第35話 危機
観客の多くは待ち侘びた見せ場が訪れたことで盛り上がりを見せる。
声変わりも未だ遠い歓声と当時の心が残る眼差しの中、ヒーローは羨望された約束を遂げようとしている。
怪人は依然地面に手を付いたまま立ち上がることが出来ていない。
このままでは受け身を取れずレッドの攻撃をモロに受けてしまうだろう。
雨竜は彩花のポケットを見ないようにした。
そうでもしないと重みのない手の平が気になってしまいそうになる。
それでも落ち着かなくて力の限り拳を固めていたのことに気付いて手を広げると、爪が食い込んだところが白くなっている。
年老いた身体。劣化したスポンジの如く凹んだまま元に戻らなくなってきた。
痛みも全く感じない。代わりに胸の奥の奥の方がジンジンと熱くなっていく。
それでも若かった頃に比べればそうした心苦しさも実感しにくくなってきた。
深い皺の刻まれた手のひらとは縁遠い彼らに味合わせたくない。
この凹みのようになかなか治らない深い溝を知るにはまだまだ人生経験が浅すぎる。
多くの歓声が上がったことで雨竜の思考は現実へと戻される。
地面から顔を上げるとクラウチングの体勢を取っていたレッドが怪人に向けて駆け出すところだった。
強靭な脚力は総重量65キロを跳躍し、見事な飛び蹴りを形成していく。
真っ赤な弾丸は華麗な弧を描きながら怪人へと集約しようとしている。
「…雨竜さん」
彩花が焦りと心配の混ざり合った声で問いかけてくる。
最悪な想像が脳裏に浮かんだのだろう。
瞳が涙が声色に連動して揺らいでいる。
『俺はたとえ代理だろうと笑顔にさせたいんです』
いつだっただろうか木原が言った言葉が脳裏を掠めた。
これで一体誰が笑顔になるってんだ。
「伝えたいことは伝えられたんですか」
震える手で彩花はトランシーバーを差し出してくる。
コードの巻は垂れ下がりイヤホン反対は地面についてしまいそうになっている。
「人に伝えるってのは難しいもんだな」
そんなことは当たり前と思っていた。
そんなことすら忘れていた自分に笑いが込み上げてしまいそうになる。
「出来のいい弟子を持って苦労を忘れてちまった」
雨竜は彩花の目を見ながらそっと手のひらでトランシーバーを押し退けた。
「!?…どうしてですか」
驚くのは無理もない。
彼女に誤解されないよう言葉を選びながら静かに語りかける。
「それは必要ない。使い慣れていない俺が使っても恐らく伝わらないだろう。昔ながらのやり方でいく本気で伝えたい時はこうするに限る。いまそれを思い出したよ」
雨竜は息を大きく吸い込む。
久かた振りに膨張する肺と横隔膜が悲鳴を上げるがなんだか心地よい。
目一杯吸い込んだ所で一度止める。
会場に目を向け、2人に伝わるように大声を出す。
「その程度かぁ!!」
短いアドバイスは歓声に紛れながらも埋もれることなく会場に響き渡る。
近くにいた数人は何事かと振り向きはしたがそれだけだった。
だが渾身の発声は無駄ではなかったようだ。
息を整えながら会場を見つめる雨竜の瞳にはその答えが映っていた。
明らかに戦闘不能と思われた怪人は密かにタイミング測っていたのだ。
膝を付き首を垂れていたのだ、まさかカウンターを狙っているなどレッドですら思わなかっただろう。
そう、台本を知るレッドですら予測不可能なカウンター。
本来のシナリオ通りに動くなら怪人は一寸の間合いで避け切って致命傷を与えるとある。




