化かし129 あゆまい
晩秋。紀伊の山々は世界を紅葉に沈める。
「そろそろ、仕度が済みそうだよ」
ミズメは矧終わった矢を矢筒に納め、続けて装具の紐を点検を始めた。
暁烏が啼いてからすでに久しい。
「……」
相方から返事はない。
彼女は寝床の上で伸びており、髪もとき乱したまま、襦袢もまとわず白い臀部を晒している。
「出発を後らせるのは構わないけど、あんまりだらけてると、また誰かが訪ねて来るよ」
警告するも動く気配は無し。ここ数日の朝はいつもこのような感じであった。
「眠たいよう……」
晩には決まって雲雨の交わりをなすので、寝穢い娘には術ないことである。
「自分から誘ったんでしょ。あたしはよしとこうって言ったのにさ」
「結局、負かせられなかったなあ……」
オトリがぼやく。
彼女は初夜こそは水術でミズメを組み敷いて得意げになっていたものの、実際に上に乗っかったあとはどうすればよいか分からず、首を傾げるばかりとなっていた。
「なにさ、負けるって」
ミズメは苦笑する。
過去にいろごとの道を強いられた経験のある彼女は、技術だけでなくそれなりの矜持を持っていたため、相方を手玉に取り続けていた。
オトリの基準はよく分からぬが、先に果てるやら寝入るやらすれば負けなのだそうだ。
それが面白くないらしく、次こそはとオトリは毎晩夜這いを仕掛けてくるのである。
「んっ……」
かたわらから濡れた声。
目をやれば黒髪の隙間から覗く白い背から、鳶色の大翼が生えていた。
「何色ですか?」
オトリが問う。
「また聞いてる。鳶だよ」
「はあ……なんで白じゃないんだろう」
「いいじゃんか、あたしとお揃いで。それに、お祓いの気を練れば白くなるじゃんか」
「ずっと白色が良かったなあ」
翼をひくつかせるオトリ。
借寿ノ術による魂の交換。
ミズメの魂を受ければ翼を得るのも当然の結果であろう。
ところが、翼に憧れていたはずの小娘は自ら魂の交換を提案したくせにそれを失念していたらしく、寝床で羽を散らした時になってようやく気付いたのであった。
「さっき聞いたんだけどさ。ミナカミ様は水分の旅を再開するってさ」
「ふうん。やっぱりヒヨが行くのかな?」
「みたいだね。それにしたって、女子一人で旅をさせるなんてどうかしてるよ」
「そうですよね。好いたひとと夜を過ごすと、私が遭わされそうになったことが余計に恐ろしく感じます。でも、ミナカミ様も昔に旅をしたって話なんです。同じように乗り越えなければかしらにはなれないんですよ」
「厳しいのやら、過保護なのやら……。ほれ、さっさと起きる!」
ミズメはオトリの尻を叩くと立ち上がり、師匠お手製の真巻き弓を背に負った。
すでに旅立つ準備は万端だ。
それからオトリの朝の仕度を手伝ってやり、羽の繕い合いをせがまれ、昼を過ぎてからふたり揃って小屋を出た。
挨拶回りを済ませれば出立するには少々遅いかもしれない。
「あれ、今日やっけ?」
首を傾げるのは水分小町にして巫女頭候補筆頭のヒヨ。
「いや、本当は昨日。昨日はあたしも起きたのが遅かったから」
ミズメが弁解すると、ヒヨは太陽を見上げて首を傾げた。
「もう遅い時間やんな……? 帰りはいつごろけ?」
「決めてないの。一年くらいはぶらぶらしようかなって」
答えるのはオトリ。
「じゃあ、旅先でおねえさまらと会うかもしれへんなー」
「喧しいから追いかけて来たりしないでよ」
ミズメはぼやいた。
「しーへんって。それに、ちょっともう……追い付けそうもないもんなあ」
後輩巫女は寂しげな表情を見せた。
しかし、すぐに挑戦的な笑みを浮かべて「でも、おふたりとは別の道から天辺を目指すんやにー」と続けた。
「さて、私は若い子たちに色々教えてこなくちゃいけへんので! おふたりともお達者で!」
ヒヨは立ち去って行った。
「自分だって若いくせに」
「もうすでにかしらになった気でいるね」
苦笑するふたり。
「歳はともかく、巫女としての腕前は皆より上だから。でも、ちょっと心配かな……」
後輩の背中を見る目は不安げだ。
「ま、ヒヨが自分で決めて歩く道だ。あたしらがとやかく言うことじゃないさ」
「そうですけど……」
「それに、何かあって凹むようなことになっても、都合良く“誰か”が現れるかもしれないじゃん?」
ミズメは相方に笑い掛ける。
「“お約束”ってやつですね。きっと、私とミズメさんみたいに! だんない、だんない」
「だんない、だんない」
頷き合うふたり。
里を回り、しばしの別れを告げてゆく。
「寂しくなりますね」
言葉通りの表情を見せるのはウブメである。
彼女は昔ながらの器づくりにはまっており、羽毛を泥で汚していた。
横をテンマルが、自分よりも小さな子供を従えて水の入った瓶を運んでいる。
「まあ、飽きたらすぐに帰ってくるかもしれないけどね。ところでテンカは?」
「テンカはヒヨ様のところかコウヅル様のところですよ。最近は巫女のお仕事に興味があるみたいで、ずっとくっついて回ってるみたいです」
「あらら、入れ違いになったか。またあとで挨拶しに行かないと」
「ねうこちゃんは?」
「あの子は諦めてくださいな。こっちに来てからはずっと山を駆け回ってるんですよ。杣や狩人のかたと仲が良いみたいで」
「ウブメさん、ちょっとうちの子を見てくれへん?」
乳飲み子を抱いた女が声を掛ける。
ウブメは急いで手をすすぐと、こちらのことは放って親子のほうへと駆けて行った。
「皆、すっかり溶け込みましたね」
「ここは良いところだからね。溶け込んだことより、里の皆がすんなり受け入れてくれたのも驚きだよ」
「ミナカミ様の自慢の里ですから。皆、良い人たちなんです!」
オトリは胸を張る。
「だったら、もうちょっと外に開いてもいいと思うんだけどね」
「ミナカミ様はまだその時ではないっておっしゃってます。スメラギ様や陰陽寮にも黙認されちゃいましたしね」
「仕方ないね。ツクヨミの企みが潰えても、世の中はなんにも変わってないし」
「それはそれで、私たちも善行のし甲斐があるってものですよ」
『……もう行ってしまうのですね』
唐突に現れる神の気配。
「ミナカミ様……。ごめんなさい、巫女頭候補を降りた上に、すぐに里も空けてしまって。でも、すっかり旅をすることに慣れてしまって。なんだかじっとしていられないんです」
再びの旅立ちを言い出したのはオトリであった。ミズメとしては旅でも里でも都でも、面白ければなんでも構わない。
『あなたたちの力は広く役立てるべきですから。小屋はちゃんと残しておきますし、いつでも帰って来てくださいね』
「ありがとうございます。里に何かあった時は遠慮なく呼びつけてくださいね。すぐに飛んで駆け付けますから」
オトリはそう言うと、ミズメの腕を取り「神和はもうできませんけど」と付け加えた。
『嘘おっしゃい。まあ、戻った時はどうか知りませんけれど……』
ミナカミが呆れ声をあげる。
「やっぱり、分かるものですか?」
娘は頬を染めてうつむいた。
『当然です。神様を侮ってはなりませんよ』
威厳ある霊声が響く。
「っていうか、ミナカミ様は毎晩覗いてたしね」
ミズメが言った。盛り上がってくると小屋の外で神の気配がうろつくのである。
おかげでいまだにオトリへ痛みを与える時機を測りかねていた。水の神だけに水を差すのが上手いわけである。
「覗いてたんですか……?」
オトリは見上げた。耳や首まで真っ赤である。
『さあ、お行きなさい。我が子たちよ。未だ不幸に窮する、全ての魂を救う善行の旅に出るのです……』
神はなんぞ宣いながらその気配を遠ざけて行った。
「逃げた」
「逃げましたね」
「ま、善行もついでだけどね」
ミズメは此度の旅も遊びのつもりだ。
「どうします? 温泉巡りとか、式に招けなかったかたに挨拶に行くとか? 秋のうちに沢山回らないと、美味しいものを逃しちゃうかも!」
こちらも遊び半分である。
「そうだなあ、春にはクマヌシのところに顔を出そうとは思ってるけど……」
ミズメは唸り、
「気の向くまま、風の向くままで行こう!」
と元気良く言う。
「そうですね!」
相方も笑顔だ。
かくして、ふたりは再び霧の隠れ里をあとにする。
ミナカミの神威の霧を越えれば、そこは彼誰時。
紅葉に賑わう山々を、太陽のまどろみが一層烈しく燃やしていた。
「綺麗だなあ……」
ミズメの口をついて出る感想。
「いつも見てるじゃないですか?」
オトリの言う通り、これも秋の見慣れた風景であるはずだった。
しかし、今日のミズメのこころには不思議と深く、深く染みたのである。
「闇に暮れ くゆる望月 去り惜しみ されど明日も祈らばやと……。オトリも詠んでみなよ」
「えーっと……」
オトリは腕を組み、うんうんと唸る。
「ふゆがくる たくさんたべる りょこうだよ でもたべすぎたら ねむたくなるよ!」
元気よく詠じられる。
「……ありゃ? 前は詠めてたじゃんか」
ミズメはがっくりと肩を落とした。
「あれは特別の歌だったから、頑張って支度しておいてたんですよ」
苦笑いの骨無し娘。
「あはは、そっか。それじゃ、行こうか」
ミズメは一歩踏み出す。
「あれ、弓を背負ってる。空を行くんじゃないんですか?」
オトリはすでに翼を広げている。
「しばらくは歩いて行こうよ。ゆっくりのんびりさ。山を登って景色を見て、森を掻き分けて川や温泉を探してさ」
「ええっ、面倒くさいですよ! 折角、翼が生えたのになあ……」
しょぼくれながらも翼をしまうオトリ。
「「では、いってきます!」」
振り返り、一礼。
ふたりは沓を踏み出した。
次なる旅路をあゆまえば、新たな出逢いも訪れるだろう。
喜怒哀楽、吉事に凶事……。今から胸が高鳴り躍るようである。
ミズメはつと、足を止めた。
「これは……」
足元に見つけたのは一枚の白い羽根。
雪色のそれを拾い上げ、首を傾げる。
「どうしたんですか? 早くしないと陽が沈んじゃいますよ」
オトリが少し先で呼んでいる。
「ううん、なんでもない」
ミズメは羽根を“どこへともなく”しまい、相方のもとへと駆け、掌を繋ぎ合わせた。
ふたりの姿が夕焼けの山道へと溶け込んでゆく……。
日ノ本国にはかつて、神や鬼が崇められ、物ノ怪が都を跋扈する時代があったという。
今やそれらは姿を消し、想像や書物の中だけの存在となった。
しかし今でも、山ではしばしば不思議な体験をする者があり、それが霊的なものや狐狸の仕業だと囁かれている。
中でも天狗なる物ノ怪は誰しもが知るところであろう。
天狗。これは元は翼を持った物ノ怪ではなく、震旦で山の怪異そのものを指す言葉であった。
平安の時を生きるふたりの娘。
その片割れ、自ら天狗を名乗った物ノ怪、その名を水目桜月鳥という。
「……なんてね」
逢魔ヶ時の中、彼女は“こちら”を振り返り、にやりと笑った。
***** ~完~ *****
暁烏……朝に啼くカラス。今でいう“朝チュン”である。
雲雨の交わり……男女の交わり。
今日の一首【ミズメ】
「闇に暮れ くゆる望月 去り惜しみ されど明日も 祈らばやと」
(やみにくれ くゆるもちづき さりおしみ されどあしたも いのらばやと)
……夜になり満月を望み去るのを惜しむが、日が昇るのも祈りたいものだなあ。
今日の一首【オトリ】
「ふゆがくる たくさんたべる りょこうだよ でもたべすぎたら ねむたくなるよ」
……一見稚拙だが、彼女なりに返歌を編んだ。沓冠なる技術はもう少し時代が下ってから登場する。




