彼らの世界の守り方
〈 彼らの世界の守り方 〉
呆気無く、少女は倒れた。華奢で小さな少女よりも大きな成人した男に押し倒され、それの赴くまま蹂躙される。ーーー眼の前で。
食い縛った歯からは鈍い音がし、握りしめた拳からは血が滴った。痛みは感じず、音もなく震えるその手に吉野が触れる。ーーー青褪めてはいたが、凛と目線を上げ唇を真一文字に結んでいた。……親友を信じ、その覚悟さえも受け入れた強い女がそこにいた。……ああ、思い知ったよ。お前らは本当にいいコンビだ。
少女が攻撃に転じ、それを取り押さえたところで吉野の彼氏と飛び出してあとを引き継いだ。吉野が少女の元に辿り着いた瞬間、押し退けるようにして青年が割り込むのを視界の端で確認してから呆然とするそれに向かって拳を叩き落とす。鈍い音と共に赤が散って、それの口の中から白い何かが飛び出して行った。
「いいか、俺が殴ったんだからお前は殴るなよ」
言い聞かせるように。今は理解出来なくていい、落ち着いたらすぐに理解するだろうーーーこの青年なら。
今青年の意識はちっともこちらに向いていなかった。その黒曜の眼はただひとりを見つめ想っていた。
青年の腕の中に収まる少女。
小さな手のひらの中でナイフをくるりと回して刃をしまい、それからややあって、遠慮がちに、その行為が赦されるかどうか心配するように恐る恐る青年の胸にそっと頭を預け、……青年がそれに応えるようにさらに強く抱きしめると、漸くほっとしたように力を抜いて眼を閉じた。
「今回のことご両親に伝えたのか」
「ーーー」
全てが落ち着き元に戻った一週間後、今度は深夜ではなく明るい午後の時間に少女の家を訪れた。青年はおらず、ダイニングテーブルを囲むのは少女とその親友と自分の三人だった。
少女が目の前の皿から眼を上げる。昼時なので少女が振る舞った和風パスタ。鶏肉とエノキとエリンギとナスとキャベツと油揚げ。トマトソースが十八番の少女だが、それ以外のパスタももちろん美味い。基本的にこの少女は料理上手だ。
「伝えてないよ」
「だと思った」
吉野がうなずく。同感だった。
「ーーーあとで知ったら傷付くんじゃないか?」
暴行未遂ーーーいや、もう既に未遂ですらない。
「うん。ーーーそうだね」
「でも言わないのか?」
「うん」
「なんで」
「うーん」
少女は微笑った。ここから先は何があっても言わないという明確な意思の現れ。
曖昧に誤魔化されない。言わないということを微塵も隠さない。正々堂々と、沈黙という選択をする少女。
「ーーーユキ、まだそんなに傷残ってるの?」
話題を変えたわけではあまりなく、純粋に気にかけてのことだろう。心配そうに眉を顰めた吉野が、家の中においてもストールを首に巻き長袖のブラウスにジーンズ姿の少女に訊ねる。
「ん? いや、ほとんど残ってないよ。けどまあ見て気分が良くなるものでもないから」
「……まあそれもそうだね。暑い?」
「あつい」
「ユキ暑さと寒さに弱いからねえ」
「秋だけを過ごしていたい……」
「春は?」
「ほら、花粉症」
「ああそっか」
「……」
パスタを口に運び、今はまだいいかと視線を落とした。
「ユキ」
「なあに?」
三木が帰ったあと、ソファーに腰かけた少女の首元に手をのばした。ばっと少女が上体を逸らすが想定内だったのでそのまま肩口を押してソファーに横たえる。自分の勢いをそのまま利用され眼をぱちくりとした少女は一瞬で我に返ってわたわたと暴れた。
「ちょ、要くん! なに!」
「ストール外せ」
「初っ端から命令! もうやだこの反面教師!」
「うるさい問題児。三十八人全員問題児だったんだぞ。あの当時の俺の職員室でのあだ名は『異能使い』だったんだからな。最早猛獣ですらないんだぞ。完全に異能者扱いされてたんだからなお前ら」
「初耳! ごめんなさい!」
ぴゃあっと喚いた少女の隙を縫ってするりとストールを引き抜いた。
「あっ」
「……濃くないか、これ」
眉を顰め、その首筋を見下ろす。真っ白な肌に散る赤い痕。薄っすらというよりかはまだ微妙に濃く残るそれ。
「昔から痣とか傷の治りがゆっくりなの! も、恥ずかしいから見ないで!」
「……別に恥ずかしがらなくても」
嫌、じゃなくて恥ずかしい。脳裏にちかちかと浮かんでいた可能性が八割方事実に固まってうなずいた、瞬間、
ばんっと勢い良くリビングのドアが開いた。飛び込んできた青年が自分と自分に押さえ付けられた少女を見て一瞬で血の気を失う。
「あ、ともり。おかえーーー」
おかえり、と慌てもせず言いかけた少女からすっと退いた。間髪置かず青年が割り込んで少女の小さな身体を抱きしめる。
「わっ」
「何やってんだよ妻帯者!」
「まだ痕が残ってるって言うから。流石にもう消えててもいいだろ」
「俺があとから上書きしたからいいんだよ! だからまだ残ってるの!」
「わーっ!」
途端、泡を食ったように少女がわたわた暴れた。それ以上言うなとばかりに青年の口元に両手をのばしその小さな手のひらで塞ぐ。まだまだ言い足りなかったのか青年がその手を退けようとしたが少女は頑なに動かず、青年がちょっと眼を眇めた瞬間「ひゃんっ」と甘く高い声を上げぱっと少女が手を離した。舐められたのか噛まれたのかあるいはその両方か。
「もう本当やめろ心臓止まるかと思った、二番目に怖いのがあんたなんだから本当勘弁してくれ」
「ふうん。一番目は?」
「みーさんに決まってるだろ」
「だろうな」
「それも初耳!」
青年の腕の中でぴゃあぴゃあ少女が騒ぎ、疲れたように青年がその髪に顔を埋めた。深く深く息を吐き、ぐったりと少女に凭れかかる。体重を捉えきれない小さな身体がまたソファーに背中を付けた。
「ふぎゃ」
「もー……ちょっと眼を離すとすぐこれだ……」
「気を付けろよ、本当。ただでさえこれだぞ」
「わかってる……」
「んに、とも、ともり重い。おもたい」
「慣れて」
「いや無理潰れちゃうよ……」
「まあ確認も出来たしもう帰るよ。ユキ、油断するなよ」
「ちょっ、要くん! あなたの教え子押し潰されてますよ! 放置ですか! 心が痛まないんですか!」
「全然」
「鬼畜! 教育委員会に訴えてやる!」
「お前らが意図的に平均点操作したのばらしてやる」
「ごめんなさい!」
少女鼻を摘んだ。きゅっと力を込めてからふわりと離す。
「ぷはっ」
「き、を、つ、け、ろ、よ?」
「……はあい」
トーンダウンし。少女が小さく、うなずいた。
とりあえず力を取り戻したのか少女から身を離した青年が起き上がる。ーーー視線がふつかり、お互い眼でうなずいた。
青年の手は、揉み合った時に負った傷はーーーもうほとんど、残っていなかった。
少女に手をのばし、怖がらせ怯えさす。ーーー論外。
皮膚が破れまだ少し色が変わっている手を、ポケットの中に入れようとーーーした。
「要くん」
呼ばれて。ーーーその手が小さく、握られる。
いつだってまっすぐに見上げて来る、海の底の光のような全てを呑み込む深い深い色の眼。
「ありがとう」
やわらかい声が、心を紡ぐ。
「ーーーん」
応えて。
その手でくしゃっと頭を撫でた。ーーー怖がられず、怯えられない。
少し面映そうにふは、と微笑う少女。
悪くない。悪くない。ーーーこれがいい。
また来る、と言い置いて、家をあとにした。
数歩歩くと、横に並ぶ少女の親友。
「どうだった?」
「問題ない。あいつが上書きして濃くなってただけ」
「やっぱり」
よかった、と、ほっとしたように吉野が微笑う。
「トラウマにも何にもなってないみたいだな。……それもそれである意味問題だけど」
「ユキは信用してる人間に傷付けられない限り傷付かない子だよ。そうなることを選んだ子だよ」
「……そうだな」
「それでも心配になるよね。ーーーでも、ユキもそれを識ってるよ」
心配されていると。
心から思われていると。
自分は大切にされているのだと、きちんと識りそれを誇りに抱く少女。
識っている。もう何年も前から、それを識っている。
「今回のことでもいろんなひとが動いてくれたみたいだし。弁護士さんとかーーーすごいひとみたいたよ、調べたら大手弁護士会社のエースだった。どんなツテで来てくれたのか知らないけど。それに、要くんのところにも届いたでしょ?」
「ああ、あの英文メール」
「うん。誰かからなのかはわからないけど。添付されてたデータ、橘くんの個人情報。あれだけあれば私たちだって簡単に社会的に封殺出来るよ」
「執念を感じたよな。誰だか知らないけどよっぽどひねくれてるんだろうな。正直助かったけど」
「ね」
巻き込み、巻き込まれ、少女もまた、巻き込み巻き込まれ、皆一切に渦の中。
それでも離さない。必死に少女を抱きしめ、抱きしめ続けたひとりの青年。
「……怖がるわけでも怯えるわけでもなく恥ずかしがるだけだもんな」
「ん?」
「や、こっちの話」
違うか。
彼らの話、か。
〈 彼らの世界の守り方 彼らと世界の守り方 〉




