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竜の都で謳う姫  作者: 光太朗
第五章 想いの価値
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5-1


 少しずつ、少しずつ。

 イリスは思い出していた。

 自らの意志に関わらず、それはまるで厳重に封のされた袋に、穴が開いてしまったかのように。そこから砂が、こぼれ落ちて来る。

 降り積もるその場所に、イリスが立っている。

 避けてしまえばいいのだ。簡単なことだった。

 しかし動けない。

 動かない。

 馬鹿みたいに砂を浴びて、一粒一粒の色や形を、見ている。

 母と二人で、過ごした日々。

 悲しみの日。

 そして、目覚めたあの日と、それからのこと。

 不意に、揺れるものがあった。

 黒く輝く、小さな光。

 魅了される、心奪われる、澄み切った淀んだ光。

 いつ、見たのだろう。

 目が離せなくなる。

 これを見たのは、見せられたのは、いつ。

 囁く声は、いつ、誰が。

 どこから。

 どこまでが。

「止まれ」

 強烈な閃光を思い出す。押し寄せてくる。同時にひどく冷静に、こちらを制止する声。昂ぶるばかりだったイリスの、その胸の内が、静まる。

 これは記憶だ。

 記憶であるはずだ。

 確かに、在った。

 救われた。

 はず。

「だいじょうぶ、君は幸せだ」

 誰かの声。

 幸せだと告げられる。

 それは決定事項だった。

 わたしは、しあわせ。

「ここは、素晴らしい国だよ」

 すばらしいくに。

「君は、この国に、生きるんだ」

 不意に、声が変わる。

 別の誰かが、ひどく優しく、甘く、囁いている。

「恋をするといいよ」

 イリスの思考は、いつもここで止まるのだ。

 それ以上は考えたくなかった。

 だから、決められないでいた。

 キオンは、待つといっている。

 この地に残る町の人々は優しく、とりわけパメラは、イリスのことを気遣ってくれている。

 ここにいたいのか、それとも。

 イリスはその答え自体、考えることを避けていた。

 考えてしまったら思考に支配されて、どうにかなってしまいそうだった。

 できるだけ心をからっぽにして、なにもない、なくなってしまった部屋に、すわり込む。

 気づいてしまったことも確かにあったが、それからも、目を逸らした。

 ここは、居場所では、なかったのだろうか。


   *


 どういう関係なのかと、聞かれることがある。

 その度、ウェルナーは仏頂面で、答え続けた。同居人だと。行く当てのない彼女を保護しているのだといったこともある。

 イリスは外向的だ。物怖じせず、誰にでも話しかけ、ころころと表情を変え、よく笑う。壁というものを作らない。悪くいえば、警戒心がない。

 彼女が何者なのかはわからずとも、彼女がある問題を抱えていること、その一点だけはウェルナーも経験として承知していた。アレックスから依頼されるまでもなく、ずっと気を張っていたのは確かだ。彼女を心配していたのだといえば聞こえはいいが、本当にそうなのだろうかと考えてしまえば、答えは出ない。

 間違いなく義務だった。そういう事実があるのだから、それは揺るぎない。

 しかし、それだけではなかったのも、確かだ。

 なぜ、いま、馬を走らせているのか。

 その必要はない。必要だから行くのではない。

 ウェルナーは考える代わりに先を急ぐ。間に合わない可能性もあった。選択によっては、そもそももうこの国にいないかもしれない。

 考えることは苦手だ。

 動いているほうが楽だった。

 国のためにどうあるべきかはいつだってアレックスが考えていた。どう動くのが効率的なのか、それを考えるのはニーノだ。

 ウェルナーの役割は、考えることではない。

 信じて、動くこと。

 いままでは、それだけでよかった。

 竜を狩ることに疑問を覚えたことなど、一度もなかったのだ。

 吸い込んだ息を飲み下し、ウェルナーは馬を止めた。

 まだ日は暮れていない。脇目もふらず、ここを目指した。キトラを通り抜ける必要がなかったことに、心のどかかで安堵し、そして嫌悪する。

 休むことなく走らせ続けた相棒から降りて、謝罪するように額を寄せた。目を細めて頭をすりつけてきた愛馬の、耳のうしろを撫でる。澄んだ瞳はなにかいいたげのようにも思えたが、ウェルナーはかすかな苦笑を返すのみだ。風を切ることがなくなった身体に、鎧と剣の重みがのしかかる。慣れ親しんだ、ともすれば心地よいはずの重みだ。しかしいまは、それらをすべて取り払ってしまいたい気持ちがあった。

 愛馬を森の入り口に待たせ、それを仰ぎ見る。

 森の向こう側、まるで町から身を隠すような位置に佇む、ウェルナーの家。

 正確には、ウェルナーの家ではなかった。ここは、イリスとウェルナーの家だ。彼女と出会ったあの日から、ここで共に暮らすよう指示され、キトラの中心部から越してきた。そう手配したのは、やはりアレックスだ。すべてが義務であり、仕事。しかし、彼女は。

 あの好意の目を、忘れられない。

 その目を向けられるたびに、ウェルナーはたまらない気持ちになった。

 常につきまとう、後ろめたさ。彼女はおそらく知らなかったのだ。世間知らずというだけではなく、人そのものを。だから、懐いた。まるで雛鳥のように、外の世界に生まれ出て、最初に見たウェルナーという人間に。

 だからこその、罪悪感。

 しかし、事態はより最悪だった。それだけではないのではないかという推測が、ほとんど確信として、ウェルナーの胸にある。

 どこからどこまでが、アレックスの策だったのだろう。

 いまならわかる。恋をさせろという、あのどこかとぼけた台詞には、恐ろしく重要な意味があったに違いないのだ。

 ウェルナーは息を吸い込んだ。いると決まったわけではない。できるだけ気負わず、しかしどうしても緊張した足取りで、親しんだドアへと近づく。

 手を伸ばし、人の気配に眉を上げた。鍵はかかっていない。あの日、あの後、鍵がかけられたかどうかはウェルナーの知るところではない。考えるよりも早く、勢いよくドアを開ける。

「……やあ」

「──!」

 そこにいた少年──あろうことかダイニングテーブルでくつろいでいたらしい──を見て、迷わず大剣を引き抜いた。

 床を蹴り、一度の踏み込みで目前に迫る。左後方に構えた剣を水平に叩き付けるが、標的は椅子から転がり落ちるようにして刃から逃れた。

「っ、危ないな、野蛮なナイトだね」

 目を見開いて、驚きを隠そうともせずにそんなことをいう。ウェルナーの思うよりも人間らしいその態度に、なぜか染みのような黒い気持ちが生まれた。ウェルナーは舌打ちし、剣を構え直す。

 しかしキオンは冷静だった。驚いたのは一瞬だけで、すぐに冷えた瞳になる。

「ぼくは、君には一定の信頼を寄せていたんだけど。もちろん怒ってもいる。彼女を泣かせたね。君に任せるといったのに」

 キオンは何事もなかったように服の裾を払うと、倒れた椅子を直してもう一度すわる。斜めに見上げるようにして、赤い髪と対照的な青い瞳が、ウェルナーを見つめた。

「それで、なんの用?」

「どうして貴様がここにいる」

 怒りがウェルナーを支配していた。冷静であれと忠告するものはこの場にいない。冷静である必要もなかった。大剣を構え直す。

「ぼくを斬ればイリスが悲しむよ。ぼくが血だらけで倒れてごらん、ぼくの手を取ったせいだと、彼女は自分を責めるだろうね」

「イリスはどこだ」

「どうして泣かせたの」

 ウェルナーの肌が波打つような感覚に襲われた。泣かせた覚えなどない。しかし泣いたのだという。この町の現状を見て、知ったのだろう。柄の形が変わるのではないかというほどに、大剣を握る手に力がこもる。

「泣いたのか」

「なにしに来たの」

「どうして、イリスを攫った」

 ウェルナーはキオンの問いに答えるつもりはなかった。それはキオンも同じなのだろうう。お互いに腹を探り合うというよりも、ただ気持ちをぶつけているだけだ。

 平行線だった。平行ですらない。

「彼女はどこにいる」

「あのさあ」

 とうとう、キオンは呆れたように肩をすくめた。

「自分ばっかりだね、君は。少し冷静になりなよ。ぼくは彼女を誘っただけで攫ってなんかいない。彼女は自分の意志で、この町の住み慣れた家に行きたいといった。だからここにいる。わかる?」

「信じる理由がない」

「竜は嘘をつかないよ」

 ウェルナーは微かに目を見張った。不意打ちだった。予感がなかったわけではない。とはいえ、あっさりと名乗るとも思っていなかった。

「ぼくは、イリスの味方だ。君が彼女のナイトである限り、君の敵であろうとも思わない」

 澄んだ瞳と、そこに映る己を見つめ、言葉の意味をゆっくりと咀嚼する。やがて、ウェルナーは剣を下ろした。背負う鞘に音を立てて仕舞う。

「わかった」

 苦々しくうなずいた。浮き彫りにされるのはここで剣を振るうべきではないという現実ばかりで、斬りつける理由を見つけることができなかった。

 なにより、彼女に自責の念を与えるわけにはいかない。

「イリスは二階だよ。一人にして欲しいといっていた。そのうち、降りてくるさ」

「二階だな」

 ウェルナーは真っ直ぐに階段へ向かった。キオンの座るダイニングテーブルを通り抜け、その向こう側へ進む。

「一人にして欲しいと、彼女がそういったんだ」

 キオンはいかにも信じられないといった様子でそう言葉を重ねた。

「君はまた、彼女の意志を無視するつもりなの」

「俺は、イリスに一人にしてくれと頼まれた覚えはない」

 それ以上はキオンを見なかった。制止の声が続いた気もしたが、聞く必要はないと判断した。落ち着けと自らにいい聞かせながらも、足が急く。

 ウェルナーは知っているのだ。いま、彼女の部屋がどういう状態にあるのかを。そんなところに一人で置いておけるわけがなかった。

 鎧と大剣とが金属音をかき鳴らす。ウェルナーはノックなどということもまったく考えなかった。二階に並ぶ部屋のうち、一番奥のイリスの部屋を、迷いなく開け放つ。

 彼女は、そこにいた。

 部屋の中央ですわり込み、ぼんやりと、宙を見ていた。

「──っ」

 ウェルナーは、声を詰まらせる。

 見たわけではない。知っていた。かつて彼女が暮らした部屋は、一切の家具、絨毯、壁紙に至るまで、なにもかもがなくなっていた。

 当然だった。それらは丁寧に丁寧に、根こそぎ、王城の一室へと移されたのだから。塵一つ残っているはずもない。

 カーテンのない窓から、沈みそうな赤が差し込んでいる。いまにも闇に押しつぶされそうなそれは、イリスの存在そのものと重なった。イリス、と呼びかけようとして、しかしやはり言葉にならず、ウェルナーは息を飲む。

 謝罪するべきだった。

 そんなつもりはなかったなどといいたくはなかった。

 言い訳をしにきたのではない。謝意と、そして、意志を。

「……ウェルさん?」

 ひどく緩慢な動作で顔を上げたイリスは、ウェルナーを見て目をまたたかせる。見たことのない服を着ていた。衝動的に服をはぎ取ってしまいたくなった。それは、いつ、どこで、誰が、どうして。形にならない疑問がウェルナーの内部を駆け抜ける。

「あれ? 夢ですか? 現実……?」

 声は同じなのに、違う誰かのようだった。ウェルナーの知る限り、いつもきらきらと輝き、あらゆる感情をそのまま映していたはずの琥珀の瞳は、いまはあまりにも遠くを見ている。曇りガラスを何枚も重ねたような色。ウェルナーを通り越して、まるで違うなにかを探しているかのような。

「イリス」

 やっとのことで、ウェルナーはその名を舌に乗せる。

 膝をついた。拳で冷たい床に振れ、頭を垂れる。

「すまなかった」

 重い声で、そう告げた。しかし、言葉は返ってこない。

 長い時間をかけて、イリスが視界に入るぎりぎりまで、頭を上げる。イリスはやはりぼんやりと、こちらを見ている。

 そこには困惑も失望も、怒りも、もちろん喜びの類も、なにもなかった。

 なにもないのに、涙は静かに、彼女の頬を濡らしていった。

「わたしも」

 静かな声が、やっと応える。微かに震えていて、ウェルナーは思わず飛び出しそうになるが、その名前のつけられない衝動に、自らを律した。剣を振るうのならばためらうことなどないのにと、頭の片隅で思いがよぎる。

「わたしも、ごめんなさい」

 続いた言葉が不可解で、ウェルナーは顔を持ち上げる。

「なぜ、謝る」

「ぜんぶです。ぜんぶ、ごめんなさい。ぜんぶが、わたし……でも、いちばんは」

 イリスは言葉を切った。光のなかった目が、涙に濡れたせいで輝きを錯覚させる。ウェルナーは辛抱強く、言葉を待った。

「いちばんは、わたし……あなたを、好きですだなんて、いった、ことが」

 ウェルナーは胸を斬りつけられた思いだった。

 重い刃は、しかし、受ける準備をしていたものだった。わかっていた。そのまま胸に留まった重みを確かめるように、鎧の上から自らの胸に触れる。

「わからないんです。なにが本当かわからない。わたしは本当にからっぽで、でもひとつだけ、たぶん」

 イリスは唇を噛んでいた。止まることなく流れ出る涙を拭おうともせず、必死に、言葉を紡ぐ。

「わたしは、きっと、恋なんて、してない」

 しゃくりあげるのを堪えるように、静かにそういいきったイリスを、抱きしめるわけにはいかなかった。

 それは恐らく彼女を混乱させるだけだろうと、ウェルナーの理性が告げていた。

 なにより、理由がなかった。

 彼女を抱きしめる理由が、いまウェルナーの手元に、なにもない。

「アレックスを、殴って出てきた」

 だから淡々と、いうべきことを、いうだけだった。

「俺はこの仕事を放ることにした。だが、おまえを手放そうとは思わない。イリス、おまえが、望もうが、望むまいが」

 傅くように、イリスの元でもう一度、頭を垂れる。

「俺が決めたことだ。おまえの隣で、おまえを守る」

 贖罪ではない。

 義務めいたものでもなければ、なにかを望んでいるわけでもない。

 あえていうならばそれらのすべてだったが、同時に、そのどれにも当てはまらなかった。ただ、紛れもなく己の意志だと、伝えたかった。しかしそれを説明するには、ウェルナー自身、あらゆるものが不足していた。

 それでもいいかと、ウェルナーは問うことができない。

 問うたところで、イリスがきっと答えられないだろうということも、ウェルナーは知っていた。 

「……そう、ですか」

 思いのどれほどが伝わったのだろう。

 イリスはほとんど表情を動かさずに、それでも小さく、返事をよこす。

「わかりました」

 少なくとも拒絶ではないその答えを、ウェルナーはそのままの質量で、受け取った。





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