3-1
だれもが、その歌声を聴いた。
身体の外側ではなく、内側へと届く、声。
笛の音と声とが一つに集束し、広がる。二つの色はやがて七色に、いつしか限りなく白に、変化した。
しかし、それを語れるものは、ごく少数だった。
彼らは聴き、気づく。
これは祝福ではない。
酔いしれる類のそれでは、ない。
昼が消えた。
眩しいばかりの空が、押し寄せるように闇に追いやられた。
覆い尽くすのは、怒り狂う複数の巨大な影。
なびくのではなく意志を持ってはためかせる、肢体の先まで届く鬣。絹よりもしなやかで、鉄よりも硬い髭を両方向へ広げ、宝石となったそれよりも遥かに強く輝く瞳で、町を浚う。
風を伴い光を隠し、キトラの町を見下ろした。
鋭利な爪を空に突き立て、呼応するように背を伸ばし、次々に吼えた。
疑いようのない怒り。
同時に、歓喜。
ああ、ここに。
ここにおられましたか。
あなたさまがご無事で良かった。
本当に良かった。
歌声を決して邪魔することなく、響き渡る咆哮。
この場にあって、笛の主だけは、一欠片も動揺しなかった。崩れ落ちた屋根に腰をかけ、薄く笑いながら息を吹き込む。
少女は目を見開き、しかし何を見ることもなく、ただ歌を唄い、そして謳う。
わたしはここにいます。
わたしはここにいます。
「イリス!」
めくれ上がるように持ち上がったテーブルの一つを盾にして、ウェルナーは叫んだ。声が届かない距離ではない。しかしイリスは、まるで反応する様子がない。
彼女を中心に風が巻き起こっている。それだけではなかった。吹き飛ばされた屋根の向こう、押し寄せてきたいくつもの影。
竜だ。
「イリス! 聞こえるか! イリス!」
竜は吼え続けている。ウェルナーの声などすぐに飲み込まれるほどだったが、しかしこちら側を破壊しようという気配はなかった。まるで見守るように、一定の距離を保って蠢いている。思い思いに吼えているというよりは、会話しているかのようだ。なにかを盛んに、互いに、確認し合うように。
すでに、空は見えなかった。一体どれほどの数が押し寄せているのだろう。空気そのものが押されているかのように、頭上からの圧力を感じた。
「イリス!」
それでも、叫び続ける。生まれる風は激しさを増すばかりだった。風はやがて、熱を持つ。町中で炎が上がっているのが悲鳴でわかる。ウェルナーは奥歯を噛んだ。なにを優先させるべきなのか、答えは明白だ。だが、そこに至る道の、最善は。
「ウェル! バカ野郎、落ち着け!」
ウェルナーの後方で、瓦礫の隙間から這い出すようにして、ニーノが声を張り上げた。
「オプスだ、音を丸ごと増幅させてる! っくそ、利用された!」
「……! いけるか、ニーノ」
「いけねえよ阿呆! 青い支柱だ、ぜんぶで四つある、わかってて壊れないようにしてやがる、あの笛野郎! 弁償はいいからたたき壊せ!」
「すまん!」
ウェルナーは背中から剣を引き抜いた。同時に、青い支柱を確認する。そもそもは、四つともが音を拾えるよう、演奏スペースを囲むように置かれていたはずだ。ひとつは笛の主の隣に寄り添うように、あと三つは瓦礫に囲まれているが、ニーノのいうとおり、壊れてはいないようだった。オプスが赤く輝き、振動している。
できるだけ風の抵抗を受けないよう、姿勢を低くした。腰より下に柄を落とし、握りしめる。ぎりぎりまで身体に寄せて、いつでも斬りかかれる状態で、ウェルナーは風避けにしていたテーブルを前方に向かって蹴りつけた。
弾かれるように反対方向に飛び出し、転がる支柱の中央、赤いオプスだけを狙って大剣を叩き付ける。ほとんど同時に三つを始末し、一度深く足を折ると、真っ直ぐに笛の主に向かった。小細工は不要だった。ただオプスだけを狙い、下からすくい上げるようにして剣を振るう。
間違いなく破壊する、そう確信した瞬間に、右手を柄から離した。左手で残りの手応えを得て、身体全体を捻る。
視界が、イリスを捉えた。
彼女は歌い続けている。空へ、あるいはその向こう側へ。
壊れたように見開かれた目から、涙が流れている。
何かを訴えようとしているのだと、ウェルナーは気づいた。
しかしそれらすべてを無視して、イリスを抱いた。右手で引き寄せ、剣を持ったままの左手で守る。
オプスを破壊した瞬間だった。音が消えたかのような錯覚を覚えるほど、唐突に静寂が落ちる。ウェルナーは腹の底から吼えた。彼女の、なにも映していない瞳を見つめて。
「イリス!」
目に見えないなにか、恐らくは音そのものが、爆ぜた。イリスがさらに目を見開いて、琥珀色のそれにウェルナーが映し出される。
ウェルナーはどきりとした。そこにいる自分は、思うよりも遥かに真剣な、鬼気迫る表情をしていた。
「彼女の意志を尊重するよ、ぼくらは」
少年はいつの間にか、口から笛を離していた。屋根に片足を乗せ、ウェルナーとイリスを見下ろしている。
「ナイトさん、君は彼女を守っているつもりなの」
それは、問いかけの形だった。ウェルナーは眉根を寄せ、無言で少年を睨みつける。赤味を帯びた髪が風に浮かんだ。空から降りた一匹の竜が首を伸ばし、少年を鬣に乗せていた。
「……ああ」
答える必要もなかったのだろう。挑発されていることがわかっていたのに、ウェルナーは言葉を返さずにはいられなかった。まるで牽制するかのように。
「そうだ」
「君の意志で? 理由を持って? 彼女のために? もっとほかの、なにかのために?」
たたみかけるような質問ではなかった。一つ一つゆっくりと、投げかけられる。
全部がウェルナーの脳に入って、しかし跳ね返っては来ない。
痛いところを突かれた。
それでも、ウェルナーは目を逸らさなかった。虚勢でもかまわなかった。いま引くわけにはいかない。
けれど、その場限りの嘘を吐くこともできなかった。
無言になる。
瞳が揺れたことに、それを必死に隠そうとしたことに、少年は気づいただろうか。
「君は、信用出来そうだ」
不意に、少年が笑った。人懐っこい、それでいてひどく綺麗な微笑。
「ここでの彼女は、君に任せるよ。伝えておいて、迎えに行くよって」
少年を乗せ、竜が舞い上がる。
合図し合うかのようにそれぞれが吼えて、数え切れないほどの竜が一斉に、高く上がった。
覆っていたすべてが、去っていく。
南の空、恐らくは竜の住処へと、真っ直ぐに。
雲はなかった。
照らし出される、キトラの町。
咆哮は遠い。
しかし、静寂はない。
呻き声、すすり泣く声、思い出したように、悲鳴。
ウェルナーは、腕のなかのイリスが気を失っていることに、安堵した。




