訪れたその日を待って 9
その日、授業はなかった。仲里に会うためだけに今日大学に来たのだから。
大学を出、近くの道をゆっくりと歩きながらーーー林場にお礼を言わなくちゃな、と、心のどこかで考える。綾瀬にも。三木さんにも。・・・・・・要にも。
要は、やはりというか当然三木が呼んだようだーーーあんな風に息を切らしてすぐさま彼女に会いに来た要と、あんな風に抑えない感情をそのままぶつけた彼女との間に、特別さを感じてしまうがーーー
「ともり」
やわらかい声。大好きな声。
何度でも、何度でも、あなたが俺を呼ぶ。
「・・・・・・みーさん」
ようやくーーー少しだけ、微笑って。
一歩、二歩、歩み寄ってーーー向かい合う。
彼女と、見つめ合う。
「迎えに来て、くれたの?」
「うん。ーーー帰ろう。ともり」
手を差しのばされる。いつだってーーーどんな時だって、一瞬も迷わず躊躇わず自分に向かってのばされるその手。かけがえのない手。
迷うことなく手をのばし、その華奢で小さな手に触れーーーその手を、握った。ーーー特別を込めて。
その手を軽く引かれて、彼女に近付く。
「・・・・・・痛かったね」
ふわりとのびたもう片方の手が、とん、と胸に当てられる。赤く染まっているであろう頬ではなく、胸に。
心臓。心。
ーーー自分の心が何処にあるのか。それは。
ーーー彼女に触れられたところにあるのだと、わかった。
「・・・・・・許されないこともある。よ、ね」
かつて彼女に無理矢理気持ちを押し付けたように。
傷を抉ったように。押さえ付けて、泣きたくても泣けないほど哀しんでいる彼女をさらに傷付けたように。
それでも謝らずにはいられない。何度も、何度でも謝らずにはいられない。
ーーーもう戻らない。今の自分でいることが、例え誰かを傷付けることでもーーー昔の自分のままでいることで誰かを傷付けず過ごすことが出来ても。
戻らない。選ばない。選びたく、ない。
あの時の自分を。
世界が自分と自分以外だったあの時を。
「・・・・・・みーさん」
「なあに?」
「・・・・・・もう、俺、戻らないから」
「うん」
「みーさんが、言ってくれたから。・・・・・・みーさんを選ぶなら、不幸になるのは許さないって・・・・・・みーさんが言ってくれた、から」
「うん」
かくんとうつむいてーーー零れた熱いものを、拭うことなくそのままにした。
辛い。痛い。苦しい。ーーー自分よりもっともっと辛くて痛くて苦しいひとがいると思うと、本当に、辛くて痛くて苦しい。
「うん。ーーーうん」
「みーさん」
「なあに?」
「・・・・・・本当に、好き。ーーー大好き」
「はい。ーーーありがとう」
手を繋いで帰る途中ーーー彼女は今日は車ではなかった。だから手を繋いで帰れる。それを選んでもらえたことが、本当にうれしかったーーー昨日を乗り越えた今なら言える気がして、・・・・・・今なら訊ける気がして、繋いだ手にきゅ、と小さく力を込める。
「・・・・・・みーさん」
「なあに?」
「・・・・・・要って、みーさんにとってのなに?」
その問いに、流石に少し思うところがあったのか彼女は少し間を置いた。信頼出来る、愛すべき担任。ーーー正しくても、そういう答えを望まれていないということはわかっているのだろう。
「・・・・・・みーさん、あのね」
「うん」
「昨日、みーさんが要に向かって叫んだ時ーーー俺、要に嫉妬した」
「・・・・・・うん」
「叫ぶのも、怒るのも、気持ちをぶつけるのもーーー全部ぜんぶ、俺にして欲しかった」
「・・・・・・うん」
ごめんね、とは、謝られない。謝って欲しくもなかった。
恐らく咄嗟のことだっただろう。判断も付かぬままだったのだろう。それでも、無差別であろうとなんだろうと、無意識の内に自分は選ばれなかった。そういうところではまだまだ、彼女の中で自分は『保護対象』という認識が色濃い。
「・・・・・・要くんは。そうだね。・・・・・・中学時代のわたしを知ってて、今さら取り繕うこともないってこととーーーあと、『なんにもなかった』ことが、あったの。・・・・・・『なんにもなかった』ことが・・・・・・大きく影響、したの。・・・・・・それがなかったらーーーそうだね、その時が来たら、選んだし、選ばれていたかもしれない」
要が彼女を選び、彼女が要を選ぶ。
そういう未来が、あった。
ふわり、というよりは彷徨くようにーーー少し、不安定に彼女が視線を彷徨わせる。
「・・・・・・なにがあったのか、なにがなかったのか。それを今、ともりに言うことは出来ない。言いたくないとかじゃなくて・・・・・・要くんと、わたし以外に大きく関わってるひとがいる。そのひとのことを説明しないと話せない。・・・・・・それはしない方がいいと思う。・・・・・・いつか、もう少し時間が経った時ーーー要くんに、訊いてくれるかな。・・・・・・要くん自身、きっとまだーーー心の整理が付いてないところがあると思う」
心配そうに。けれど、それを表に出さないとずっと前に決めたように。小さく唇を噛んで、ほんの僅か、首を横に振る。
「でも、そうやってそういう時間を越えてーーー要くんのことは好きだけど、でもそういう好きじゃない。もう二度と、そういうのはない。・・・・・・昨日ああなったのはーーーどこかで要くんに甘えてたところがあったんだろうけど」
「・・・・・・うん」
「・・・・・・甘えるの、上手くないね、わたしは。・・・・・・下手過ぎて、酷い」
「・・・・・・上手いか下手かじゃないよ。どっちでもいい。どっちでもいいから・・・・・・俺にして」
繋いだ手が一度離された。それから彼女の指先が自分の指先に触れ、きゅ、と、指先だけ握られる。しばらくそのまま素直にその小さな手に握られたまま幸せを噛み締めてーーーその手を包み込むように、また手を繋ぐ。
返事はまだ、もらえない。昨日と同じく、言葉にはならない。
けれど言葉以外の答えをもらえる。それが感じられる距離に自分たちは居る。
大丈夫。なにも怖くない。ーーー怖くても大丈夫なことを、知っているから。
どれだけ怖くても、それを知っている大切なひとがいてくれるとーーー識っているから。
その関係が少しだけ変化したその年の夏。
訪れた三度目の夏。
それがあの家で彼女と過ごした最後の夏だったとわかったのは、それからしばらく経ってからのことだった。
〈 訪れたその日を待って 訪れなかったその日を知って 〉




