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第一話『英雄祭の向こう岸』

 父の名に拍手が起きるたび、対岸の声が聞こえなくなった。


 ミラは測量帳から顔を上げた。

 橋の向こうで、人が腕を振っている。祭りに手を振り返しているのだと思った。こちらの河岸には旗が並び、石段の上では、次の祝辞を告げる声が響いていた。


 十一年前、この橋を壊して敵軍を食い止めた、と式辞は今日も父を称えていた。

 ガレス・アーデン。

 今日は、自分が何をしたかも、少しは父に聞いてほしかった。


 河川局の見習いとして初めて任された、旧橋へ続く道の測量。わずかな区間だが、帳面の担当欄にはミラの名前だけがある。

 今朝、父に「式が済んだら見せてみろ」と言われた。そのあと線を引き直したページは、消した跡で少し毛羽立っていた。


 対岸から、また声が飛んだ。


「動くな、トマ!」


 ミラは帳面を閉じ、三脚に据えた望遠鏡の向きを変えた。


 橋の中央は途切れている。残った両岸の石積みの間を、川が流れていた。

 東側の石積みには、古い作業足場が川へ張り出している。立入止めの柵より先、その外端に少年がいた。


 腕を振っているのではなかった。

 手すりの柱を掴み直していた。


 足元の板が一枚、なくなっている。


「向こうに、人が!」


 すぐ後ろの係員を呼び、ミラは足場を指した。

 係員は眉を寄せ、川へ身を乗り出した。


「子どもか?」

「はい。声が聞こえないんです。太鼓を止めてもらえますか」


 係員が石段を駆け上がった。

 ミラは測量帳を置こうとして、置く場所を探すのをやめた。足元の草へ落とし、再び望遠鏡を覗く。


 少年は柱を抱えるようにしてしゃがんでいた。肩から下がる灰色の袋が、足場の外側で揺れている。

 そのすぐ上に、男がいた。

 袖を肘までまくり、石積みの縁から少年へ呼びかけている。後ろの二人に何かを指示すると、一人が走った。


 男の手は、まだ少年に届かない。


「そこにいていい! 立つな!」


 太鼓が止んだ。

 川の音が、急に近くなった。残ったざわめきの中で、対岸の声が言葉になった。


 少年は頷いたように見えた。それから、腰を岸のほうへ引こうとして、また柱にしがみついた。

 怖くて動けないのだと、ミラは思った。

 けれど、もう一度同じ動きをしたとき、袋の帯がぴんと張った。


 息を止め、筒の角度をわずかに変える。

 帯は少年の肩から脇へ回り、柱の外側に引っ掛かっていた。折れた金具に布が噛み込んでいる。岸から見ると、柱の裏だ。


「袋の帯が掛かっています!」


 男が顔を上げた。


「どこだ!」

「右の柱の——」

「誰から見て!」


 ミラは一度、望遠鏡から目を離した。

 自分の右。男の右。少年の向き。


「少年の左肩です! その後ろの柱、川に向いた側!」


 筒に目を戻すと、男が身体をずらすところだった。だが、上からでは見えないらしい。


「袋が掛かってるのか!」

「帯です。腰を引くと、張ります!」


 男は少年へ何かを言った。

 その言葉までは聞こえなかったが、少年が動くのをやめた。袋の揺れだけが残る。


 先ほど走った一人が、道具を持って戻った。二人がかりで、男の身体に着けた帯と縄を確かめる。ミラには手元の一部しか見えない。

 男は彼らに合図し、石積みの陰へ身体を下げた。


 早く、と言いそうになった。

 川から上がってくる風に、少年の髪がなびいていた。柱を握る指が白い。こんなところで待てと言われても、自分なら待てるだろうか。


 男の腕が、少年の背へ伸びた。


「その下です。あと少し——」

「待て。まだ抱えてない!」


 ミラは口を閉じた。

 こちらには見えている。けれど、こちらからは届かない。

 男の足元も、少年の背中も、同じようには見えていなかった。


 彼の肩が石積みの角に隠れた。少年は唇を動かしている。

 男が頷き、少しして、片腕を少年の身体へ回した。


 西岸にも人が集まり始めていた。誰かが、どうなった、と尋ねる。戻ってきた係員が、ミラの周囲から人を下げてくれた。


「いま、手が届いたところです」


 説明する声が思ったより細くなった。

 係員は何も聞き返さず、川の向こうを見た。


 男の空いた手が柱の外へ回る。

 指が、帯を探している。


「そのまま下! ——そこです!」


 袋が一度、大きく揺れた。

 柱に掛かった帯が少し緩んだ。だが、少年の肩と脇には、まだ帯が回っていた。

 男が少年を岸へ寄せかけると、灰色の布が再び張った。


「まだ掛かってます!」


 動きが止まった。

 男は少年を抱いたまま、上の二人へ短く呼びかけた。縄を持つ二人が姿勢を変える。彼がもう一度、柱へ手を回した。


 ミラは口を開けたまま待った。


 金具から帯が外れた。


「外れました!」


 男が少年を抱き寄せ、帯から片腕を抜かせた。

 灰色の袋が、足場の下へ落ちていく。


 今度は、少年も動いた。

 男の首へ両腕が伸びる。岸の上から別の手が出て、その腕を掴んだ。

 男と少年が石積みの向こうへ消えた。


 ミラは望遠鏡から目を離し、首を伸ばした。


 見えない。


 筒に目を戻すと、小さな頭が柵の上へ出た。

 大人に両側を支えられた少年が、一歩、足を進める。途中で膝が折れ、慌てて座らされた。

 泣いているのか、怒っているのか、口が大きく開いた。


 生きている。


 ミラは三脚を掴んだ。膝から力が抜け、今度は自分が座り込みそうだった。

 係員が、助かったぞ、と後ろへ知らせる。

 誰かの長いため息が聞こえた。


     *


 手が震え始めたのは、それからだった。


 望遠鏡を外そうとして留め具を二度つまみ損ね、ミラはいったん作業を諦めた。

 草の上の帳面を拾う。表紙は濡れていて、さっきまで気にしていたページの角に泥が付いていた。

 袖で拭くと、かえって広がった。


「河川局へは、こっちから人をやる」


 係員に言われて頷いた。何か返事をしたつもりだったが、声がかすれて出なかった。

 肩に掛けていた水筒の口を開ける。喉がひりついた。


 据えたままの望遠鏡を、もう一度覗いた。

 対岸で、少年が毛布を掛けられていた。

 助けた男は、まだそばにいた。腰をかがめ、少年の顔を覗き込んでいる。少年が何か言うと、男は首を振り、近くの大人に引き継いだ。

 それから柵のところへ戻ってきた。


「聞こえるか!」


 ミラは頷いてから、これでは伝わらないかもしれないと思い、手を上げた。


「聞こえます!」

「手当させてる。あいつ、よく喋る。大丈夫そうだ!」


 胸につかえていた息が、ようやく出た。


「よかった!」


 それ以上の言葉が、すぐには浮かばなかった。


 男が額を腕で拭った。


「助かった。こっちからは見えなかった!」

「柱の裏でしたから!」

「よく見つけたな!」

「望遠鏡があったので!」


 男の肩が揺れた。


「じゃあ、そいつにも礼を言っといてくれ!」


 ミラは三脚の筒を見て、それから笑った。

 笑った拍子に、喉が痛んだ。


 係員は石段の上へ、少年が助かったことを伝えに行った。残りの式辞を短くして再開する、と会場から声がした。人垣がゆっくりほどけ、立ち止まっていた人々が戻っていく。

 ミラは帳面を開き、濡れていないページを探した。


 柱の外側。欠けた板。少年が掴んでいた場所。

 忘れないうちに、見えた範囲を線にする。


 男は、まだ柵のそばにいた。


「あとで、そっちへ行ってもいいですか!」


 声を張ると、彼がこちらを向いた。


「事故の記録を、確かめたいんです!」


 自分が何を見たのかは書ける。けれど、少年がなぜそこへ来たのか、男たちが岸で何をしたのかは分からない。

 こちらの帳面だけでは、半分しかない。


「下の渡しで来い! 修繕所で待ってる!」


 男は川下を指した。


「ユアン・フェルドだ。名前を言えば分かる!」


 ミラは、線を引いたばかりの図の脇にその名前を書いた。

 ユアン・フェルド。

 書き終える前に、対岸から問いが返る。


「あんたは!」


「ミラ!」


 声が少しかすれた。

 咳払いをして、もう一度、はっきりと言った。


「ミラ・アーデンです!」


 川下を指していたユアンの手が止まった。


 聞こえなかったのだと思った。

 もう一度名乗ろうと息を吸ったところで、彼が口に手を添えた。


「ガレス・アーデンの?」


「娘です!」


 ミラは笑みを残したまま、返事を待った。

 さっきまで、こちらが呼ぶたびに返事が来ていた。柱の裏を伝えれば手を動かし、望遠鏡の話をすれば笑ってくれた。


 ユアンは手を下ろした。

 少年のほうを一度見て、またこちらへ顔を向けた。


 東から、あの橋で被害を受けたという訴えが来ていることは、ミラも聞いていた。

 それでも、ほんの今まで、この人とは話せていた。


 ミラは帳面を胸に抱え直した。

 修繕所へ行ってもいいのか。それだけを、もう一度確かめたかった。


 口を開く前に、背後で祝辞を読み上げる声が戻ってきた。


 ——我らが英雄、ガレス・アーデン。


 拍手が広がった。

 ユアンが柵から離れる。


 ミラは手を上げかけた。

 彼は少年のそばへ戻り、腰をかがめた。もう、こちらを見ていなかった。


 下ろした手で帳面を開くと、図の脇に、書いたばかりの名前があった。

 ユアン・フェルド。

 声に出せないまま、ミラはその文字を見ていた。


 父を称える拍手が、なかなか鳴りやまなかった。

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