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トランス・ハイの跳躍

〈 トランス・ハイの跳躍 〉


「……は、」

開けた封筒の中身、眼の前にある紙片を見てーーーとっさに抑え切れず零れた吐息に内心強く舌打ちした。クエッションマークを付けることだけはどうにか回避し(仮に思わず付けてしまっていたら「は?」ではなく「あ?」になったことだろう)、同居人が降りて来る足音にその手紙を手の中でたたみ込んだ。

「みーさん、続き借りた」

これ、と示されて小さく微笑んでうなずく。最近ともりが読みはじめた長編推理小説の中巻。

「うん、どうぞどうぞ」

「ありがと」

微笑み返され、ソファーに腰かけゆっくりとページを捲り出したともりを横目に、手の中に隠した手紙の感触に小さく息を吐いた。




書き置きは残した。問題は大有りだろうが。

嘆息し、履き慣れた革のワークブーツに足を入れる。まだ一分の光も差し込まない明け切らない朝の中、なるべく音を立てずにドアを開け、そっと閉めて錠を落とす。ふ、と吐いた吐息は白く染まる。暗い空は見上げても星ひとつとして見えない。……そんなものかと自分に呟き、自転車に跨る。バイクはなしだ。エンジン音でともりが気付いてしまう……この時間なら始発に間に合う。

「……行くか」

畜生、という悪態は口の中だけに留め、ペダルに足を乗せた。




一月の空気はきんと冷えていた。モッズコートの下でふるりと震え、首元に巻いたたっぷりとしたストールに顔を半分埋めるようにして暖を取る。被ってきたニット帽をぐいと引き下げ耳を全てすっぽりと覆った。

ひともまばらな駅のホームの上、まだまだ明けない空を見上げーーー来月にはこの寒さと離れた場所に行くのかと、他人事のようにぼんやりと考える。

来月は二月、再来月は三月ーーー三月にとうとう、大学を卒業する。

三月体調を崩すというのはもう誰の目にも明らかにわかりきっているのでーーー二月に、なった。……卒業旅行。

(……海外か)

あれから飛行機には乗っていない。否、ディーと一緒に乗ってーーーそれから一度も。

避けていることは否定しない。海の向こうにいる家族に会いに行ってもいない。忙しいからとそれらしいことを言って、実際それは間違いではないけれど調整すればどうにでもなるものでーーー

避けている。

逃げている。……あれからずっと。

「……」

視線を逸らしてーーー何かから。

ごうっとホームに滑り込んで来た電車に乗り込み、隅の座席に身を隠すように座った。




空港に辿り着き、その管理された空気にほっとするかと思ったが、肌は居心地の悪さを感じただけだった。微かに頰が歪むのを感じながらカウンターでチケットを受け取るーーー用意周到だなと、心の少しが思う。

受け取ったチケットの行き先を確認することもなく踵を返し、ふとーーー無意識に、……意識的に視界から除外していたものを見付ける。

「……」

あの時と違いサンドウィッチは持っていない。それでも何かがあるんじゃないかと……そんな馬鹿なことはないとわかっていながらも、感覚のない足を向けてーーー何かに心が怯えるまま、座った。ーーーあの時ミユキが座った場所。

「……」

待っても。待っても。

あの長身痩躯の青年が話しかけて来ることは、ない。

「……」

は、と、無意識の内に止めていた息を吐いてーーー温度を失ったぎこちない指先をぎゅっと手のひらの中に握り込み、眼を閉じる。

ポン、ポ……ン……丸く響くような音。

やがて流れて来た搭乗アナウンスに、腰を上げ歩き出す。

振り返りはしなかった。




「お客さま、ご気分が優れませんか?」

心配そうな声音で訊ねられ鈍く首を横に振った。喉元に重く張り付く舌を呑み込むようにして一拍起き、小さな笑顔を作った。

「いえ、大丈夫です。少し寝不足で」

「間も無く離陸致します、どうぞごゆっくりなさってください」

「ありがとう」

ふわりとした笑顔を浮かべた亜麻色の髪の客室乗務員は、英語で対応したミユキにほっとしたようにそう言った。

窓際の二列シートにはミユキ以外誰も座らなかった。ひょっとしたらチケットを買い占めたのかもしれない。

搭乗口が閉まっても誰もやって来なかったので窓際に座った。ーーー今度は。

あの時と違って左側に誰もいないと、考えないで済むから。




飛行時間はたっぷり半日、けれどその間固形物は一切喉を通らなかったし、試そうとも思わなかった。水だけは義務のように時折口にしたが、仄かな甘味など一ミリも感じず口の中で苦くもったりと重くなる。吐き出したいのを堪え少しずつ飲み込んだ。

一睡も出来なかったフライトは、いい加減シートと同化してしまったのではないかと思うくらいじっと身動きもせずにいると、やがて終わった。落ち着いたトーンのアナウンスが流れ、乗客たちが少しずつ身形を整えはじめる。

その国の名前は王国の名前だった。

ヨーロッパに浮かぶ、女王陛下が君主を務める霧の国の名前だった。




長時間フライトを終え思う存分身体をのばしながら乗客が空港へ降り立つ。その流れに乗り出国手続きを終え白い床を踏んだ。

顔を上げるーーー黒いコートに身を包んだ背の高い男。

少し癖っ毛の黒髪に鳶色の瞳。鼻が高くとても折れやすそうに見える。

「来たか」

答えず。肩幅に足を開き腰を据えて顎を引いて拳を溜めまっすぐ突き出した。胴に。

「来たか、じゃない。殴るぞ」

「……既に殴られたように思うけどね」

一瞬の呼吸の乱れーーー何事もなかったかのように男は言う。

男は。ーーーサムは。

ミユキを見下ろして、一瞬だけ何かを考えるように間を置いた。

「……久しぶり、僕の同類」

「久しぶり、わたしと同類」




サムに続いて空港を出た。黒いタクシーに乗り込み大きく息を吐く。

「で、何の用なのひねくれ者」

「クリスが今実家に帰っている」

「……そう」

クリス。記憶に蘇る金髪と碧眼。

懐かしくはなかった。ーーー少しだけ、苦しかった。

「姉が臨月ということで手伝いに行ってるんだ」

「それは……おめでとう」

でいいのかはわからなかったが命が生まれるのは素晴らしいことだ。が、いかんせん今のミユキの状況と何の関係性があるのかわからない。

思いがけずアットホームなことを言われ調子が狂った。それもまた計算の上なのだろうけれど。

「クリスが実家に帰ってるからーーーなに?」

「だが僕は仕事だ。今回はこの国の貴族を相手に」

「そう」

「僕が思い付いたことを聞いたり僕のコートを持って追いかけて来たり僕に無理矢理食事を摂らせたりする人間がいないんだ」

「サムが思い付いたことを聞いたりサムのコートを持って追いかけたりサムに無理矢理食事を摂らせたりする人間がいないからわたしを呼んだの?」

「大事なことだ」

「大事なことかな!」

コートのポケットにある封筒を乱暴に取り出した。中身を見せる。

入っていたのは一枚の便箋と一枚の写真だったーーー同居人が写っている写真。日の角度的に大学の帰り道、明らかに盗撮とわかるそれ。

サムは肩をすくめた。

「手っ取り早いかと」

「手っ取り早いよ。とてもね」

「だったようだ」

「『こいつがどうなってもいいのか』って?」

「そんな非道なことはしない」

「どうだか」

「『君が来ないなら代わりに連れて行く』ってことだ」

「そういうのを非道って言うんだよ」

というか日本語喋れないでしょう。そう言いたくなるのを呑み込んで他の言葉も呑み込んで呑み込んで呑み込んで結局大きな溜め息にする。ともりはどうしてるかなあ。メモの横にスマホ置いて来たから連絡取れないのはわかりきってるだろうし。ディーに連絡したところで流石にこの世界のどこにミユキがいるかなんて探せないだろう。どこぞの探偵ではあるまいし。

「まあ悪いようにはしないさ」

「どうだか……」

「寝る暇がないだけだ」

「ああそう……」




前半はともかく後半は本当に寝る暇がなかった。

辿り着いた屋敷で起こった失踪事件と過去の殺人事件ーーー突き落とされたり屋根の上を走り回ったりナイフを突き付けられたりとついでとばかりにミユキも何度か殺されそうになったり死にかけたりしたがそれはとりあえず置いておいて、とにもかくにも事件は解決した。

叫び過ぎて喉が痛い。

首元は薄く切れ血が滲む。

打ち付けた身体は痣だらけだ。

ーーーそんな風に過ごした四十八時間。

ただ、悪くはなかった。そんな風に思っている。




久方ぶりに感じる身体を心地よく打つあたたかい水に眼を閉じた。首元の傷には防水テープが貼られていたし、打ち身だらけの身体は疲れ切っていたしーーー長湯は禁物なのだが、ついしばらくそのまま、シャワーに打たれ立ち尽くしていた。

バスルームを出るときれいにクリーニングされた服がかかっていた。日本を出発した時に着ていた服。こちらで新しく用意された服は突き落とされたり這い上がったり転がり回ったりしていたのでもう随分とくたびれたので捨てるしかない。もったいないが必要経費だと思ってもらおう。

飛行機の時間は数時間後だと聞いていたので少し寝かせてもらおうと、インナーウェアとキャミソールにバスローブを着てスリッパをぺたぺた鳴らしこもる湯気の中バスルームを出る。頭に被ったタオルの間からサムが見えた。

「服を全部着ろ」

「や、もう終わりでしょう? フライトまで少し寝かせてよ」

「フライトまで僕と話す気はないのか」

「散々話したじゃん……」

何を言うのか、と嘆息してベッドに力なくぱたんと倒れ込んだ。普通のシングルルームだが格式あるホテルのようで調度品はきちっとしている。とろとろと揺れる睡魔に眼を閉じようとして、「眠るな」と非道な声と共に肩を揺すられた。

「寝たら死ぬぞ」

「今雪山じゃなくてベッドの上だから」

「寝たら殺すぞ」

「ここ何十時間で何度か死にかけたひとに言う台詞かな……」

口の中で舌打ちする力すらなく眼を開ける。ベッドに片頬を埋めたままサムを見ると、サムはベッドサイドに椅子を構えそこに座っていた。入院患者を見舞うようだと、何となく思う。

「君の身に起きたことを彼が見ていたら僕は無事じゃ済まないだろうね」

「……」

じっとサムを見た。

瞬きもしない、鳶色の眼。

「……知ることはないよ」

「そうか」

滑らかな肌触りのシーツ。

眠た過ぎて、身体がじんわりとあたたかい。

「……卒業旅行に行けるかわからなかった」

吉野たちと計画している卒業旅行。

行き先はーーーグアム。

親友たちと卒業旅行に行きたい。

けれど、誰かと飛行機に乗っている自分が全く想像出来なかった。

「たぶんね……当日になって、空港に着いて……駄目になるんだ。ああ、無理だって思い知って、急遽行けなくなるんだ。……そうなるはずだった、んだ」

逸らさない。逸らされない。鳶色の瞳。

「ーーー知ってたんでしょう? だから無理矢理理由を付けて呼び出したんでしょう?」

飛び出して来いと。

飛行機に乗ってひとりで。

どこにでも行ける人間になれと、強く強く。

「ずっとわたしを見ていたんでしょう? あれからーーーあれからわたしがどんな風になってどんな風にしているか、見て来てくれたんでしょう?」

遠巻きに。間接的に。

世界を飛び回る探偵は、そのネットワークを使うのに躊躇しないだろう。

見て来たのだ。

どんな風にミユキがなって。

どんな風にミユキがして来たか。

何も言わず。ーーー存在も、匂わさず。

止めることも助けることもせず。

まだ死んでいないだけのミユキを、見て来たのだ。

「ありがとう。……これで飛行機には乗れそうかな」

最初の一歩。

それを踏み出すのが、あまりにも怖かった。

「ーーー何度か、君を殺してあげようかと思った」

「うん」

「その方が幸せじゃないかと」

「うん」

「馬鹿みたいだと笑うか?」

「ううん」

ほんの僅か、首を横に振った。

「馬鹿だと思う。けど、誰かそうしてくれないかなってずっと思ってる」

「そうか」

「うん」

「馬鹿だな」

「うん」

「僕たちは馬鹿だな」

「うん」

そうだね。

馬鹿だね。




ひとの行き交う空港は国は違えどどこか同じ匂いがする気がした。

「今回さ」

「ああ」

「形に残るものが何もなかった」

「旅人はみんなそうだ。街に来て、出る時にはポケットにコインが一枚だけ増えている。そのコイン一枚で次の街まで行く。そんなものだ」

「……コインが増えてるじゃん」

「……」

「……」

お互いに黙り込むという非常にめずらしい事態に陥った。増えてるじゃん。

「……クリスによろしく」

「……ああ」

向き合い、鳶色の眼をまっすぐに見上げた。

「クリスとクリスの赤ちゃんによろしく」

知られていることをきっと、知っていた。

「……ああ」

鳶色の眼がほんの僅か、やさしげに細められる。

「見送りここまででいいよ」

「飛行機では寝るな」

「どうしてわたしを寝かせてくれないんだこの非道は」

「トランス・ハイだ。その方が高く跳べる」

「トランス・ハイね……」

何も考えず思い切り良く。

すべてを振り切って後先考えず。

高く高く跳べる。

「君には必要だ」

「……あなたにもね、サム」

微笑んで。とん、と、拳でサムの胸を叩いた。

「息災で。わたしの同類」

「息災で。僕の同類」

踵を返すーーー疲労困憊の身体で。

それでも不思議と、気分は良かった。




日本に到着した時、思わず大きく息を吐いた。空港の匂いは同じでもーーーその土地の空気は、すべて違った。

白みかけている空が黄色く見える。飛行機内で眠れずコンディションは最悪、それなのに奇妙な高揚感だけがある。

「トランス・ハイね……」

精神異常。さて、結局いつからなのか。

冷たい空気を吸い込んで白い息に変える。一瞬で悴んだ指先をコートのポケットに入れてーーーその指先が、冷たい何かに触れる。

「……」

取り出してーーーそれを眼にして

「ーーー」

理解して

「ーーーふ、は!」

大きく笑った。ーーーああ、そうだ。トランス・ハイ。精神異常。上等だ。

手の中にある銀色のコインを握りしめ走り出す。公衆電話に十円玉を入れて、コレクトコールで繋いでもらう。

話したいひとたちは、すぐに出てくれた。

『どうしたんだい? リトルハッピー』

「父さんお金貸して! 出世払いするから!」

『そっちはまだ早朝ーーーえ? お金? いいけど何に使うんだい?』

『ユキぐれたの?』

『あらあら』

「ぐれてないよ! 精神異常なだけ! ーーー来月、そっちに行くから! 二人分の旅費貸して!」

『ーーーッ、返さなくていい! 出すからおいで! 来月だね! わかった来月だ! 今月でもいい!』

「今月は無理! 来月行く!」

『よし来月だ!』

ユキ来るの! あらあら、と賑やかな声に笑って、また改めて連絡するねと電話を切る。帰って来た硬貨を回収するのももどかしく走り出す。走り出す。走り出す。

コインが一枚だけ増えた。

ただそれだけだ。

それがこんなにもうれしい。それがこんなにも楽しい。馬鹿みたい? いいんだよ、だって馬鹿なんだ。

タクシーを捕まえて乗り込んだ。始発はまだ先だ。だいぶお金はかかるがここはトランス・ハイにされた必要経費、いつか請求してやろう。




四日ぶりの我が家の前でタクシーを降りた。縺れる足を必死に運んで鍵を開ける。脱ぎ散らかすように靴を脱ぎリビングに飛び込んだ。

白い朝日に染まる仄明るいリビング。

ソファーに横たわっていた黒髪の男が上体を起こした。

「みーさん、どこ行ってたのーーー」

恐ろしいほどに整った顔が歪み、いつもよりも低い声を出すのも構わず、ミユキはリビングに飛び込んだ勢いそのままに突進した。たんっと床を跳ねて飛び付きーーーその膝の上に飛び乗った。

「え、どうしーーー」

「ともり!」

「は、はい」

怒りを滲ませていた顔は困惑と動揺に入れ替わる。悪いのはミユキだ。どんなに怒られても仕方ない。ーーーけれど。けれど今は。

話は聞きたくない。話を聞いて欲しい。

「ともり、来月私に一週間ちょうだい!」

「一週間と言わず一生あげるけど、え、なに?」

「私と一緒に海外行こう!」

「え?」

「父さんとお母さんとトウマと! 会いに行こう! 一緒に行こう!」

「ーーーうん、行く。行きたい」

「うん!」

大きく笑って。手のひらの中のコインを握りしめる。

高く跳ぼう。きっと三月にはまたミユキはああなる。だから今だけは高く跳ぼう。

トランス・ハイ。ーーーほら、精神異常。何でも出来る気になる時間。今のミユキならきっと笑顔で自分の首を掻き切ることだって簡単だ。幸せを以って。

さあ、高く高く跳ぼう。

「でもみーさんどうしたの。四日間もどこ行ってたの。『一週間で帰れなさそうなら連絡する』って書いてあったけどさ。というかこの首の傷どうしたの?」

「何でもないよ!」

「何でもあるでしょ、みーさん。何でこんなにテンション高いの」

「何でもないよ! ナイフで切られただけ!」

「ーーーは、」

「ともり!」

「っ、な、に」

「おやすみ!」

「えーーー」

ふつっと。

すべての活動を落とされるようにミユキの中で何かが切れた。

力を失いぐらりと横に倒れそうになってーーー心地よい浮遊感にうっとりと眼を閉じる。

ああ。ああ。

高く高く跳んで。落ちて行って。

ともりが何か叫んできっとミユキの身体を捕まえて、だから今こうやってすっぽりと包まれていて。

トランス・ハイ

精神異常

ああ、馬鹿だね。

最高で最低の気分だよ。




〈 トランス・ハイの跳躍 トランス・ハイの生成 〉




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