後書きに寄せて。
ここまで読んでいただきまして誠に有り難う御座いました、最後に皆様方に一言だけ言わせていただきたいのですが、“祈り”や“愛”について理解できなければ到底、“神の存在証明の理論”を理解したり構築したりする事は出来ません。
ですので“出来ますならば”、“愛”について調べたい方はちゃんとした形での“祈り”も同時並行で行って欲しいのです(何故ならば“愛の本質”とは知識だけでは到底得られず、“誠意を尽くす”と言う事を体現した瞬間に初めて理解が及ぶモノだからです)。
ただし“祈る”場合は先述の通り気を付けて下さいね?何故ならば“カルマの問題”もあるのですが、それ以外にも“祈る”時には全神経を集中させて願いが現実化するまで一念を貫き通さなくてはなりません←それは体力や気力をそれなりに消耗する行為であり、あまりやり過ぎると廃人になりかねないのです。
ですからやはり、信頼の置ける霊能力者の方に相談しながら無理をせず行われた方が安全だと思われます(人間で言うのは何かにつけて“限界”がある生き物ですからね)。
さて皆様方、私は“初めに”で言わせていただきました、“デカルト”や“カント”等の先達が“神”の存在を証明出来なかったのは“愛”や“祈り”の何たるかを知らず、体得も出来ていない状態で“知識だけで”神の存在証明を試みたからだ、と。
彼等は恐らく“高度な理性”に頼ったのでしょうし、己の持つ“魂の善性”にも期待していたのかも知れません。
しかしながらそもそも論として以下に纏めさせていただきますが、
善とは:ありのままの自分と他者を認めて許す事であり、全てを許容して受け入れる優しさの事である(その究極が“感謝”である)。
理性とは:“体得した事象”や“感得した概念”を記憶して分析・言語化する能力の事である(これを別名で“知識”とも言う)。
そもそも何故に人は生まれながらに“善悪”を判別出来るのか、と言えばそれは(一般的な)人の本質が“善”であり“神の愛の顕現”だからである。
人は誰しもが長い長い魂の旅路(輪廻転生)を続けて行く中で時には他人を傷付けて殺めたり、またあるいは自分が人に傷付けられて殺されたりを繰り返してその痛みや苦しみを知り、悲しさや罪悪感を知るのである。
そして漸く“無作為に人を傷付けてはならない”、“悪戯に人の命を奪ってはならない”と言う事を頭では無く、心で理解するのである(このようにして一段階優しくなる事を“愛を知る”と言い、そして“真なる愛に立ち返る”事を“進化する”と言う)。
ちなみに何故に人は痛みを知って進化出来るのか、と言えばそれは(先述の通りで)人の本質が“善”であり“優しさ”であり“愛だから”に他ならない←もしも人間の本性が“悪”ならば例えどれだけ人を殺めようとも心が全く痛まず、また裏切り行為に遭っても胸糞が悪くなる事も無いハズである(当然の事が起きただけだ、としか思わないであろう)。
本当の意味で進化すると人は芯から優しくなれる、そして優しさとは強さである(自分や他者を受け入れられる度量であり根性である)。
注)どうしても“輪廻転生”が受け入れられないのであれば、先祖から連綿と受け継がれて来た“遺伝子情報”に組み込まれている、様々な善悪体験の結実が今現在の自分達の“意識”や“理性”を形成している、と言い換えてみても良いかも知れない。
と言う訳です、まずは“体得して吸収する”、即ち事象や概念を“自分のモノ”としなくてはなりません(“理性”で判断するのはその後です)。
如何に“理性”が素晴らしかろうとも“知識だけで”物事を十全に判別する事は出来ません(それは単なる“絵に描いた餅”です←どんなに上手く描けていても“絵の餅”は食べられませんよね?)、私の先輩格である“プラトン”や“デカルト”達はこれをやってしまったんです(で、“カント”がトドメをさしたのです)。
皆様方もお気を付け下さいませ?
それからちなみに敢えて言わせていただきますが、私は“純正日本人”です(少なくともそのハズです)。
御先祖様は秩父氏(平氏)の分家の出でした(その生き残りの末裔です)。
一応はハッキリと言わせていただきます。




