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ナナカマドの昔日


〈 ナナカマドの昔日 〉


「いらっしゃい」

そう言った店のオーナー、通称マドさんはその中性的な繊細な顔を薄く綻ばせてくれた。大きな笑顔を見せることはないが、こういうささやかな笑みの方が似合いそうな、そんな男性である。

「すみません、雨降って来ちゃって・・・・・・」

ドアにある札は裏返しになっていたし、この店ーーー『ナナカマド』はいつも休憩時間だった。ゆるやかにマドが首を横に振る。

「いいよ。座ってて。・・・・・・はいタオル」

「あ、ありがとうございます」

「どういたしまして」

男性にしては少し高い声に、少し長めの黒髪。それがまたとてもよく似合っている。線が細く肌も白く中性的で、下手な女よりもよっぽど整った顔立ちをしている。同じ男としてレベルが違う。

数ヶ月前、ふらりとこの店ーーー古書堂とコーヒー屋を合わせたような不思議な店ーーーに立ち寄ってから、・・・・・・まあいろいろ、いろいろあって、それから週に何度か訪れている。常連、と言ってもいいだろう。恐らく。

大学からの帰り道、急にぽつぽつと降って来てしまいあっという間に雨足は強くなった。それほど打たれる前に店に着けたのは幸いだ。

「コーヒーは本日のコーヒーでいい?」

「あ、いえ、なにか作業してたでしょ? それが終わってからにしてください」

「写真の入れ替えしてたんだ。お客さんの前でやることでもないし、大丈夫だよ」

「え、新しい写真入ったんですか? 見たい! 是非そのまま続けてくださいお願い!」

「まあ・・・・・・そう言うならいいのかな」

この店に通うようになった理由のひとつに、壁の至るところにかけられた写真がある。風景写真であったり、人物写真であったり・・・・・・写真を見る趣味は今までなかったが、どうしてだかその写真たちには強く惹かれた。惹かれてーーーああ、この写真たちを自分はとても好きなのだと、心の全部が理解した。

マドに聞くところによるとすべて同じカメラマンの写真らしい。名前を聞いたが、その時はただ静かに微笑むだけで答えてくれなかった。

わくわくと対面式のカウンターで正面を陣取るとマドは少し笑って、カウンターに伏せて置かれた額の背中を外し、今まで入っていた写真を取り出そうとした。写真の裏側を見るのはもちろんはじめてなので、真っ白だろうと思いながらも覗き込みーーーその隅に、目が行った。

シアンブルーのインクで書かれたサイン。


『 M.Hiiragi 』


「・・・・・・柊?」

「え?」

思わず零れた言葉にマドが顔を上げ、こちらの視線を追ってああ、と納得したようにうなずいた。

「ばれたか」

「え・・・・・・柊・・・・・・ヒイラギ! ヒイラギってあのっ?」

「そ、あのヒイラギ」

「この店の写真全部がっ?」

「この店の写真全部が」

「ええええええ!」

ヒイラギと言えばアメリカで賞を獲った女性カメラマンだ。日本では一瞬しか報道されなかったが、この店の写真を好きになってから写真に興味を持ち、色々とアンテナを立てていたのでもちろんヒイラギの存在も知っている。この店の写真と同じくらい、彼女の撮る写真も好きなのだがーーーまさか同一人物だったとは。

「え、え、え、なんで柊の写真がこんなに・・・・・・う、売られてるんですか? どこで買ったんですか?」

「これはひいちゃんが送って来てくれたやつ。だからお金は払ってない。まあ今度こっち来たらケーキとコーヒーをサービスするけど」

「ヒイラギの写真をケーキとコーヒーで済ますんですかっ?」

「あの子いまいち自分の撮る写真の価値わかってないよ。撮りたいものを撮ってるって感じで。それを追い求める情熱は凄まじいけどね」

「・・・・・・ちょっと待ってください」

今更ながらに頭が言葉を拾い上げる。

ひいちゃん? あの子?

「・・・・・・え・・・・・・なに、ひょっとして・・・・・・」

「ああ」

こともなげにマドは言った。

「あの子大学時代ここでバイトしてたから」

「嘘だああああああああああ」

大好きな写真家が、憧れのカメラマンがここにいたなんて! いたなんて!

「どんなひとなんですかああああああ!」

「煩いなあ。少し黙りなよ」

言って、マドはため息をついた。




へたっ、と、気が抜けたように少女が軽くテーブルに突っ伏した。

「・・・・・・どうしたの?」

「ぅ。マドさあん・・・・・・」

なんだかへしょげた顔をした少女が突っ伏したまま横を向き、その大きな眼で見上げて来る。春から大学生になった少女は、しかしその顔の幼さでそれよりもだいぶ幼く見えた。

「バイト変えたいんだけどなかなかいいのがない。現実辛い。因みに今日見た夢も辛かったからもうどこも油断ならない」

「因みにどんな夢だったの」

「セグウェイに轢かれる夢」

「うわあ・・・・・・」

轢かれる、より乗り越えられる、の方がしっくり来そうな夢だった。確かに油断ならない。

「今のバイト先よくないの?」

「うーん、あんまり入れてもらえなくて・・・・・・大学も月から金毎日だし土曜もたまにあるし、たくさん入れるひと優先的に入れてるみたいで・・・・・・」

「ああ・・・・・・」

「変えたいなあと思って求人誌もらってきたけどやっぱなかなかいいのなくて。世の中世知辛い・・・・・・」

へしょん、と平べったくなる少女は元々小柄なのも相まってさらに小さく見えた。なんだか小動物を相手にしている気分にさえなってくる。

「仕送りはあるんでしょ?」

「あります。けど、個人的に使うお金は自分で稼ぎたい。大学生だし」

「・・・・・・偉いね」

「・・・・・・? 普通じゃないです?」

きょとんと不思議そうな顔をされた。それを普通だと当たり前のように思えるように育てた両親と、素直に育った少女と。よしよし、と頭を撫でると不思議そうな顔からうれしそうな顔になった。

「やりたいこと、たくさんあるんです。自主制作もしたいし、映画も演劇も観に行きたいし、遊びにも行きたいし。ちょっとずつお金貯めて、旅行とか・・・・・・もちろん勉強もしますけど」

「・・・・・・まあでも、確かにお金かかるよね」

「・・・・・・うぅ」

へしょん、と何度目かに萎れた少女によし、とうなずきかける。

「うちでアルバイトする? ウェイトレス」

「え?」

「そんなにたくさんは出せないけど、人手足りてないし。賄いも出すよ」

軽食もやっているのでそう言うと少女は目をきらきらさせてばっと身を起こしこちらの両手をぎゅっと握った。

「やるっ、やりますっ、マドさん大好きっ!」

「あはは、ありがとう」




「はあああああ? 『大好き』いいぃいい? ヒイラギにそんなうれしいこと言われて『あはは、ありがとう』うううう?」

「煩いなあ、続き話さないよ?」

「・・・・・・オネガイシマス」




「マドさぁん」

「いらっしゃい。・・・・・・今日仕事休みなの?」

「うん、こないだようやく終わったの。だからマドさんに会いたいなあって」

「うれしいな。よかったらカウンター座ってくれる?」

「はい」

うれしそうに笑って少女はカウンターに腰かけた。メニューにはない、少女のためのミルクたっぷりの特別なコーヒーを淹れる。大学を卒業し社会人になった少女だが相変わらずその顔立ちは幼く、社会人には見えなかった。夜仕事終わり駅前を歩いていると補導されかけるらしい。笑うというよりこの街の警察はきちんと仕事をしてくれているんだなあと感心した。確かにこの顔で夜中歩かれたら声をかける。

「あ、本当に飾ってくれてる」

「うん。あの写真すごく好きなんだ」

「本当? よかったです」

にこにこと少女が微笑む。少女が撮った風景写真を大きく引きのばしたものを額に入れて一枚飾っていた。以前来た時見せてもらったのだが、すごく気に入ってしまいよかったら買わせてくれないかとお願いしたのだ。少女はきょとんとしてから、いいですよあげますと言って来たのでチョコレートケーキの端っこの一番おいしい部分をご馳走させて頂いた。幸せそうにうれしそうにケーキを頬張る少女と、一目見て好きになった写真をもらえて幸せいっぱいなこちらと、カウンターを挟んで両者ほくほくとした。

「お客さんにも人気なんだよ。誰が撮ったんだってよく訊かれる。昔からの常連さんは『柊ちゃんだろ』って言ってくるけど」

「ふは。流石」

大学時代、卒業制作がはじまるぎりぎりまで残りバイトをしてくれた少女。やめたあとも忙しい時は駆け付けて来てくれたりと力になっていてくれた。そしてなにより客にたいそう人気だったのだ。明るくかわいく丁寧でやさしい少女。当然のように看板娘でマスコットだった。

「写真、撮ったのたまった?」

「何枚か。さっき現像して来たんです」

「見せて欲しい!」

「は、はい」

ひゅっと首を引っ込めてから少女は鞄から封筒を出した。本当に今受け取って来たのだろう、カメラ屋のロゴがプリントされた封筒。

受け取り、わくわくとしながらそれを出してーーー圧倒、された。


薄汚れた手

モノクロの光

ぐしゃぐしゃの髪で、笑うひと

走る女性

青い写真

誰かの喉元

目を閉じて聴くひと

なにも持たない指先


統一性などなにもない。

ただ少女が撮りたくて撮ったもの。

それだけが、唯一の統一性。


「・・・・・・すごい、好きだ」

「え?」

「すごい・・・・・・全部、好きだ」

震えて掠れた声になったこちらを、少女はじっと見詰めてーーー高校時代からなにも変わらないその深い深いすべてを呑み込みそのまま映す眼が、自分を見てーーーそれから、微笑った。

とてもとてもうれしそうに、微笑った。

「ありがとう。・・・・・・すっごく、うれしい」

「うん。ーーーこれ全部欲しいくらいだよ」

「あはは。あげますあげます」

「え、本当にっ?」

「えっ?」

「えっ?」

「えっ、本気です?」

「本気ですけど」

「えっ」

「えっ」

きょとんとした少女が、かくん、と小首を傾げた。

「・・・・・・えっ。あれ?」




「お世辞だと取られてたんですかね?」

「いや、本気で言われてるっていうのはわかってたみたいだけど、欲しがられるレベルではないと思ってたみたいだね。だから『え? 本気でいるの? この写真を?』って思ったらしい」

「・・・・・・自己評価低いひとだったんですね」

「良くも悪くもあの子に撮って『自分で撮った写真』だったんだ。上手く撮れたなあとか、これ好きだなあとか思って満足することはあっても、誰かが欲しがるとかそんなことは思い付きもしなかったみたいだ」

「・・・・・・なるほど」




少女の前にフルーツタルトを置いた。特別大きく切り分けたものだ。

幸せそうな顔をして少女が顔を上げる。

「マドさん、いいの?」

「いいのいいの、このくらいさせて」

「ありがとう! いただきます!」

一口口に入れ、それから本当にうれしそうな顔をする。特製コーヒーは飲み切っていたので新しく紅茶を淹れた。もちろんサービスだ。

結局、プリントされたばかりの写真をすべてもらうことになった。が、流石に今回は枚数が多過ぎたのでプリント代はきっちりと出させてもらう。悪いがこれでもう一度自分の分をプリントしてくれと、そういうことになった。紅茶とケーキは二度手間を取らせるお詫びだ。

「なんでカメラマンにならないの?」

「それ、要くんにも言われた」

「うん、言ってた」

「うーん、自分の中でははっきりしてるんだけどね。でも、秘密」

「そっか」

まあ色々と思うところはあるのだろう。映像カメラマンとスチールカメラマンじゃまた全然違うのだろうし。

「あっ、考えようによってはいい結婚祝いになったかな?」

「結婚祝い?」

「はい、一周年でしょう?」

「一周年をお祝いしてくれるひとはなかなかいないよ」

「え、そうなの?」

くすくすと笑う。が、そういうことで有難く受け取ろう。

「あ、でもお金もらったから違うか」

「いや、気持ちだよ、気持ち・・・・・・それにこの写真すっごく好きだから、お金以上の特別なものだよ」

「マドさんのケーキと紅茶ぐらいね」

「・・・・・・ありがと」

ふは、と少女は笑った。

その背後でーーーちりんちりんと、ドアベルが鳴る。入って来たのはすらりとした体躯の黒髪の青年。

「いらっしゃい」

「こんにちは、マドさん。・・・・・・お待たせ、みーさん」

「ともり」

振り返った少女が笑ったのがわかった。冬の日差しのあたたかさのような、やわらかい笑みで。それを眩しいものをみるような眼で受け止めた青年が、幸せそうに微笑み返す。

少女の隣に腰かけた青年に、切り分けたケーキと紅茶を出した。

「ひいちゃんからのサービス」

「ん、俺払うよ?」

「あのね、マドさんが写真気に入ってくれたの」

「全部もらったんだ。そのお礼」

「なるほど。・・・・・・俺も見れる?」

「うん。プリントしてから帰ろう」

「うん。家でゆっくり見せて」

今手元にあるのを見せてもよかったのだが、青年がうれしそうに言うので止めておいた。きっと家で二人きりてゆっくりと見たいのだろう。視線に気付いたのか青年が顔を上げ、それから小さく笑った。同じく小さく笑い返す。

「? どうしたの?」

「なんでもないよ」

「うん、なんでも。・・・・・・これからデート?」

「はい」

「うん・・・・・・? デート・・・・・・?」

「愛する二人がどこかへ行くならそれはデートだよ」

「愛する?」

「みーさん俺のこと好き?」

「好きだよ」

「俺もみーさんのこと好きだよ。だからデートだ」

「そうなのかなあ・・・・・・」

流される少女と流す青年と。込み上がる笑いを必死で押し隠し肩を震わせた。




「・・・・・・えっ?」

「え?」

「えっ?」

「え?」

「・・・・・・」

「・・・・・・?」

「・・・・・・っええええええええっ!」

「うるさっ! なに!」

「マドさん結婚してたんですか!」

「そこ⁉︎ してるけど」

「ゆ、指輪してないから独身だと思ってた! ・・・・・・奥さんお店に来られたりするんですか?」

「? 奥さん?」

「? はい」

「・・・・・・ああ、はい、奥さん」

「・・・・・・え?」

「いやだから、奥さん」

「・・・・・・マドさん、が、奥さん?」

「うん。話に出て来た要くんっていうのが旦那さん。ひいちゃんの高校時代の担任。今もだけど」

「・・・・・・えええええええ! マドさん女だったの! 男かと!」

「あー、よく間違えられる。昔は髪ものばしてたし、間違えられることはなかったんだけどね」

「女みたいにきれいな顔してるとは思ってましたが! え! ええええええ!」

「ありがとう」

「どういたしまして! ・・・・・・ああ、もう、なにに驚けばいいのか・・・・・・! ・・・・・・って、あれ・・・・・・? 『みーさん』? 『ひいちゃん』? ・・・・・・ああ」

わあわあ大騒ぎしていたが漸く少し落ち着いて来て、脳内がひとつの答えに行き着く。『 M.Hiiragi 』

「柊、Mさん。なんですね」

「ん? ああ・・・・・・そうだし、そうでない」

「ん?」

「お母様が再婚されるまではその姓だったらしいね」

「あ・・・・・・」

なる、ほど。

「バイト採用した時にね、あの子が言ったんだ。『柊って呼んでください』って。だからひいちゃん。・・・・・・別に、呼び方が今の名前と違ったところで問題はないからね」

「・・・・・・ですね」

「亡くなったお父様が、カメラの使い方を教えてくれたんだって」

「・・・・・・」

「ねえ、この店の名前は?」

「え? ・・・・・・『ナナカマド』・・・・・・」

「ナナカマドもヒイラギも、どちらも魔除けとして使われる。・・・・・・この店にぴったりの子だなと、思ったよ」

「・・・・・・そうですね」

「七竃、柊、桐崎、樫月・・・・・・偶然なのかなんなのか、その時この店に集うスタッフはみんな木の名を持つひとたちだった。それに特別を感じた。・・・・・・自分にとって、それで十分」

「・・・・・・」

「君がどんな大人になるか。どんな路を進んで、何処でなにを見るのか。・・・・・・楽しみにしてるよ。ねえ? 栂瀬くん」




〈 ナナカマドの昔日 ナナカマドの特別 〉



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