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日常の迷子、正しい喧嘩の仕方


〈 日常の迷子、正しい喧嘩の仕方 〉


今日こそはいるだろう、そう思い開けた英語資料室は無人だった。雑然とした狭い室内、いないと視覚が認めても心が認めたくなくて、隅々まで見渡してーーー漸く『いない』ことを心が渋々受け入れ、がくりと脱力する。

「あー……くそ」

今日こそはいるだろうではなく今日こそはいてくれの間違いだったのだと、今さらながらに自覚した。




少女と喧嘩した。

「御影? ーーーああ、元気にしてるよ。今日も」

プリントを提出しに来た永見に少女の様子を訊ねるとあっさりと答えられた。ーーー自分にとってのマイナスを。

「あ、そう……」

「だいぶ心に来てるね。もう四日? 毎日教室で顔合わせてるにしては長いよなー」

「……眼は合わせてねえよ」

最後にあの深い深いすべてを呑み込むあの眼が自分を映したのは四日も前の放課後だ。

愕然と、信じられないものを見るような眼をしてーーー少女の小さな顔が、くしゃっと歪む。

要くんの馬鹿!

教師に、しかも担任に生徒が言うべき言葉ではないことは明らかだ。ーーー明らか、ではあるが。

その言葉に、表情にショックを受け、思わず呆然としてしまい、ぱたぱたと走り去る少女をみすみす逃してしまったーーー。

あの時きちんと追いかけていればーーーとか。

ちゃんと説明していればまだーーーとか。

四日経った今も悶々と、考えている。

くつくつと喉の奥で笑う少年を恐らく無気力な割にはマイナスに振り切った眼で横に見て、

「永見次の授業長文な」

「別にいいけど。御影と予習しとくから」

「……」

「……」

ああ、わかったよ。思い知ったよ。本当お前らたくましい奴らだよ。

「謝ったら?」

「……謝らせてくれたらこんな長期戦してねえよ」

「ああ、じゃあうん、そういうことか。かわいいな御影」

「は?」

「は? じゃないでしょ。御影がかわいいなんて今にはじまったことじゃないんだから」

「いやそれは知っ……じゃなくて」

「他クラスからのちょっかいどれだけ封殺してると思ってんの」

「引き続き頼……むけど。何が『そういうこと』なんだ?」

「嫌だよ、何で自分より歳上の男に微妙なニュアンスの話しないといけないわけ」

「……」

正論過ぎて返す言葉もなかった。

「残念、要さん。俺たち三十七人、要さんのことそりゃもう慕ってるけどーーー躓いてその場から動けずうじうじしてるおっさんより同い年の何事にも一生懸命な明るいかわいい女の子の方を応援しちゃうんだ」

「……おっさんって言うな」

正論過ぎて返す言葉も、以下略。




ことの発端は一ヶ月ほど前まで遡る。

「……ユキは?」

「ダッシュで帰ったよ」

「は? 何で」

今日は例によっていつものドイツ語レッスンのはずだった。ドイツ文学研究部などという適当に付けた部活、四月に新入生観入活動も全くしなかったので新入部員はゼロ。部員が三名以上いないと廃部になるので名目上は五人ほど名前を連ねているが、それは全てこのクラスの人間で尚且つあまり部室である英語資料室には顔を出さなかった。きちんと活動とも言えないような活動をしているのは少女くらい。と言っても自分が課題の答え合わせやプリント作りや休憩と称してうとうとと眼を閉じる傍で貸したドイツ語の本や教科書を少女が読み解いたりするだけの時間で、例えば文化祭時に何か研究発表をするとか、何かコンテストに応募するとか、そんな風な活動は一切していなかった。

とはいえテスト前やイベント前は例外として普段なら週に三日は放課後資料室で会っている。今日もその日なはずなのにホームルームが終わった瞬間少女は姿を消していた。

「何でってーーー」

少女の親友が答えようとした、瞬間。ぱあんっと勢いよくドアがスライドし長身の生徒がひとり飛び込んで来た。

「Yuki !」

名前を呼んだだけなのにそれは頭の中でローマ字に変換された。まだ言葉に慣れない外国人が日本語を口にする時のようなあの独特のイントネーションで少女の名前を呼んだ明るい茶色の髪を持つ少年は、その瞳をきらきらと輝かせたまま教室を見回した。それなりに人数が残っているのだが誰も反応せず、目当ての少女がいないとわかった段階でその顔が曇る。吉野の方に、その少年は歩み寄った。

「…Where is Yuki ?」

「もう帰ったよ」

「……」

英語に日本語で返し、少年はーーー交換留学でこちらに来た留学生は、むうっと押し黙る。単語で理解したのか吉野の表情で理解したのか、それはわからないが残念そうに肩を落としうなずく。

「OK…See you tomorrow」

「うん」

のろのろと出て行った留学少年を見送り、がら、とドアが閉まったところで視線を落とす。

「……あれが原因?」

「あれが原因」

憮然とした表情で少女の親友はうなずいた。




三ヶ月の短期交換留学。姉妹校であるその学校から一名、こちらから一名。やって来たのが先ほどの少年、デニス・バーレ。特進クラスに入れられたデニスと彼が満足するレベルに話せる生徒は少なく、デニスはあっという間にホームシックになった。授業もさぼりがちで、PCルームに篭ってはネットで自国のサイトを巡回する。完璧なPCルーム登校者になってしまった。

そもそも留学生に対する対応がきちっとマニュアル化されている学校ではない。何故ならこの少年が留学生第一号なのだから。だがそれは本人からしてみれば知ったことではないし、もっと言うのならば「もうちょっとちゃんとフォローしてくれ」と言うところではないだろうか。

そこで、見かねた特進クラスの担任教師が白羽の矢を立てたのが、

「留学生連れて来た金谷先生が。廊下を歩いてたユキに話しかけて、『御影は英語が得意だもんな! ほらデニス、レッツトーク!』とかよくわかんないノリでふって、英語わからないふりも状況的に出来なくて少し会話したの。……そしたら」

その少しの会話で『喋れる』相手だと確信したらしい。デニスは目を輝かせ一瞬で少女に懐いた。少し複雑だが少女の義父と義弟は日本人ではなく、扱う言語も日本語と英語だ。再婚し家族になったのは少女が中学生だったほんの二年と少し前だが、それ以前から関わりを持ち英語を習っていたらしい。元々頭の良い少女が取得した英語は今では本国に行っても十分通用するレベルで、よっぽど品のないスラング以外だったら問題なく理解出来ている。

「それから毎日毎日、休み時間や昼休みや放課後、毎日毎日毎度毎度『Yuki !』って飛び込んで来てユキ独占。温厚な我らもそろそろ考えはじめてるところ」

何を、とは訊かなかった。

「……逃げてるのはバーレが特進クラスだからか」

「そう」

特進クラスにはーーー少女と折り合いの付かない人間が、いる。

直接何かされているところを見たわけではない。

巧妙に隠され、そして、誤魔化されている。

ただ、何度も見たことがある。

少女と廊下を擦れ違う時。感情のない眼でじっと少女を睨み付け、それなのにその存在を無視するように通り過ぎるーーー二乃幸。

少女はいつも眼を臥せている。

呼吸を止めて。軽くうつむき。決して、相手の顔は見ず。

バーレが喋れる相手は、特進クラスに全くいないわけではなかった。

少女ほどではないものの比較的英語を喋れる二乃幸と古見直樹。その二人が例外だったが、いかんせん、この二人はそもそもそんなに誰かと喋れる人間ではなかったようだ。

少女はその関係について何も言わない。けれど、直接的でも間接的でも。少女は接触を避けている。

まるで糸が結ばれるのを恐れているかのように。

「特進クラスじゃなきゃあの子だって避けたりしなかっただろうけど。でも特進クラスに配属されたのは留学生の責任じゃないから邪険にも出来ないし。けどなるべく避けたいから、休み時間はなるべくトイレに行ったり帰りはダッシュで帰ったりーーーまあそれでも捕まることが多いんだけど」

あの留学生、コンパスあるから足が速い。と、おもしろくなさそうに吉野が言う。

「だからしばらく資料室行けないと思うよ。ユキ」

「……そうか」

「残念?」

「……クラスにはいるだろ」

そう答えたあの時の自分を、今思い切り殴ってやりたい。




数日後の昼休み、資料室の鍵を開け入るとくったりと机に突っ伏した少女がいた。

思わず一度二度瞬きしてーーーそれから少し急いでドアを閉める。篭る紙の匂いの中、明るい室内でくてっと脱力している少女。

「起きてるか」

「眠ってます」

「毒林檎も食べてない癖に」

「さっき食べたもん。でも平気。トウマが起こしてくれるから。……本当かわいいんだよ、ユキ大好き! ってほっぺにちゅーしてくれるの」

「そりゃよかったな」

新しく出来た歳の離れた弟をこの上なくかわいがる少女にそう答えていつもの定位置に座る。少女がくらりと僅かに顔を上げた。

「疲れてるな」

「疲れてないよ」

「逃げて来たのか」

「ちょっと休憩しに来ただけ」

その割には鍵もきっちり閉めて、鍵を持つ人間以外には入れないようにしていたが。まあいいかとプリントを手に取る。自分が鍵を持っているのを少女は当然知っているのだから、別にいい。

「寝るなよ」

「眠ってます」

「誰だよ毒林檎食わせたの」

「落ちてたから拾って食べた」

「そんなに危ない学校だったか、ここ」

くてっと再び少女が力を抜いて突っ伏した。午後の気だるい外光の中、さらりとその儚い色の髪が色を変える。

微かに聞こえはじめた規則正しい穏やかな吐息を聴覚に捉えつつ、白い紙の上に広がる英文に眼を落とし、しばらくだけ、と、自分も眼を閉じた。




それから数週間、少女と放課後資料室で会うことはなかった。間に試験期間も挟んではいたがこんなに長い間あの部屋で会うことがなかった試しはなく、欠けた日常が落ち着かずーーー苛々、する。

もちろん毎日教室で顔は合わす。だから毎日眼にすることになる。授業終わり、バーレが教室に飛び込んで来て少女に纏わり付く一部始終を。

資料室に、次少女に貸す予定だった本がどんどん、貯まってゆく。




「いやあ、デニスもすっかりホームシックが薄れたようで! 御影には本当感謝ですよあっはっは」

職員室で金谷にそう言われた時何があっはっはだふざけんなハゲがこっちのこと考えもしねえでと胸中で罵った。こいつさえ余計なことを言わなければと思ってしまうのは仕方がない。

「……御影も少し困っているようですが。休み時間や放課後の度訪ねられているようで」

「ああ、でもお互いいい交流になっているんじゃないですか? 異文化交流、大いに結構! 交換留学も成功と言っていいですね!」

いいですね! ではなくて。話聞く気ねえなこのおっさん。

「テスト期間中も御影に何度もバーレは遊びに誘っていたようで。異文化交流も確かに大事ですが、こうもひとりに集中されるとーーー」

その時、金谷から怒気を感じた。いや、金谷ではなくてその背後からーーー思わずぞっとしてそちらを向くと、整った顔立ちの少年がひとり立っていた。

二乃幸。

その眼は冷たく凍え、色素の薄さがそれを尚更剣呑なものにし、見る者をぞっとさせる。

「ん? ああ、二乃! どうした?」

「ーーー日誌です。サインお願いします」

「ああ! どれどれ」

黄色い表紙のそれを金谷に提出した二乃はその冷え冷えとした視線をこちらに向けた。……何だこいつ、何にそんな怒っているんだ。

「バーレが休み時間の度クラスを出て行っていましたが。F組に行っていたんですか?」

「……ああ」

「どうしてでしょう」

「……」

「ああ、俺が勧めたんだ。御影を知ってるだろ? お前と同じ特待生の! あいつは英語が得意だからな、いい話相手になると思ってな! 最近バーレも明るくなっただろう? お互いいい傾向だな!」

「だから御影にはーーー」

いい加減に、と。

思わず言葉を挟んだ瞬間、ばっと激しい音がして金谷の手から日誌が取り上げられた。

「ん? え?」

「……サイン、ありがとうございます。……金谷先生」

「お、あ、ああ」

「バーレ、最近俺にあまり話しかけてくれなくて残念に思ってたんですよ。ーーーこれから俺ももう少し話しかけてみます」

「お、おお! そうか! 頼んだぞ!」

「ええ」

冷え冷えとした口調。

感情の篭らない言葉。ーーーいや、篭っている。篭り過ぎるほどに。

何が琴線に触れたのかはわからない。ーーーけれど。

二乃幸は怒っていた。その整った顔立ちを凍えるほど冷たくしーーー絶対零度の声を以って、怒っていた。




「……二乃? さあ。……ユキを虐めてるのは確かだよ」

「……そうか」

ならあれは、自分が少女を害するのを邪魔されたという怒りだったのだろうか。……違う気がしたが、何にせよ少女が二乃を避けているのは明確な事実だった。……少女が自ら避けているのだ。そこにそれ以上の事実はない。

「あのね、最近休み時間の襲撃減って来てるよ。この分なら今日の放課後もないかも」

「……そうか」

「よかったね」

「……」

「あ、ユキ戻って来た」

廊下の向こうに少女の姿があった。こちらと親友の姿を眼にし、ぱっと表情を明るくさせた少女がぱたぱたと小走りに駆け寄って来る。廊下は走るなと言うべきところだろうがそんなことはまあ別にどうでもいい。

「ねえ聞いて! 限定メロンパン買えたー!」

「おー、よかったねえ。明日は槍が降るよきっと」

「うわあそう来たかー!」

「どうするどうする?」

「うーん、今この場でメロンパンを楽しむ! はい、幸運のお裾分けー」

「わーいありがとー」

袋を開けて一口千切った少女が吉野にそれを渡す。もう一口千切りこちらにも差し出した。

「はい、要くん」

「……さんきゅ」

名前を呼ばれたのがとても久々な気がした。ふんわりとしたそれを受け取り口に運ぶ。バターの風味がやわらかく口内を満たした。

「……本が貯まってる」

「え?」

「本が貯まってる。次の課題が。どうする」

「……っ、今日受け取る!」

「じゃあ放課後取りに来い」

「うん!」

にっこりと、うれしさを隠しもせずに少女が微笑った。「めでたしめでたし」と横にいた吉野が呟いたので小突いておいた。




やって来た放課後、一足早く資料室でプリントに眼を落とす。ぱたぱたと軽い足音が近付いて来て、がらりとドアを開けた。

「要くん、来たよー」

「ん」

プリントから眼を離さず短く返す。気にした様子もなく少女は弾む足取りで中に入り、「あーもうまた散らかってる」とか「要くん、最後に換気したのいつ!」とか何だか妙に楽し気な口調で言ってぱたぱた落ち着き無く動きはじめる。いいから座れよとも思ったがご機嫌な少女に口を挟むのもなんで黙ってちらりとプリントから視線を上げて様子を見守った。しばらく自由にさせておこう。

「要くん、この資料の山なあにーーー」

少女がいない間に片付けるのも捨てるのも億劫で積み上げた山のひとつを前に少女が言いかけたその時、がらっと音がして勢いよくドアが開いた。

「Yuki ! 」

飛び込んできた異国の少年。驚いた表情の少女にうれしそうに歩み寄り、その手を掴んだ。

「Finally found ! Go home ! 」

「Wait, I…」

くんっと華奢な手が引かれ、プリントの山を崩した。散らばったそれに足を滑らせ、その美しい色の髪を靡かせ、引かれた少女が少年に倒れ込むーーー

寸前、小さな身体を捕まえた。

「Hände weg」

触るな。ーーー低い声でそう吐き棄てた。ーーーどいつもこいつも。

どいつもこいつも好き勝手しやがって。

「ーーーか、な……」

抱きとめられたそのままに。腕の中で、驚いたように少女が眼を見開く。ーーーその小さな声は、

「……! Ich kann Deutsch sprechen ! 」

「った、」

そのうれしそうな声に遮られた。片腕に少女を抱えたままのこちらに少年はこれ以上ないくらい眼を輝かせてずいっと身を乗り出した。詰め寄られ距離が縮まり、少年とこちらの間に挟まった小さいのが潰れたような声を上げる。

「ぎゅっ」

「あっ、おい馬鹿潰すな」

「か、要くん、何でドイツ語……?」

「だっても何もこいつドイツ人だろ」

「え? そうなの?」

「知らなかったのかーーーわ、」

「Kaname ? Kaname ! 」

「っ、っせえ本当もう振り回すんじゃねえくそがもう散々振り回されてんだよこっちは」

「……要くん、通じてないから。ほら、ドイツ語で」

ぐったり疲れたように脱力した少女と久しぶりに母国語で話せるとわかり眼を輝かせて詰め寄る少年とーーーああ、くそ。

日常は未だ、帰って来ない。




そういうわけで、見事に標的は自分になった。休み時間や昼休みや放課後、廊下や職員室や資料室、毎日デニスはやって来る。

「あいつ本当お喋り……」

ドイツ語のマシンガントークに連日付き合わされぐったりとしながら、何とか振り切り残りも少ない昼休み、愛すべき教え子たちのいる教室へ顔を出す。

「あー要くんだー」

「ほんとだー」

「疲れてますねー」

「疲労困憊ですねー」

「酷い顔してますねーぷぷぷ」

「ドイツ人美少年にもてもてですねー」

「隅に置けませんねー」

「よっ、小納言!」

棒読み一本調子の声がやる気なくわらわらと集まり、自分は本当にこいつらを愛しているのだろうかとつい眼が遠くをさまよった。クラス全体で飼っている小動物とも言える少女が付き纏われなくなったのでもう嵐は去ったとばかりにクラスメイトたちはのんびりとしていた。誰か助けろよ。っていうか小納言って微妙過ぎるだろ。

「……はあ……おい、ユキ」

「なんですか?」

「課題終わってるだろ」

「ええとっくに」

「……」

ターゲットが変わってからニ、三度、少女と放課後いつも通り資料室で集っていたーーーが、毎度毎度デニスが来てマシンガントークをかましてくるのでついにはまた少女は来なくなった。

「……今日は来ないってさ。用事があるからって。課題持って来てるか?」

「え、はいーーー、う、ん」

「じゃあ放課後見るから持って来い」

「っ、うん! わかった!」

うれしそうに少女が微笑った。やれやれと肩を下ろし、その横で吉野がにやにやとしているのでまた小突き、密かにほっとして息を吐いた。




やって来た放課後、資料室に一番乗りし、いつも通りプリントに眼を通しながら二番手を待った。……しばらく経ち、ドアが勢いよく開く。張り切りすぎだろうと視線を上げて、……絶句した。

「Kaname ! 」

輝く笑顔のデニスだった。え、お前用事は? 急遽変更になった? 延期? だから今日は空いた? え? え?

はじまるマシンガントークに流石に言葉を失っていると、からからっと控えめだが普段より勢いよくドアが開いた。

「要くーーー」

開いて。ーーー深い深いすべてを呑み込むあの眼が見開かれ、絶句する。

「……ゆ……、き。急遽、予定が……」

細い指がふるっと震えて拳になった。愕然と、信じられないものを見るような眼をしてーーー少女の小さな顔が、くしゃっと歪む。

「ーーーっ、要くんの馬鹿!」

叫んで。

ぱっと身を翻し走り出す。普通にショックを受け呆然としそれから我に返り、気にする様子なく喋り続けるデニスにおい退けふざけんなというかあいつ足速え! ふざけんないろいろと! あわてて廊下へ出るもののあっという間に廊下を走り抜け姿を消した少女を見失ない、数拍置いてからよろよろと壁に手を付き、

「……嫌われた」

ぼろりと零れた言葉に自分で自分に止めを刺した。




それが四日前。ホームルーム中も授業中も、一切こちらと視線を合わすことない少女に自分の方が消耗する。

こういう時に限って誰も来ない昼休みの資料室、からからとドアが開き思わず縋るように眼をやった。

「残念。吉野ちゃんでーす」

「……なんだ吉野か」

「然るべきところに訴えてあげましょうか先生さま」

「まだ手、出してないから」

「その割にはクラス公認だよねー。確かにまだ何にも手出してないのに」

「大人だからな」

「や、その大人の精神力よりもその話を決してクラスから漏らさない私たちの団結力こそ天晴れですよ」

「……確かに」

「まあせっかくの楽しめるおもちゃ……長期ウォッチング出来る機会を自ら無駄にしたくないって話なんだけどね」

「今玩具って言ったか」

「こういう話で要くんはからかえるけどあの子はまだ恋愛する覚悟も自覚も決断も足りてないからからかえないし。だから私たちのくすくすにやにやうふふはぜーんぶ要くんに向かうんだ。要くんのこと大好きなのにそういう意味での好きなんだってあの子全然自覚出来てないし」

「……」

「まあ卒業しちゃえばちょっと強引に迫って自分のものにしちゃっても問題ないんじゃない?」

「……」

「あと一年と少し! 頑張れっ! まあ元に戻れたらの話だけど!」

わざとらしいほどにっこりと笑いかけられ、ああこいつ本気で怒ってるなと冷や汗が流れた。

「……悪かったって。でも考えてもみろよ、嫌われたんだぞ……話する機会すらくれないし」

「ああ?」

凄まれた。これが生徒が担任に取る態度だろうか。

「ナガくんも『あの暴虐無人ないい歳した男すげえ馬鹿なこと言ってたからちょっと〆てくれば?』って言ってたけど想像以上の馬鹿だわこれ」

「お前ら本当は俺のこと嫌いだろ? 知ってるんだからな」

「『嫌い』なんて言わないよ、あの子。『嫌い』って言葉選ぶ子じゃないでしょ」

吉野が笑う。ーーー仕方ないなあと、そんな表情で。

「自分のために怒る子でもないでしょ。他人のために怒ることはあってもーーー自分のために怒る子じゃない」

「……怒ってたけど」

「そうだね。『自分』のために怒ってたね。……思わず。自分でもびっくりして、そのあとどうしたらいいのかわからなくなるくらい」

「……」

「ずっと我慢してた大好きな時間。楽しみにしてた分期待が外れてがっかりしちゃって、悲しくなって何だか腹立たしくもなって、大好きなひと取られちゃった気がしてやきもきしてーーー頭の中パニックになって、小さい子みたいにわあって捨て台詞叫んで自分でも訳わからないまま逃げて。逃げたあと、これからどうしたらいいのか、どうやったら元通りになれるのか、なんて話しかけたらいいのか、考えても考えてもわからなくてそもそも考えも纏まらなくてーーー呆れられてないか、嫌われてないか、怒られてないか、気になって怖くなって、でも確かめられなくて。どうにかしなきゃと思うのにまだ怒ってる自分もいて、ちぐはぐのぐちゃぐちゃになって。

……喧嘩したこと、あんまりないんだよ、あの子。親子喧嘩だってあの子はどこかで一線引いて距離を保つからしないし、兄弟喧嘩だってしないよ。歳が離れてるから。中学時代は途中から友達を作らなかったし、高校に入ってからはもう、私たちもよく知る嘘の上手なあの子になってた。どれだけ辛くても本当に上手に隠して、綺麗に嘘を吐ける。不器用で生き辛くてどこまでもやさしい、私たちが愛するあの子になってたよ」

「……」

「怒ってるよ。そして、拗ねてる。……上手に拗ねられなくて迷子になって動けなくなっちゃった不器用なかわいい小さな女の子のひとりくらい、大人なんだから迎えに行ってあげられるよね?」

「……放課後、」

「仕方ないなあ。……呼び出してあげるよ」

とってもとってもしょうがないけど、少しの間なら貸してあげる。そっと微笑んだ少女の親友に、眼を伏せて感謝の言葉を呟いた。




気だるい午後の光にグラウンドから届く運動部のかけ声。

からりと資料室のドアを開けると、その光に髪の色をふわりと変えた少女がゆるく振り返った。

「吉野。言ってたの、これーーー」

手にした薄い英文の冊子を片手に少女がこちらを見て、その深い深い眼を見開いた。後ろ手にドアを閉める。

「ユキ」

呼んだが、返事はなかった。むっとした顔になり、視線を合わせずーーーけれど確かに、よくよく見ればむっとしているだけではなかった。どことなく困ったような、うろたえているような、そんな動揺した表情もあった。視線が合わないのは、その視線がどこに向けたらいいのかわからないようにうろうろとさまよっていたからでもあった。

「ユキ。ーーーこないだは悪かった」

取り繕うこともせず、飾ることもせずまっすぐに謝った。迷子になっていた視線がぴたりと止まり、ゆっくりと瞬きしてーーーややあって、のろのろと向けられる。ーーー久しぶりに、その眼が自分を見た。

「……きゅう、に。予定が変わったんでしょ。……ごめんなさい、要くんが、悪いわけじゃないのに……あの態度は、さすがに、なかった……です」

もぞもぞとその小さな身体を居心地悪そうに動かして。細い指が何度も何度もぎゅっと握られる。

「そのあとのたいど、も、なかった……です。……ごめんなさい」

たどたどしくも。きちんと謝った少女にかくりと力が抜けた。……迎えに来たつもりだったのに、少女の方がきちんと謝っている。

「お前からしてみればずっと神経使って大変だったんだし、約束が破られたんだから怒って当然だろ。……こっちだってもっとやりようがあっただろうし」

「……要くん、怒ってない?」

「怒ってない。ユキは」

「……」

視線が揺れ、一度伏せ、長い睫毛が瞳を隠し、

ふわりと上げられる。その深い色の眼が、うれしそうにふは、と微笑った。

「……うん。ーーーもう怒ってない」

やわらかい、言葉。

「ーーー」

心がふわっと攫われるように奪われてーーー小さく、微笑んだ。

「そっか」

微笑い合って。ーーー心が、満たされる。

……やわらかな空気を揺らしたのは、ばたばたという足音だった。お互いはっとしてドアを見、わたっと少女がうろたえる。

「あ。わ。そうだよね、来るよね」

「静かに」

「え? 何で?」

「静かに。あ、ガラスに影映るからしゃがめ。ほら机の下」

「え、え、」

うろたえっぱなしの少女の頭を押して机の下に潜らせた。自分もしゃがみ込み同じ机の下に潜る。少女の頭と自分の腕とが触れ合った。

「ん、え? なんでこんなことを」

「居留守使うぞ」

「なんでそんなことを。ばれちゃうでしょ」

「鍵閉めたから。誰もいないと思うはず」

「な、なんでそんなことを」

廊下を走るなと今度言おうと心に決めるぐらい大きな足音がドアの前で立ち止まり、「Kaname ! 」という声と共に開け放たれようとし、がちゃっと錠に拒まれる。まだ来てないのかとあっさりあきらめられ、すぐに静かになった。……が。

「……要くん」

「なに」

密やかな、自分にしか聞こえない小さな声。

薄暗い机の下、それでもきらきらと深く静かに光る少女の眼が、近い位置から自分を見上げた。

「……これ、要くんに会うためドアの外で粘られるんじゃ……」

「……そこまで考えてなかった」

「か、要くんの馬鹿」

「あ? やめろそれ二度と言うなトラウマなった」

「頭が足りない要くん!」

「それは苛っとするから言うな」

わしゃわしゃと頭を撫で、髪を乱された少女がほとんど声にならない抑えた悲鳴を上げる。

その度にさらさらと色を変える髪を見て、うろたえ、何度も瞬きする大きな眼を見て、……ああ漸く日常が帰って来たと、深く深く。

心の底から安堵しながら、深く深く息を吐いた。




結局粘りに粘られ、困り切った少女が親友に小声で電話し『要はもう帰ったから待っても来ない』と門番に伝えあきらめさせるまで机の下から出れず、漸く自由になった時には少女はぱっとうれしそうに吉野に抱き付いていた。

流石吉野! 大好き! と 笑顔で抱き着く少女と当然のようにそれを受け入れる親友と。

思わずじとっとした眼で見てしまい、それに気付いた吉野は「まだまだだね」と言って笑った。




〈 日常の迷子、正しい仲直りの仕方 〉




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