↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
竜の都で謳う姫  作者: 光太朗
第三章 姫
PR
9/15

3-2

 香りがした。

 イリスはこの香りを知っていた。じんわりと身体に広がっていくような、懐かしい香り。

 ひどく優しい、幸せな、そして涙が出そうになる、香り。

 ぬくもり。

 あたたかさ。

 歌。

 頭を撫でる手。

 しかし、その手を意識した瞬間に、これは夢なのだと理解した。

「起きたのね、イリス。いいのよ、まだ眠っていても」

 母の声。

 聞こえるはずのないそれが、ひどく優しく、耳をくすぐる。

 当然だ、これは夢なのだから。

 だから、聞いていてもいい。

 もう少し、このままでいても、いいはずだ。

「かわいいイリス、かわいそうなイリス」

 意識は夢のなかなのか、それとも眠っているこちら側なのか。とにかくそのどちらかが、かすかな疑問を覚える。

 しかし、小さなことだった。

 幸せなのだ。

 それでいい。

「かわいいイリス、わたしのイリス」

 優しい優しい、母の声。

 イリスはずっと、母と二人だった。

 母は笑っていた。常に笑っていた。

 まるでそれ以外の表情を、どこかに落としてきてしまったみたいに。

「かわいそうなイリス」

 優しい囁きが続く。

 ダメ、とイリスは思った。

 耳を塞いで。

 聞かないで。

 聞かない方が、きっと──

「────────」




 あれほど鮮明な夢だったのに、目を覚ました瞬間に、そのほとんどが蒸発してしまったかのようだった。

 イリスはベッドの上で寝転んだまま、身じろぎせずに、天井を見上げる。

 淡いピンク色の、飾り気のない天井。いつもの天井、のように思われる。

 しかし、違和感があった。

 同じのような、同じでないような。

 香りも、違うような気がした。

 身体を起こして、部屋を見回す。やはりどこかがおかしいと、毛布から抜け出し、並べてあるブーツに足を入れた。

 いつもそうするように、ベッド脇のドレッサーに自らを映す。寝ぼけた目をしていた。ふわふわの銀色の髪には寝癖ひとつついていなかったが、引き出しから愛用のブラシを取り出して丁寧に梳き、少しだけ覚醒する。見慣れた部屋着だ。クローゼットを開けてみると、中身も記憶のとおりだった。無難なワンピースを選んで、とりあえず着替える。

 首をかしげながら、部屋のなかを歩き回ってみた。頭の中が、どうもはっきりしない。天井と、壁と、香り。違和感はそのあたりだが、確証はない。

 ウェルナーはいるだろうかと、ふと思いついた。ウェルナーが家主なのだから、なにかがおかしい気がすると、彼に相談をすれば良いのではないだろうか。

 とても自然な流れだ。なんという名案。

 そうと決まれば、まずは顔を洗わなければいけない。イリスはいそいそとドアを開けようとする。

「あれ?」

 しかし、動きを止めた。止まらざるを得なかった。

 明らかに、ドアのデザインが記憶にあるものと異なっていた。しかも開かない。鍵がかけられているようだ。

 白く塗られたドアは年代物で、質素な部屋に似合わない高級感を醸し出している。ドアだけをどこからか持って来て、取り替えたのだろうか。それとも……もしかして。

 イリスは、眉をひそめた。

 まったく記憶にないドアというわけでは、ない。

「入るぞ」

 タイミングをはかったようにドアがノックされた。

 ウェルナーの声だ。イリスはすぐに返事をしようとして、慌ててドレッサーまで戻って顔を確認した。寝起きの上、まだ洗ってもいないが、だいじょうぶ、許容範囲だ。

「イリス」

「あ、はい! どうぞ!」

 一呼吸分間が空いて、ドアが開けられた。

 あれ、そういえば、鍵は。頭の片隅で思うと同時に、もっと大きな疑問が脳を支配する。

 昨日はウェルナーとデートだったはずだ。ウェルナーの顔を見た瞬間に、事実だけが思い出された。

 しかし内容は、途中までしか覚えていない。

 思い出そうとすればするほど、混乱した。

 おかしい。

 覚えていないことが、思い当たらないことまでたくさんあるのではないかという、不安。

「ウェルさん……あの」

 おはようございますというのが先だろうか。混乱したイリスの脳は、上手に質問を導き出してくれない。

「おはよう、あいにくの空で。……どうか、したか? いや」

 すでに鎧を着込み、大剣を背負ったウェルナーが、いつもと同じトーンで挨拶を口にする。しかしそのまま、珍しく、口ごもってしまった。

 ウェルナーは表情を取り繕うような人間ではないはずだ。少なくともイリスの感覚ではそうだ。しかしいまのウェルナーは、どういう表情でいるべきかを決めかねているように見えた。

「あの……この部屋って」

 イリスは、当然に浮かんだ疑問を、まず口にする。数々の疑問のなかでも無難なものを選んだつもりだったが、ウェルナーはそれこそを恐れていたかのように、複雑な顔をした。

「それは、そうだろうな」

 要領を得ない返答。ウェルナーの眉間に深く皺が刻まれた。その見慣れた表情に、イリスはいくらかほっとする。

「ですよね! いつの間にドアを取り替えたんですか? びっくりしちゃいました、急にカッコイイのに変わってて」

 すごく高そうですよね。イリスは半ば無理矢理笑い話にしようとする。

「いや……どこか、痛いところや、おかしなところはないか?」

 ウェルナーからの返しは、ずいぶんと見当違いなものだった。一瞬なにを聞かれたのかわからず、イリスは目を丸くする。ドアの話はどこへ行ってしまったのか。

「もちろん、元気ですよ。いっぱい寝ちゃいましたし」

「そうか」

 どうしてそんなこと聞くんですか。いつもなら考えずに出る言葉が出てこなかった。ウェルナーの返事も最小限だ。いや、これは以前からこうだっただろうか。あたりまえだったことが、だんだんわからなくなってくる。

 確かな異常事態に、聞きたいことが尻込みしていた。おかしい。おかしいことが多すぎる。

「それは、よかった」

 しかし、続いた言葉に、イリスの乙女心が跳ねた。ウェルナーはひどく優しい目で、小さくではあったが、確かに微笑んでいた。なにがなんだかわからないが、どうやら心配されていたのはまちがいないようだ。

 それは、よかった。

 その言葉だけで、もうなにもかもが「よかった」に染まる。

「ウェル。いいかな?」

 不意に、第三者の声がした。ウェルナーの陰になっていてまったく気がつかなかったが、この部屋への客はもう一人いたようだった。

「ああ、すまん。紹介しよう、イリス」

 ウェルナーが場所を空ける形で促す。そこに笑顔で立っていたのは、物語の挿し絵で見るような美青年だった。

 金髪碧眼。周囲の空気が瑞々しい気がする。彩度が上がったような錯覚。見た目だけではなく、甘くない、清涼感のある、どこか尖った香りが漂ってきた。彼が動くことで生まれた香りなのは間違いない。

 身分が高そうでお洒落な人。イリスはそんな感想を持つ。

「アレックス・L・トキオータ。この国の王だ」

 さらりとウェルナーに紹介され、イリスの思考が停止した。

 王。存在していることはもちろん知っていたが、イリスにとってはそれこそ物語のなかの存在だ。

「お、王様、ですか? どうして? どうしてこの家に?」

「初めまして、イリス。私のことはアレクと気軽に呼んでくれ。私は王である以前に、ウェルやニーノの幼馴染みだ。そう思ってくれた方が助かる」

 アレックスがにこやかに右手を差し出し、イリスは恐る恐るその手を握る。ごきげんようと、どもりながらもなんとか返した。頭がついていかない。

 綺麗な男の人というのは、イリスが知らないだけで、実はたくさんいるのかもしれない。無意識に考えてから、あれ、と思う。目の前にいる男性以外に、綺麗な男の人になど会っただろうか。

「ウェルの家ならば、行く理由はいくらでもあるんだがね。残念ながらここは彼の家じゃない。ここはトキオータの都、オータリアの城だ。部屋は気に入ってくれたかな?」

「え?」

 イリスは今度こそ言葉を失った。

 このきらびやかな王がなにをいっているのか、わからなかった。

 ウェルナーの家に王が訪れたのではなく、ここがそもそも城なのだという。

 ではやはり、違和感を抱いたのはまちがいではなかったのだ。

 しかし、使い慣れた家具、踏み慣れた絨毯、配置はもちろん、クローゼットの中身もイリスの部屋と同じだった。明らかに違うといえば、イリスと王、ウェルナーの間にあるドアだが、ドアを取り替えたのではなく、部屋が違うのだという。

 つまり、部屋ごと移動したのだ。

 あの部屋のなにもかもを、この部屋へと。

「ど、どうして、そんなことを?」

「君が過ごしやすい方が良いだろうと思ってね。かえって落ち着かないというのならば、別の部屋を用意しよう。好みの家具や好きな色をいってくれ。私にいいにくければ、ウェルにいえばいい。遠慮することはない」

 まったく意味がわからなかった。そこまでする理由も、してもらう理由もわからない。部屋がというより、イリス自身が引っ越したということなのだろうか。承諾した覚えはないが、昨日のうちに、勝手に。

 困惑しきって、ウェルナーを見る。ウェルナーは眉間の皺をさらに深くしていたが、場所を完全にアレックスに明け渡し、どうやら口を開く気はないようだ。

「あの、もちろん充分なんですけど……わたしは、ウェルさんのあの家に、戻りたいです」

 部屋の中身の問題ではなかった。森に囲まれたあの家。ニーノの店やレーゼ亭や、図書館や──キトラの町そのものが、イリスの暮らしていく場所であるはずだった。

「イリス、悪いがそれは難しい」

 穏やかな物いいだったが、アレックスははっきりと首を振る。

「だが、できることならなんでもする。その用意があるということを、知っておいてくれ。君の知っている何人かは、城や城下に来ている。会うこともできるだろう。ほかになにか、要望は?」

 当然のように問われ、イリスはいいえと答えるしかない。アレックスは微笑んで、もう一度イリスの手を握った。

「小さなことでも、なにかあれば、なんでもいって欲しい。私にでも、ウェルにでもね。ウェル、彼女を頼んだよ。それでは、私はこれで」

 アレックスは正式な形で一礼をし、イリスの前から去っていった。そのうしろ姿を、イリスはぼんやりと見送る。一体なんだったのだろう。

 なにかの冗談だろうか。イリスはウェルナーを見上げたが、黙ったままなので、踵を返して窓に向かった。カーテンを開け放ち、外を見下ろす。

 見えたのは、見慣れた森ではなかった。

 この部屋は、キトラの家よりもずっと高い位置にあるようだった。林の向こう、赤茶色の屋根がずっと遠くまで続いている。人の影は豆粒みたいで、現実味がない。遠くの空には逆さの岩山──竜の住処が見える。

「俺の部屋は隣だ。まったく同じというわけにはいかないが……食事は一緒にとろう。勝手がわからないだろうと、アレクがメイドを手配したらしい。俺に聞きにくいことは、そっちにいうといい」

「あの」

 イリスは振り返った。もしかしたら聞いてはいけないことかもしれない。聞いても意味がないのかもしれない。それでも、聞かずにはいられなかった。

「どうして、あの家に戻れないんですか」

 ウェルナーは嘘をつかないだろう。そこにあるのは確信と期待だ。まばたきもせずに見つめると、ウェルナーは唇を噛んだ。

「狙われているからだ。キトラにいたのでは、守れないと判断した」

 それは、イリスの欲しい答えとは違うような気がした。しかしそれをどう表現すればいいのかわからず、イリスは黙る。

 狙われているといわれても、その意味も事情も、そして守られる理由も、見当も付かないのに。

「なぜですか」

 困らせるだろうということは、わかっていた。ウェルナーがイリスの隣にいるのは、それが仕事だからだ。そんなことはわかっていた。王と名乗る人物が現れたからには、彼こそが雇い主なのだろう。

 つまりイリスは、国に守られているということになる。

 困らせてもいい、喧嘩だってしてやる、引き下がるものか。それだけのつもりで問いを投げつける。

「ウェルさん、わたしは、なんなんですか」

「俺も」

 しかし、怒りは跳ね返されず、静かに吸収されてしまった。

 それはイリスにではなく、ウェルナーにとっての負荷となってしまったことが、ありありと見て取れた。

 ウェルナーは、ひどく悔しそうな顔をしていた。

「すまない。俺も、知らない」

 嘘ではないのだろう。

 まるで蚊帳の外なのは、イリスだけではないようだ。

 イリスはあらゆる感情を、ため息といっしょに飲み込んだ。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。