君は誰?
〈 君は誰? 〉
「ともり、ねえ、おねがい」
懇願するような響きを孕んで彼女が言う。すぐ近くにある深い深い色をした大きな眼は潤み、輝きさえ宿してじっとこちらを見上げて来る。
華奢な身体。細い脚は部屋着のショートパンツからすらりとのびていて白く滑らかだ。その脚を撫でるのを堪え、今にもずり落ちそうな彼女を支えてソファーに押し戻した。脱力している身体は素直にソファーの上に戻り、疲れたようにぽふっと背凭れに寄り掛かる。
「ねえ、ともり……」
「ん、わかった。大丈夫だよ」
任せて、とその眼を覗き込みながら言うと、彼女はふは、と笑った。……冬の中の日差しのようなあたたかい笑顔。
「うん、ありがと……ぜったい、ぜったい、私をねむらせないでね?」
少し舌ったらずになったその言葉に、理性ががらがらと崩れ堕ちそうになるのを必死で堪えた。
長期撮影のロケから戻って来た彼女はぼろぼろだった。
三十時間働いて三時間ほど寝て三十時間働いて……というのを三週間ほど繰り返していたらしい。
ずっとホテル住まいだったらしいのだがろくに部屋にはいなかった、と彼女は苦笑した。
帰宅して問題になったのは、
「体内時計が激しく狂った」
ことだった。唇を尖らせ、あまり顔色も良くない彼女にあたたかいお茶を淹れて出す。ありがとう、と力無く言ってじんわりと指先をあたためるようにカップを握る。
「とっても、とっても眠い……」
「少し眠る? 夕飯前に起こすよ」
今は十六時。まだ明るい時間だが少し仮眠を取れば疲れも少しはましになるだろう。そう言ったのだが彼女はふるふると首を横に振った。
「ううん、そうすると絶対夜眠れなくなる」
「でも数時間しか寝てないんだから寝れるんじゃない?」
「ずっと三時間睡眠だったからそれ以上眠るのが難しいの。身体は寝た方がいいのに頭が起きちゃう」
アドレナリンが出っぱなし、ということか。要するに一度も起きずにいればある程度の長さが眠れるのか。
「じゃあ夜まで待たなきゃね……何時頃寝たい?」
「早めで……九時とか」
「あと五時間だね」
彼女にとっては地獄の。今この時でもううとうととしはじめているのでこれはなかなか大変なミッションではないかと思う。
「……ともりぃ」
「なに? みーさん」
「私が寝そうになったら、なにしてでも起こしてくれない?」
「なにしてでも?」
「なにしてでも」
「……。……頑張る」
「うん、おねがい」
たっぷりと疲れた顔で、それでも彼女は小さく笑った。
お風呂に入って来なと送り出しとりあえず一時間ほど時間は稼げた。あまり今は多くは食べれないというのでトマトリゾットとゆるゆるふわふわの卵焼きを出し簡単に食事を終え計二時間経過、残すはあと三時間。問題は、
「……目に毒」
「……ん……?」
「なんでもないよ……」
色の濃いキャミソールに白の長袖のシャツ。首回りが大きめなのでくっきりと浮き出ている鎖骨が露わになっている。スウェットの紺色のショートパンツからは惜しみなく脚が覗いていて、いや部屋着なのだし彼女の無防備な格好は見慣れているししかしだからといっていつも毎度なにも思わない感じないわけでは全くなく、特に今なんて疲労と睡魔でとろんとした顔でソファーの上で力無く小さくなっている彼女は簡単にーーー簡単に?
「本当頑張れ俺の理性……」
「ともり……?」
「ちょっと待ってね、今理性と戦ってるから」
「そう……」
いつもなら少し狼狽えつつ答えるところもぼんやりと纏まらない声音で返される。ああ、くそ。頑張れ俺。
「……ともり」
「なに?」
「なにかおもしろい話しよう」
この場合のおもしろいは笑える話だけでなく興味深い話だ。彼女の場合興味深い話の方が乗りやすいだろう。
少し考えて、彼女の傍にしゃがんだ。
「ねえみーさん知ってる? キスってどこするかによって意味が違ってくるんだって」
「ああ……フランツ・グリルパルツァーだっけ?」
「ん? 誰それ」
「オーストリアの劇作家……ん? その話じゃないの?」
眠たそうながらも彼女は唇を微かに動かし呟くようにして諳んじてくれた。
手の上なら尊敬のキス
額の上なら友情のキス
頰の上なら満足感のキス
唇の上なら愛情のキス
閉じた眼の上なら憧憬のキス
掌の上なら懇願のキス
腕と首なら欲望のキス
さてその他は、みな狂気の沙汰
「ふうん……俺が知ってるのはそれが元ネタなのかな。俺が言おうとしてたのは二十二種類あるんだよって話だった」
「……二十二も? それは……多いね……」
「ね。二十二ったらもう身体中だよ。全身にキスしてたらまた意味も違うよなあ」
「くすぐったそう……」
「……」
想像してしまった。完全に話題を間違えたかもしれない。狂気の沙汰だろうがなんだろうが最早どうでもいい。
彼女にキスしたことがある場所を思う。
唇ーーーは、同意の上ではなかったから。
脇腹にキスしたことがある。
額にも。
「……友情と回帰かあ」
「ん……?」
「俺がみーさんにキスしたとこ」
「えええ……」
おでこは覚えてない、と彼女は唇を尖らせた。
「……じゃあともりは私に友情を感じてるの?」
「感じてない!」
「ひゃっ」
「みーさんに友情は一切感じたことはないしこれからも感じることはない! みーさんは友達じゃない! 絶対に一生友達にはならない! なってたまるか!」
「そ、そう……ある意味ショック……」
困ったようにそう言って彼女は視線を逸らした。……確かに気不味い。こちらも視線を逸らしかけてやめ、咳払いする。
仕切り直したい。
「……そういえばヤドリギの下ではキスしていいって話もあるよね」
「え? なにそれ」
こちらの心を読んでくれたのか彼女が話題を変えてくれた。少しだけ。
知らない話だったので素直に首を傾げる。
「ヤドリギって木があって、その下では女性は男性からのキスを断れないっていう……」
「みーさん次の休みはヤドリギを探しに行こう」
「えええ……」
なんでよ、とでも言いたげに彼女が呻いた。
「みーさんヤドリギに詳しいの?」
「詳しいっていうか……ヤドリギもクリスマスに使われるのでゆうめい……だった、か……ら……」
うとうととしてゆく。眼がゆっくりと閉じてゆき、言葉は丸みを帯びる。
「……ヤドリギ"も"?」
「クリスマスだから……いっしょだねって……」
「……? みーさん? 御影……ユキさん?」
ふは、と小さく彼女が微笑んだ。眼を閉じたまま、……誰も見ないまま。
「……だあれ? それ……」
呟いて。
すぅっと彼女は眠りに落ちた。ーーーかくん、と、首が傾く。
「……」
儚いグラデーションを描く髪。白い首筋に無造作にかかるそれをそっと梳くと、綺麗な肌が露わになる。
狂気の沙汰。
言われるまでもない。
今さら告げられるまでもない。
知っている。識っている。
この身の一部も余すことなく思い知っている。
「……例えみーさんが誰でもね」
聞こえないのを承知で、ふわりと顔を寄せ耳元で囁いた。
「みーさん自身自分が誰だかわかってなくても……それがみーさんだったら、俺はなにも構わないんだよ」
愛情のキスは、まだ早い。
今はまだ。
友情は感じない。
満足なんてしていない。
懇願と欲望は止まることなく狂気の沙汰へと昂り、いつだってどんな時だって彼女が欲しい。
狂っている。
狂おしいほど。
「……いつか付き合ってね」
狂気の先に。
狂気の沙汰を。
手を繋ぎ、体温を分け合い、そして二度と、離さない。
そっとその華奢な手を取り、霞めるように手に触れる。ーーー尊敬を。
視線を上げて、頬を撫で、その深い深いすべてを呑み込みそのまま映す眼をーーー今は穏やかに閉じられたその瞼にそっと、憧憬を捧げた。
〈 君は誰? そこはどんな場所? 〉




