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訪れたその日を待って 7


二歩斜め前を彼女が歩く。いや、自分が二歩斜めうしろを歩いている。

彼女の歩幅は小さい。いつだって追付けるけれどーーーそれが、本当に、難しい。

自分が彼女に合わせているのでは、きっとない。

彼女が自分に合わせてくれているのだ。

「・・・・・・」

声をかけたい。ーーーかけられない。

なんと言っていいのかわからず、うつむきかけた、その時。

「名前は、言わない」

「え?」

「わたしから名前は言わない。言いたくない。・・・・・・ともりに言うのが嫌ってわけじゃなく、わたしが、その名前を口にしたくない。耐え切れなくなるから」

言って。

足を止めた彼女が、振り返った。

「ディーに聞いて。ーーーわたしの、恋人の名前は」

「あ・・・・・・」

恋人。ーーーそうはっきりと彼女から言われたのは、はじめてだった。

「恋人って言っても、付き合ってた期間があるかと言われたらないしーーーそう言うのが許されるなら、って話なんだけどね」

「・・・・・・」

「空港で、出会ったの。わたしは家族のところに行く途中だった。でも、結局行かなかった。そのひとと違う国に行った」

「・・・・・・」

「素晴らしいものを見た。素晴らしいものを聴いた。国境を越えて、目的の国に入ってーーー入ってからしばらくが大変だったんだけどーーーまあなんとか、あんまり無事って言えなかったけどとりあえず入国して、少しそこに留まってーーーいろいろあって、本当にいろいろあって、それでも一緒に居た。わたしが居たかったし、恋人も居てくれた。ーーーそれが本当に、幸せだった」

自分と出会う前の彼女。

自分が出会う前に彼女に出会ったひと。

「選んでくれた。選んでもらえた。わたしも、選んだ。キスしてくれたのが幸せだったし、キスさせてくれたのも幸せだった。特別に抱きしめてくれたのも幸せだった。ーーー一緒に居ると、なにも怖くなかった」

自分と出会う前に彼女を愛したひと。

自分と出会う前に彼女に愛されたひと。

「決まってた。病気だった。もうどうしようも、なかった。

試してみようと思った。試してみた。耐え切れなかった。・・・・・・結果は、このざま。今でもこんなに苦しいしこんなに痛いしこんなに辛いしこんなに哀しい。ーーー何処にも、行けない。・・・・・・でも後悔していない」

その眼が。

深い深いその眼が、海の底の光のように、輝く。

「ーーーごめん、甘えてた」

自分をまっすぐに見つめる眼が、哀しげに、云う。

「甘えてたし、甘く見てた。ーーーいつかは飽きるだろうって」

飽きる。

それはーーーそれは、自分が彼女に対して。

「高校時代ならともかく、大学に入って、自由になって広い世界に出てたくさんのひとと出会ってーーーそうしたら自然と、誰か他のひとに惹かれるだろうと思ってた。本当に世界にはたくさんのひとがいるし、そしてそのたくさんのひとより自分に魅力があるとは思えなかったから。ゆっくり、自然と距離は離れて行くだろうと思った。ともりが幸せなら、それでいいと思ってた」

ーーー彼女は自分を見ていない。いや。

見ていてはくれる。怪我はしないか、病気はしないか、心穏やかに過ごせているか。さみしくはないか。心細くはないか。ーーーそっと見守って、必要とあれば助けてくれる。心を砕いて心配してくれる。ーーーでも。

彼女は自分に執着してくれない。幸せでいるなら、心身ともに健やかであるのならば、それは別に自分と共に在らなくてもいい。ーーー何処か遠くでも、幸せでいてくれたら別にいい。

食い違う。すれ違う。どうして? ーーー価値観が、想いが、見ている相手が違うから。

「それが甘く見てたすべて。ーーーでも」

彼女が微笑った。ーーーはじめて見る貌だった。

今にも泣き出しそうな。

心細そうな。

打ち明けることをーーー本当に、恐れているような。

「途中から、甘えてた。ーーーどんなわたしでも、ともりはわたしを好きでいてくれるんじゃないかってーーー何処かで、そう思ってた」

呼吸がーーー自然に、止まった。

眼を見開いて、彼女を見る。

「どれだけわたしに時間がかかっても。どれだけわたしの心の整理がつくまで時間がかかっても。馬鹿らしくなるくらい、嫌になるくらいゆっくりにしか近付けなくても。ーーーそれでもともりは待って、わたしのそばに居てくれるんじゃないかってーーー甘えてた」

声は震えない。けど、彼女の小さな身体はほんの僅かに震えていた。

必死で押さえ込んでいる。ーーーその震えを。

必死で隠している。ーーーその恐怖を。

「ごめん。ごめんなさい。ーーーこんな曖昧な態度しか取れなくて。

けど、嫌だ。ーーー例えともりが幸せでも、ともりがわたし以外のひとと付き合うのは嫌だ。嫌だ。ーーーううん、ともりがそうすることを止めないし、止めるつもりも資格もない。だから止めない。ーーーけど、その現実を受け入れるのに、わたしはきっと、長い長い時間を必要とする」

彼女が抱える傷と痕。

愛おしいひととの幸せな記憶とその痛み。

何年経っても、どれだけ経っても彼女がそのまますべて抱え込むように。

自分が彼女以外の他の誰かを選んだらーーー彼女は何年経ってもどれだけ経っても、痛みを感じる。

傷と痕。

幸せな記憶とその痛み。

ーーー彼女の中に、自分が残る。ーーー残るほど、近付いた。

「・・・・・・っ」

一歩、二歩、踏み出す。

眼を逸らさずこちらを見る彼女に手をのばし、指先が届き、

ーーー強く強く、彼女を抱きしめた。

その身体は強張らない。いつか、彼女に特別な意味を持ってーーーほんの少しだけ含んで触れた時、彼女の身体は強張り震えた。

かき抱く。抱きしめる。ーーー特別な意味を持って。

それでも彼女は強張らない。こちらに身体を預けることはしなくてもーーーでも、逃げたりは、しない。

近付いて来た。少しずつ少しずつ近付いて、ここまで来た。

他のひとと付き合うのは嫌だ。ーーー付き合わないで、と言わないのは彼女の弱さだ。

嫌だ。でも止めはしないと言うのも彼女の弱さだ。

執着している。してくれている。ーーーそれなのにしがみついてくれないのは、彼女の弱さで、脆さだ。

けれど、その弱さをーーー弱さを、隙を、致命傷とも成り得るそれを、自分に曝け出してくれた彼女にとって最大限の『甘え』をーーー本当に愛おしくて狂おしくて、ただ強く強く抱きしめることでしか形に出来ない。違う。

伝えられることが、ある。

「・・・・・・大丈夫。大丈夫だよ、みーさん」

伝われ。伝われ。ーーーまっすぐに、伝われ。

「みーさんに・・・・・・みーさんにそう言ってもらえて、・・・・・・やっと言ってもらえて、俺は今本当に幸せだから。なにも怖く、ないから。・・・・・・愛してる。みーさん、愛してる。みーさんが愛するそのひと含め、そのひとと過ごした時間も想いも全部ぜんぶ含めてみーさんを愛してる。本当に、愛してる」

林場が言いかけた言葉が、今わかった。

本当のことだから止めようとしたのではなく。

全部わかった上で好きなのに、それを否定された気がしたから嫌だった。ーーーだから、止めようとした。

「みーさん、待ってる。ずっとずっと、待ってる。・・・・・・みーさんは俺に甘えて。俺以外の奴に甘えないで。俺以外の奴と付き合わないで。俺以外の奴を選ばないで。俺を選んで。・・・・・・どれだけ時間がかかっても、いいから。だから約束して。ーーーみーさんの未来は、誰にもやらない。俺が全部もらう。みーさんが何処に行っても関係ない。絶対に、俺のものだ」

独占欲。支配欲。どちらも正しくて、どちらも少しずつ違っている。

彼女と自分の弱さは重ならない。甘さも、甘えも。ーーーだから彼女が云えないことを、自分が云う。

抱きしめたまま身を屈め、その耳元にささやいた。

「愛してる、みーさん」

ーーー一瞬だけ、彼女がくたりと、身体を預けた。

けれどすぐに自分の力で立ちーーー抱きしめられたそのまま、声もなくこくりとうなずく。ーーーそれだけで、今は十分だった。



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