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第44話 悪夢

 彩花はゆっくりと目を閉じた。目の前の情報をできる限り遮断することで思考に集中していく。


 人間の感覚器官において視覚は重要な役割を持っている。入ってくる情報量は五感の中でも約8割。2つの小さな球体が持ち主が居場所を見失わないように支えてくれているのだ。


 だが、その代償に凄まじい処理能力を要求されることになる。情景は刻一刻と移り変わっていく。通り過ぎる人々、両脇を囲い込む雑居ビルの群れ、青いキャンパスを悠々と泳ぎ回る雲の群集。外を少し歩いただけで情報の波に飲み込まれることだろう。


 だからこそ瞼を閉じた。紅色の暗闇に無数の記憶が浮かび上がってくる。パズルをするように散りばめられたピースを一つ一つずつ手繰り寄せていく。微かな記憶を頼りに形をまとめていった。


 新井が建てた仮説。葉山が能力者だとしてどうして自分の妨害をするのか。美由紀さんの亡くなる前の時間まで行くことができれば彼の望みが叶うことになるはずではないか。


 彼のことを考えていると、ある違和感が頭をよぎった。まるでワイシャツのボタンをかけ間違えに気付いたかのように。ふと噛み合わないやり取りがあった気がした。初めから第三者視点で考えれば一目瞭然だったのだ。鏡を見ていれば何もかも問題にすらならなかっただろう。


「多分だけど葉山さんの能力は対抗特化。つまり『私の使用する能力の否定』ということですね」


 能力は通常本人の強い想いに応えて発現する。そして具体的な目的がなければ形にならない。例えば彩花のタイムリープは『不都合な過去を何度繰り返しても塗り替える』という想いにより生まれたものだ。


「超能力とは与えられるものではない。どいつもこいつも俺の知っている能力者たちは皆、とんでもないトラウマを拗らせてるやつばかりだ」


 雨竜はカップを静かに置き、腕を組む。その視線は彩花ではなく対角線に座る京子へと向けられている。


「勿論、例外はあるがな」


「では、私が記憶を思い出したのも能力を手に入れたということなんですか?」


「理解は分からんが恐らく違うだろう。こいつを理解したいって気持ちが彩花の能力に打ち勝ったんだろう。そもそも能力と言っても絶対ではない。心の力というものは力強くも儚いものだ」


 2人のやり取りを聞いている内に彩花には一つの疑問が生まれた。なぜ葉山の能力が私の能力の否定なのだろか。


 タイムリープの副作用である記憶再築の影響を受けない理由なのは分かった。だがもう一つの恩恵であるタイムリープ先の制限。彼が『美由紀が亡くなる直前の時間軸』へのタイムリープを否定する気持ちが理解できなかった。


「時間を巻き戻しことはアイツは知っているんだろう?能力を伝えたとき何も聞かれなかったのか」


 雨竜の指摘を聞いて自分が重大なミスを犯したことに気が付いた。アクセルとブレーキを踏み間違えるのと同じように取り返しの付かない勘違いをしてしまっていた。


「私、できないって言いました」


 『妻の死を止めることはできないのか?』と問われたときのことを思い出す。あの時は当然の疑問だと彩花は捉えていた。能力を知らない人間であればどの程度まで範囲があるか確認するのは当たり前のことであろう。まさかあの時点で彼がタイムリープを認知しているとは思っても見なかったのだ。能力を手に入れたのは初めて自殺した時点からだと決めつけていたために違和感に気付くことができなかった。


 またつい先程までタイムリープができない理由を自分のせいだと思い込んでいたのだ。何度も何度も試して既に心が折れかかっていた。だからこそ美由紀を救うことはできないとはっきり告げてしまった。


 最悪なことに一方の葉山も勘違いを冒していた。彩花から能力を打ち明けられたとき、いままで偶発的に発生していたタイムスリップがどのようにして起こっていたのか理解した。そして、それまでに彼女が妻の死ぬ直前に遡ったのが一度だけだというのも知っていた。それがよくなかった。


 数分後に妻が事故で死ぬと分かっていたら当然救おうとするはずだ。だが失敗し、最悪の結末を再び味わった。絶望感に打ちひしがれた彼はそんな悲劇を拒絶した。


 だからこそ彩花には問いただしたのだ。次は救い出せる算段はあるんだろう、と。だが望んだ答えは返ってこなかったのだ。


 一度削がれた希望を取り戻すことは難しい。既に葉山の深層心理は奇跡を拒んでいる。そして、悪夢を見るくらいなら死んだ方がマシだと世界に望んだのだった。

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