“愛”とは何か。
“愛”、特に“純粋なる愛”とは=で“祈り”、あるいは“祈る”と言う事であり、両者は切っても切り離せない不可分なモノである(“祈り”とは“純粋なる愛”の発露した姿だからである)。
以下に詳しく説明させていただくが、そもそも“愛”には3段階が存在する。
まず第一段階が“相手を認めて許すこと”、続いて第二段階が“相手に無償の奉仕をすること”、そして第三段階が“相手の為に祈ること”である(これは特に“相手の幸せや救済を祈る”と言う事であり、もっと言ってしまえば“相手の今後ますますの霊的進化と開運を祈る”と言う事である)。
注)ただし実際に“祈り”を捧げる場合にはいくつかの注意しなければならない事柄が存在している。
そもそも“ちゃんとした形で祈る”と言うのはそれ自体が中々に大変な苦行であるが、それに加えて下手に誰かの為に祈りを捧げるとその人の持つ“カルマ”、即ちその人が“過去世”に於いて清算出来なかった罪科や怨念等が自分にやって来てしまう場合があるからである(対象者のそれらがキチンと浄化されていないにもかかわらず、下手に他人の幸せや救済を祈ると“それならばコイツのカルマをお前が肩代わりしてくれるのだな?”と言う事になりただでさえ大変な人生がより一層、キツくて苦しいモノとなるのだ)。
またもう一つ、祈りを捧げている最中は自分と神々以外の誰にもそれを知られてはならない為に、祈祷者本人は誰にも感謝も評価も見向きもされないと言う非常に孤独で厳しい道を歩まなくてはならなくなる(現に“古神道”等に於いては“願い事は秘密にする事で神が宿る”と言う教えが存在している)。
しかし。
“それでも良いからこの人の事をなんとかして救いたい”、“いつまでも笑っていて欲しい”と心の底から希える程の、いじらしいまでの健気さや暖かさ。
たとえ一時自分の身を犠牲にしてでも、それでも尚も相手に尽くそうとする愚直なまでの直向きさ。
それこそが“純粋なる愛”の本質である。
それは一見静かだけれどもその実、“比類無き激情”であり“凄絶にして確かなる一途さ”、その顕現した姿に他ならない←ちなみに祈りを捧げる場合は(状況にもよるが)何も自分が死ぬまで祈り続ける必要は無く、あくまで自分が“カルマの攻撃”に耐えられるギリギリいっぱいまでで充分である(さもなければ“まずは自分自身を愛する”と言う基本からも逸脱する事になるし、それになにより“自分を大切に出来ない人は他人を大事にする事も出来ないから”である)。
注)上記のように“祈り”を捧げる際にはだから、出来るだけ信頼の置ける“霊能力者”の方に相談しつつ行うのが良いと思われる。
これ以上に“愛”についてより深く知りたい方はウェブサイトや書籍、あるいは専門の教育機関等でご自分で知見を深められる事をお勧めする(ただし出来ればちゃんとした形での“祈り”も同時並行で行って欲しい←“本物の愛”と言うモノは知識だけでは到底、得られず“誠意を尽くす”と言う事を体現した瞬間に初めて理解が及ぶモノだからである)。
そもそも“愛”とはなんなのか、と言えばそれは“誠意を尽くすこと”であり=で“祈る”と言うことである。
そしてその結実した姿こそが我々“霊なる者”であり、もっと言ってしまえば“存在”なのである(即ち“愛”とは“存在すること”だと言い換える事が出来る)。
それは一体何故なのか、と言うと、私達は誰もが皆、この宇宙全体を創造した“始源の超神”(“宇宙創造能力”とも呼ばれる)によって生み出されて来た。
“始源の超神”は“生き物”や“現象”、そして“霊なる者”を創造する際に、その存在に最も相応しい在り方や姿をイメージして次々と創造を行っていったのだ、“出でよ”、“生まれよ”、“有れ”と言って。
その際“始源の超神”は己の感性や知識をフル稼働させて全能力を集中させ、精神力と生命力を削りながら存在達を生み出して行ったのである、そこにありったけの暖かさと愛情を込めながら、一切妥協する事も無く。
こうして生み出された存在達はだから、全て“始源の超神”の“誠意と愛情の発露”であり“祈りと真心の顕現”とでも言って良いモノとなった、故に存在する事こそが愛なのである(“神の愛の迸った結実”、あるいは“その証”なのである)。
そしてだからこそ。
この宇宙に生きとし生ける全ての“霊なる者達”は、互いに等しく愛し愛されなければならない、愛し合わなければならない。
それが“宇宙の法”であり“宇宙の秩序”であり。
そして“宇宙の愛”なのだ。




