなかった
——————
夜、親父が帰ってきた。
飯を済ませると、
「話がある」
そう言って親父は俺と向かい合って座った。
「お前、うち来るだろ?」
「いや……ちょっと待ってほしい。」
俺の返答に親父は驚いたようだった。
「今日、母ちゃんから電話があった。」
「……」
「蓮介を返せって。すごい剣幕だった。」
嫌な予想は的中した。
「あなたがやったことでしょ?って言ったら、あんたに言われたくないって言われたけど。」
言いそうだな。
「母ちゃんは治らないよ。」
親父は見透かしたような目で言う。
それでも黙っている俺に親父は付け加える。
「蓮介も宗介も連れて来るにはお前たちの意思がいる。」
立ち上がってタバコを吸う。
「俺の気持ちだけじゃどうにもならないのよ。」
少し寂しそうだった。
「ちょっと時間かけて考えたい。」
そう俺が振り絞ると親父は「わかった」とだけ言った。
——————
俺はベッドに横になる。
『ほらな、結局は俺ら任せだ。』
違う。
親父は俺たちの意思を汲んでくれてるんだ。
『都合いいやつだな。』
うるさい。
『やっぱり母親は変わらないな。』
それは……。
「戻っても地獄は確定だ。』
親父にはああだけど変わるかもしれないだろ。
『可能性で言うなら1%以下だろ。』
可能性がある限りは。……。
『じゃあ戻るんだな。』
まだ、決められない。
『早くしないと宗介がおかしくなるぞ。』
……。
一睡もできなかった。
目を瞑っても聞こえて来る声。
イヤフォンをしても消えない。
そんな毎日を過ごす間に俺はどんどんと壊れていった。
———
生きる屍みたいになっていた。
ベッドで宙を眺めて、ドアの前の飯だけ食べていた。
それは、生きているとは違った。
携帯にはいくつかの通知が溜まっている。
母方の祖父母。
大洋と隼人。
そして母。
どれにも返す気が湧くことはなかった。
親父も休みの日に俺を外へ誘う。
でも答えはいつもNOだ。
何もする気になれなかった。
枕元には充電が切れたiPodが転がっている。
母の方にいた時の方が、生きている実感があった。
地獄から逃げて着いた先は無だった。
——————
カーテンは光を閉ざし続け、部屋は嫌な匂いがする。
もう3ヶ月は経っただろうか。
ベランダへ出れば、木々は緑を失っていた。
肌寒さを感じるのに、衣替えをする気力もない。
俺はこのまま死ぬのだろうか。
『死ぬな。もう終わりだ。』
声はいまだに俺の脳に住み続けている。
だよな。
『このままなんの意味もなく死ぬ。』
『何もかも無駄だったんだ。』
そうだな。
——————
この時間なら誰も知らないまま、世界から消えれる。
気づいたら俺は、寝巻きのまま草履を履いていた。
橋の上に立つ。
浅瀬の川。
ここからなら。
俺の人生、寂しいな。
もっと幸せな人生を生きてみたかった。
お父さんとお母さんがいて。
家族の仲が良くて。
素直で考えすぎない。
自然と周りに人が集まる。
そんな幸せな人間に。
目から溢れるものも、そのままに目を閉じる。
———「蓮介。」
親父の声がする。
———「にいちゃん。」
宗介の声。
———「蓮ちゃん。」
両祖父母。
———「うっちゃん。」
大洋と隼人。
———「蓮介」
母さん。
足が急激に震え始める。
ダメだ。
死ねない。
地獄にいたのに、幸せも確かにそこにあった。
俺は橋から降り、膝を抱えて泣いていた。
『情けない奴。』
アイツが笑っていた。




