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正しいひとの騙し方


〈 正しいひとの騙し方 〉


シャワーの水音がする。慣れ親しんだ家とは違う空気、感触の違うベッド。

ホテルは嫌いだった。シャワーとベッドがメイン、それしかない部屋は嫌いだった。その部屋に誰かと二人きりなのは、身震いして嘔吐するほど嫌いだった。ーーーけれど。

胸に手をやる。心音は早いもののそれはどきどきと高鳴っているからで、心地良い高揚感だった。首筋に手をやっても肌は滑らかなままで蕁麻疹の欠片もない。嘔吐の予感は微塵も無く、ただ満たされた気持ちでベッドに横たわっている。

……きゅ、と音がして、シャワーの音が止まった。かたかたと何かを動かす音がして、シャワーカーテンが引かれる音がして……ややあってドライヤーの音がして。そうやって、焦がれるほど待って、

きぃ、と、浴室のドアが開いた。

「ともり、ごめんね、お待たせ」

ひょこりと姿を現した彼女が、真っ白なバスタオルを手に言った。

「入って来て?」

隣室を気にしてだろうか、間接照明しかない薄暗い室内、普段より抑えた声に微笑み、上気した剥き出しの細い両肩に手をのばした。




『ともり、今電話しても平気?』

ふぱっと音がしてそんなメッセージが届いたのですぐさま電話をかけた。

「どうしたの? みーさん」

『ごめんね、こっちからかけたのに』

「いーよ。何かあった?」

『あのね、実は……』

彼女は今長期の仕事中、けれどロケ場所は近場で、今も電車で二十分くらいの大きな駅付近にいる。時刻は夕方、仕事は終わっている。しかしそれでも帰ってこれないのには事情があった。

『明日夜明け前に出発するんだけど、ロケ先が急激に冷え込んだみたいで明日の予報がすごいことになってるんだ……』

季節的にそう分厚い衣類が売っている時期ではない。完全に防寒着が必要だった。

「持ってくよ。いつもの仕事用の防寒着だよね?」

『うん、ごめんね。お願いします』

待ち合わせ場所を決めて電話を切る。明日の深夜、もしくは明後日の明け方まで会えないはずだった彼女に今から会えるとわかって胸が弾んだ。足取りも軽く階段を上り、彼女の部屋のクローゼットから黒一色の防寒着と厚手のシャツを取り、丁寧に畳んで鞄に入れた。必要がなければ自分が持って帰ればいいとネックウォーマーも。彼女は寒がりだ。ご機嫌で支度し、家を駆け出して電車に飛び乗った。弾む心をゆるく宥めるように微笑みを隠し、走り抜ける窓の外に視線をやってーーー黒く染まる窓に映る自分は、隠し切れないよろこびに溢れていた。

電車と乗り換えて、進んでーーー辿り着いたその大きな駅の人混みの中、絶対に見逃さない小さな姿。

「みーさん」

「ともり。ごめんね、迷惑かけて」

「迷惑じゃないよ。会えてうれしい」

二日ぶりに会う彼女は仕事モードの服だった。全体的に黒い。黒一色のコーデだ。黒いジーンズに黒いシャツ、黒いパーカー。肩にかかるリュックも大き目で暗色。撫で肩なので太いベルトで肩全てが覆われている。たったそれだけの太さで補えてしまう。細くて、華奢。

「ご飯、一緒に食べよう? あんまりホテルからは離れられないんだけど」

万が一連絡が入ると駄目だから、と言う彼女が鞄を受け取ろうとしたのでやんわりと断り、代わりにその小さな手を握った。




「上司は?」

「綺麗なお姉さんたちがいるお店に行った」

全員じゃないけどね、と笑う彼女を目の前に上司グッショブと内心叫ぶ。どうぞ楽しんで来てくれ。おかげで彼女との時間が増えた。

ホテルの近くのファミレスだった。安いしそこそこうまいし言うことはない。洒落たレストランなどももちろんあったが彼女が自分の今の格好で入るのとはと遠慮したので気軽なファミレスになった。

運ばれて来たサラダを取り分けてくれた彼女が、いただきますと言ってアボガドを口に運びうれしそうにする。

「ホテルはもうチェックインしたの?」

「うん、したよ」

「ビジホ?」

「ビジホ。でもちょっと高いとこなのかな、結構綺麗でびっくりした」

「よかったね」

疲れているのだろうし、綺麗な部屋でゆっくりしてほしい。運ばれて来た豆腐ハンバーグ御膳をおいしそうに食べる彼女を見ながら同時に来た親子丼を頬張った。




ホテルまで送るのは当然だった。まだ十時前で人通りが多いとはいえひとりで戻らせるなんてあり得ない。ちょっとうれしそうに彼女の足取りが軽いのは、思いがけず会えたのがうれしいと彼女も思ってくれているからなのだろうか。

だったらいいな、と思いつつも聴覚に心地良い彼女の声に耳を傾ける。ーーーが。

「ーーーえ、ホテルの階って男女関係ないの」

「え? うん、一緒だよ」

当たり前のようにそう返されてううんと内心うめく。まあ、それはそうなのかもしれない……そこで神経質になっても仕方がない。仕事上のことなのだし。

「部屋、誰も入れちゃ駄目だよ」

「流石に部屋には入れないよ、ドア前対応、はうっ」

店を出た時から繋いでいた手がぐんっとのびて彼女がうしろによろめいた。問題なくそれを受け止めてまじまじと見下ろす。急に立ち止まったこちらを彼女は不思議そうに振り仰いだ。

「え、どうしたの?」

「ーーードア前対応?」

「う、うん」

「……したことあるの?」

「え? そりゃあるよ……」

「……それ夜遅く?」

「おそ……く、かなあ。十一時時過ぎとか」

「……」

「……? ともり?」

「泊まる」

「え?」

「俺も泊まる。ホテル」

「え、へ? 流石に部屋埋まってるんじゃないのかな」

「何言ってんのみーさんの部屋に泊まるんだよ」

驚いたように目を見開く彼女に手を差し出し、「鍵」と短く言ってにっこり笑った。




流石に一緒に帰るのは却下された。仕事中滞在しているホテルに異性を連れ込むのはちょっと、とのことで。

そもそも考え直すように散々説得されたが聞く耳を一切持たず、むしろゆっくりじっくり彼女がうなずくまで迫り、結果羞恥に耐え切れなくなった彼女がうなずいたところで解放した。駅前でいちゃつく男女の一部に加わることがとんでもなく恥ずかしかったらしい。

何だか軽くよろよろしている彼女から部屋番号を聞き出しホテルの前で一度別れた。コンビニで替えのインナーと飲み物と軽くつまめるものを買い、十分時間を置いてから特に気取るわけでもなく自然にホテルの自動ドアを抜ける。カウンターにいるホテルスタッフは丁度チェックインの手続きで忙しく、これ幸いとエレベーターに乗り込んだ。五階。五〇三号室。こんこんとノックするとすぐにドアが開いて中に滑り込んだ。

「……本当に来た……」

「来るよ。ねえ、ドア開ける前ちゃんと確認した?」

「しましたっ」

じとんっとした眼で見上げられ、それからぷいっとそっぽを向かれた。唇が尖っているところからして全然全くこれっぽっちも納得していないらしい。

「あのね、こればれたら本当もうまずいから。制作部がお金出してこの部屋借りてて、そんな部屋に男性連れ込んでるなんて本当、」

「うん。ごめんね、無理言って」

抑えた声で眼を伏せてそう謝ると彼女はちょっと言葉に詰まった。何か言おうとして、そしてやめて、ゆるゆると首を横に振る。……こないだのこともあり神経質になっているのはお互い気配でわかっていた。

「明け方出るんだよね? 早く寝なきゃだね」

「うん。シャワー先使ってもいい?」

「どうぞどうぞ。俺のことは空気だと思って」

「こんな存在感のある空気どうやって吸えばいいのかわかりません」

肩をすくめ少し笑った彼女が浴室へ消えて行った。ややあって水の音。ひとの身体にぶつかる少しだけ丸みを帯びた水音にふうと息を吐いてぼふりとベッドに横たわる。ホテル。一室。普段よりも狭い整っているが薄暗い部屋。……別にラブホじゃないしかつていたような明らかに敷居の高いホテルでもない。……それでも、誰かとこうして同じ部屋に泊まることを、自分の心も身体も拒否しないことがわかって。……ほっとした。

今まで彼女と外で泊まったことがなかったわけではないけれど。部屋は別だったし。……ごろりと寝返りを打った。

……水の音が途切れて、

きぃ、と、浴室のドアが開いた。

「ともり、ごめんね、お待たせ」

ひょこりと姿を現した彼女が、真っ白なバスタオルを手に言った。

「入って来て?」

隣室を気にしてだろうか、間接照明しかない薄暗い室内、普段より抑えた声に微笑み、上気した剥き出しの細い両肩に手をのばした。キャミソールにショートパンツ、この季節いつもと変わらない格好。お湯を浴びたばかりの肌はいつもより熱く、手のひらに吸い付くようにぺたりとしていた。ふわりと香るのは用意して来ていたのかいつもの彼女のシャンプーの香り。あたたかさで濃くなったその香りにくらりとして、眼を眇めてーーー小首を傾げた彼女に下から笑いかける。

「ねえ、みーさんーーー」

さらりと揺れた髪が肩に置いた手を撫でて、心地良い擽ったさに心がゆるんでーーーこんこん、と強めに鳴ったノックの音に目線を上げる。

「あーーー……んんっ、」

それに応えようとした彼女の身体を触れた肩をそのままにくるんっと入れ替えてベッドに彼女を落とした。驚きで声を上げかけた彼女の口を手で塞ぎ、あたたかい唇が手のひらに触れぞくりとしたがそれは抑え込み、ぱちくりと大きな眼を瞬かせる彼女の顔に顔を寄せた。

「しー、ね?」

抑えた声でそうささやいてーーーこくこく、と彼女が声もなくうなずいたのを見てふっと微笑み「いい子」と落として身体を引いた。上着とシャツを一息に脱ぎ、彼女の眼が驚きを湛えたのを見てまた小さく笑い首を横に振った。ベッドの上に落ちたバスタオルを拾い、浴室で手のひらにお湯を零して髪を濡らしバスタオルを軽く被る。

こんこん、とまた強めに叩かれたドアの覗き穴から廊下を覗き、一呼吸置いてからがちゃりとドアを開けた。

「やー、ユキちゃん、一緒に飲まな……」

酒の入った赤ら顔で酒の缶を掲げて見せた若い男は……眼を見開き、絶句した。

「え……あ、れ……?」

「……部屋、間違ってませんか」

「あ、れ……す、すみません」

「……寝たらどうですか。酒入ってんだし」

「は、はい。失礼しました」

不機嫌を装うまでもなく不機嫌だったので手加減無しに睨んでそう吐き棄てると男は怯えたように萎縮しそそくさと逃げるように立ち去る。その姿が階段まで抜けるのをしっかりと見届けてゆっくりドアを閉める。鍵をきっちりとかけ、とどめとばかりにドアストッパーを噛ませた。

「……お待たせ。もう行ったよ」

入り口からは見えない位置にあるベッドの上の彼女にそう言うと、彼女はむくっと上体を起こし布団をめくって中に潜った。白く細い手がぴょこんと飛び出しおいでおいでとされたので近寄ると、腕を引っ張られ布団の中に引き込まれた。

「わ、」

「な、に、をっ。やってるのっ」

篭る布団の中で触れるほど近くにというより触れている彼女。抑えた声をさらに抑えるため布団を被ったようだが湯上がりで濃くなっている仄かに甘い彼女の香りが中に充満し先ほどとは比べものにならないくらい強く酩酊するようにくらりとした。

「ちょ、みーさん、落ち着いて。俺が落ち着けないから」

「何の話っ? それより今は今の話っ」

「俺だってまさに今の話をしてるんだよ……」

「意味がわかりませんっ」

わかってよ頼むからと思うけれどもこれはこれで彼女らしいのでなんとも、ああもう苦しい苦しい苦しい幸せ。

「完全にばれた! 誤解ではあるんだけど事実がばれた!」

「大丈夫だよ、酒入ってたし……勘違いだと思うでしょ。それよりこんな時間に女性の部屋訪れるなんて非常識だよ」

「そうかもしれないけどっ、でもそれは私がそういう風に捉えられてない証拠でしょうっ」

「激甘」

「へ?」

「げ、き、あ、ま。なにこのひと今後どうやって躾けて行けばいいんだよ……」

「何の話っ」

「今の話です」

「仕事の話かもしれないでしょっ?」

「落ち着いてよみーさん。みーさん今回の仕事照明部の下から二番目なんでしょ? 何か仕事の大事な話があるならみーさんにじゃなくて上司に行くはずです」

「……」

「もし仮にみーさんに用があるとしても電話で済むでしょ? それにあいつの用確実に仕事じゃなかったよ。酒持ってたし。飲もうって言ってたし」

「……」

「落ち着いた?」

「……おちついた」

眼を凝らしても篭った暗闇の中ではその輪郭しかぼんやりと感じられない。

それでも彼女が唇を尖らせているであろうと予測して手探りで手をのばし頰に触れた。頰を撫で少し尖った唇を指先で甘やかしするりと首筋を撫でる。

「ふあ、くすぐったい」

「我慢して」

「な、なんで……ん、どんなひと?」

「俺の好きなひと? すごく大好きで特別で大切でとってもかわいくてとっても綺麗で本当にやさしくてとっても格好良い」

「ともりくん」

「髪が緑だった」

「……撮影部のひとか」

「俺、髪の毛緑の人間はじめて見た」

「私だって緑はじめてだよ……」

「緑以外はあるの?」

「青とか赤なら」

「下手なドラマ撮るより裏側をドキュメンタリーした方がおもしろいと思うよ」

「それは私も思ったこと何度もある」

くすっと小さく笑った彼女の顔に顔を寄せる。輪郭が曖昧な篭った中、これだけ暗くても彼女の眼が深い色合いに音もなく輝くのが至近距離で見て取れた。

「……明日は地方で泊まりでしょ?」

「うん」

「またあっても絶対応じちゃ駄目だよ。寝てました、でいいんだから。わかった?」

「はい」

「ん、いい子」




すやすやと眠る彼女を起こさないようにベッドに潜り込んだ。シングルなので広くはない。けれど好都合だった。

シャワーを浴びた自分の方が今の彼女より体温が高かった。腕をのばして彼女をすっぽり抱きしめると、あたたかさが心地良かったのか彼女はそれを確かめるようにすり、と鼻筋を寄せた。

警戒心。

どうやったら芽生えてくれるだろうか。

今後の課題だなと思いつつ、今はただ、腕の中のあたたかさにそっと息を吐いて眼を閉じた。




翌朝、というよりも夜明け前、スマホのアラームで起きた彼女は少しの間放心しーーーエンジンがかかるまで少し時間がかかるのだーーーその間にちゅ、ちゅ、と頭や髪に口付けるとややあって身体と頭の芯まで温まったのか少しあわてたようにぐいとこちらを押し退けた。うん。遅いです。

「この時間だとチェックアウトはカウンターじゃなくてボックスに鍵入れる感じになってるから、あと一時間くらいしたらチェックアウトして? その時ならもう始発あるはずだから」

「うん、わかった」

スタッフが全員出発しているのにまだチェックアウトしていなかったらばれるだろう。下でスタッフとバッティングするのは避けたいので、あとはタイミングの問題だった。

てきぱきと支度しはじめた彼女をベッドの上から見て、なんだか物悲しくなる。なんだこの一夜明けて彼女だけ仕事に送り出す彼氏のような気持ち。いや実際ほとんどそれが正しいのだけれど。

「防寒着、ありがとう。とっても助かった。ーーーいってきます、ともりも気を付けて帰ってね」

身支度を完璧に整え全身黒コーデになった彼女が帽子の下で微笑んだ。うん、とうなずきかけ、やめてーーー「みーさん」ーーー名前を呼んで、振り向いた彼女の腕を引いた。胸に飛び込んで来た彼女の帽子をずらし、額に触れる。

ちゅ。

「ーーー気を付けてね。いってらっしゃい」

にっこりとそう笑って帽子を直すと、彼女ははくはくと口を開けては閉め、それから仕返しのようにこつんと頭突きするとぱっと踵を返した。

「いってきますっ」

ああ、かわいいな。早く帰って来ないかな。ーーーくすくす小さく笑いながらそう思い、甘い匂いが微かに残るベッドに身を沈めた。




幸せな話の、後日談として。

緑の髪の撮影部は現場で、不思議そうな、訝しげな、困惑極まった表情で彼女に「ユキちゃん昨日部屋にいた?」と訊ねて来たらしい。素直にうなずいた彼女はまっすぐに、「いました。早い時間から横になっちゃいましたけど」とこれっぽっちも嘘のない言葉を返し、その撮影部は首を傾げつつ去ったそうだ。

因みにその日は徹夜になり、ホテルには泊まったというより二時間ほど滞在出来ただけ、シャワーを浴びて再集合、となるので精一杯だったそうで、

もちろん、誰かを訪問したり酒を飲み交わす時間なんて全くなかったそうだ。ざまあみろ。




〈 正しいひとの騙し方 噛み合わない会話の正し方 〉


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