第19話:【月夜に抱かれ、風はなお暖かく】
「さて……。ドランくんが遊んでいる間に、お片付けを始めようか」
戦闘の熱が引いた丘の上。聡介は腰を下ろして休む間もなく、散らばったビニールシートや除菌シートのゴミを拾い集め始めた。
すぐ側の平らな岩の上では、ドランが「赤い竜のぬいぐるみ」を膝に乗せ、そのふわふわとした感触を確かめるように、おそるおそる指先で突っついている。
お片付けに参加することも忘れ、初めて触れる柔らかい宝物に夢中なその姿を、聡介は苦笑しながら見守っていた。
少し離れた場所では、ヴォルカが空中に指先で魔法陣を描き、独り言を漏らしながら何事かの検証にふけっている。
その光景を、ただ一人、冬の夜のような冷たさを纏って見つめていた者がいた。
移動中、押し黙ることで辛うじて理性を維持していたイグニシアの内に、再び感情の火が灯る。
目の前で、愛おしい忘れ形見であるドランが、よりによって両親の命を奪った仇の成れの果てを大切そうに撫でている。その残酷なまでの無垢さが、彼女の心の導火線に再び火をつけたのだ。
彼女はドランに背を向け、荷物をまとめる聡介に声を潜めて詰め寄った。
「……ソウスケ。やはり、私は納得できん。あれは……我が里の、転じてドランの両親を無残に奪った怪物なのだ。姿が変わったからといって、なぜあのように慈しむことができる。……よりによって、あの二人の結晶であるドランに、あれを抱かせるなど……! 族長である父上が知れば、決して許しはせぬだろう!」
声を押し殺しながらも、剥き出しの憎悪と悲しみが混ざり合った峻烈な言葉。聡介がその痛みを真正面から受け止め、口を開こうとしたその時だった。
ピィ~~♪
お散歩バッグのすぐ横、ガーゼケットのおくるみの中から、澄んだ鳴き声が響いた。
驚く三人の前で、あの瀕死だったひな鳥が、艶やかな赤い羽を輝かせて元気よく飛び出したのだ。
「ぴ、ぴぴっ!」
ひな鳥は聡介の肩に飛び乗り、親しげに頬を擦り寄せる。
「わぁ!かわいい!先生のエプロンの“ひよこ”さんそっくり!」
その様子に気づいたドランは聡介の元に走り寄り、興味津々な様子でひな鳥を眺め始める。
「……な、何ということだ!? あの致命傷が、跡形もなく完治している……!?」
ヴォルカは呆然とした後、目を剥いて絶叫した。その丁寧な口調は、あまりの衝撃に激しく乱れている。
「ありえん……! あの布、まさか失われた治癒の聖遺物の類なのですか!? いや、それとも……ソウスケ殿、あなたは一体何を!?」
「いえ、ただのガーゼですよ。予備もまだありますし」
聡介はいつもの穏やかな調子でそう返すと、肩に止まったひな鳥を優しく撫でた。元気いっぱいに羽ばたくひな鳥のあまりの愛らしさに、イグニシアは糾弾の勢いを削がれ、毒気を抜かれたように立ち尽くすしかなかった。
「シアさん、この話は夜にゆっくり話しませんか。ルカさんの知恵も借りたいんです」
呆然とするイグニシアを宥めるようにそう告げると、聡介は再び、手際よく片付けを再開した。
やがて、一行は里へと戻り、数時間が経過した…。昼間の激動が嘘のような、静かな月の夜が里を包み込んでいた。
ヴォルカの塔の一室。
ランプの灯りに照らされた三人の影が、重々しく揺れている。
「……昼間の件、私なりに過去の記録と照合し、一つの推論を導き出したんですが、聞いていただけますか?」
ヴォルカが、自身の額を指先で叩きながら、熱を帯びた、しかしどこか自嘲気味なトーンで切り出す。
「情けない話です。私は、奴の巨大な躯体と暴力的な魔力に目を奪われ、その内側にある本質を見誤っていた。……あれは、成体などではなかったんです」
イグニシアの眉がぴくりと動く。ヴォルカは手元の羊皮紙に、黒い鎖の文様を描き殴った。
「一般的には浸透していませんが、竜という種族は本来、精神の成熟に合わせてその躯体を大きくするものです。だから我々は、あの巨大な姿を見て、当然『成熟した成体』だと思い込んだ…。だが事実は逆だったのです。何者かの呪縛により、幼い魂の成長を強制的に凍結され、代わりに制御不能な感情だけを増幅させられていた…。」
ヴォルカの声に、冷徹な分析と、隠しきれない悔恨が混じる。
「幼く、未分化な不安や恐怖は、魔法体系において最も純粋で爆発的な燃料となります。何者かはそれを利用したのでしょう。歪な感情の増幅が魔力の暴走を招き、その奔流に引きずられるように、肉体だけが成体サイズまで膨れ上がっていた……。あれは成長した姿ではなく、ただ、内側から膨れ上がっていただけなんです」
「……では、あの鱗の隙間から漏れていた熱気は……」
聡介の問いに、ヴォルカが重く頷く。
「はい。おそらく、成長の伴わない肉体が、限界以上の負荷をかけられ、寿命を薪にして燃え盛っていた…。断魔の悲鳴とでもいいましょうか……我々は、巨大な絶望の正体が、ただの『泣きじゃくり』であることを見抜けなかったんです。ソウスケ殿だけが、その魂が放つ制御不能な悲鳴を、正しく聞き取ることができていたんです」
沈めるような沈黙が部屋を支配した。その事実に、イグニシアの正義が音を立てて崩れていく。
仇だと信じていた存在が、実は自分たちと同じように、何者かに人生を狂わされた被害者であった。その事実に耐えきれなくなった彼女は、逃げるように部屋を飛び出していった。
塔の屋上。冷たい月明かりの下、イグニシアは一人、夜空を見上げていた。吹き抜ける夜風は鋭く、彼女の凍てついた心をさらに追い詰めるように冷たく感じられた。
「……シアさん」
聡介が声をかけ、隣に並ぶ。
イグニシアは彼が来たことに気づきながらも、ただじっと一点を見つめたまま、言葉を紡ぐことができずにいた。
聡介もまた、無理に言葉を重ねることはしなかった。ただ、彼女が話し出すのを待つように、同じ夜空を静かに見上げている。
やがて、再び夜風が二人の間を通り過ぎた。イグニシアの唇が、震えながら、ぽつりぽつりと重い沈黙を切り裂いた。
「……仇だと、呪うべき獣だと信じることで、私は立っていたのだ…。あの方たちを……私が祝福した二人の未来を……理不尽に奪った獣にいつか引導を渡す…。その日の為に、私は己の力を鍛えてきたというのに…」
その声は、今にも折れてしまいそうなほどに脆い。
「……あれが、抗う術も知らぬ『子』であったというなら……私は、今日まで何を憎んで生きてきたのだ。私のこの行き場のない憤りは、どこへ捨てればいい……!」
聡介は、隣に立つ彼女がどれほど長い間、自分を律して「強い武人」を演じてきたかは、その震える肩を見ればわかった。
「……許さなくていいんですよ、シアさん…。憎んでしまったことも、壊したいと思ったことも、それはシアさんが二人を大切に思っていた証拠なんですから…」
聡介は、泣き疲れた子の背中を撫でる時のように、そっと彼女の背中に手を置いた。
「あなたは、今日まで本当によく頑張りました。一人で、全部背負って戦ってきた。……それは、誰にも否定できない、あなただけの尊い誠実さです」
その温かな掌が触れた瞬間。
イグニシアの瞳から、堪えていた大粒の涙が溢れ出した。
「う……あ、ぁ……っ!」
押し殺した慟哭が、夜の静寂に溶けていく。
聡介は何も言わず、ただ彼女が泣き止むまで、その背中をゆっくりと擦り続けた。
屋上を吹き抜ける風が、いつの間にか、彼女の強張った心を優しく解くような、不思議な暖かさを運んでいた。




