第57話 見えない手入れ
人が増えたからといって、整える手も増えるわけではなかった。
むしろ逆だった。
朝の市場裏に立つ顔は、昨日とも少し違う。残る者もいれば、消える者もいる。前借りに流れた者の代わりに、また別の半端者が様子を見に来る。ガルドが前に立ち、エルンが帳面を開き、ミラが依頼人と仕事を繋ぎ、ドグが物を見て、リノが戸口の脇から人を見ている。その形だけは、もう外から見ても分かるようになっていた。
だが、分かるようになったからといって、それだけで回るわけではない。
午前のうちに、細かいずれが三つ起きた。
一つは、新しく来た若いの同士の睨み合いだった。重い荷を運ぶ順で肩がぶつかり、どちらが先だったかで声が荒くなる。もう一つは、昨日からいる中年が、支払いの順を早い遅いと言い出したこと。最後の一つは、痩せた女が、仕事の途中で急に裏手へ引っ込み、誰もどこへ行ったか分からなくなったことだった。
どれも大きくはない。
だが、ひとつひとつを放っておくと、流れの端に棘が残る。
「増えたな」
ガルドが面倒そうに吐き捨てる。
「仕事じゃなくて、面倒が」
「人が増えればそうなります」
エルンは帳面を見たまま答える。
「最初から分かっていたことです」
「分かってても腹立つんだよ」
ミラは依頼人と笑って話していたが、その目だけは小屋の前を見ていた。誰と誰が口を利いていないか。どこで視線が止まるか。表向きは何もない顔をしていても、揉める前の気配は残る。
カイルは荷車の脇に立ち、その気配の流れを見ていた。
前みたいに、ひとつの声で全部を止められる段階ではない。ガルドが前に出れば、その場の乱れは止まる。けれど、止まったあとに残る小さな歪みまでは消えない。遅いと苛立った若いのは、次に同じ相手と組めばまた嫌な顔をする。支払いに文句を言った中年は、そのままにすれば後ろで妙なことを吹き込む。途中で消えた痩せた女も、放っておけば次は本当に戻らないかもしれない。
小さすぎて、誰も本気で相手にしない。
だが、そういうものほど、後で利く。
「……行ってきます」
誰にともなく言って、カイルは荷車の陰を離れた。
最初に向かったのは、揉めかけた若いの二人のところだった。今は別々の荷を持たせてある。片方へだけ、短く言う。
「次、乾物屋の荷は重いです。あれを持てる方に回ってもらえると助かります」
言われた若いのは、一瞬だけ気を良くした顔をした。役を与えられたと思ったのだろう。もう片方には、少しあとで別の言い方をする。
「さっきの方、力は強いですけど雑なので。置き場を見てもらった方が助かります」
どちらにも、相手を立てながら少しずつ離す。
勝たせるのではない。正面からぶつからない置き方をするだけだ。
次に、中年のところへ行く。
「支払い、順が遅かったですか」
中年は面倒そうに鼻を鳴らした。
「見てりゃ分かるだろ」
「次から先に呼ぶようエルンに言っておきます。ただ、今日は袋の数がずれていたので」
そこで一拍置いて、
「先に終わっていたように見えても、帳面上は後ろになることがあるそうです」
中年は文句を言いたい顔をしたが、帳面と言われると少し勢いが鈍る。理屈に納得したのではない。文句の向け先が曖昧になっただけだ。
最後に、痩せた女を探す。裏手の壁際、板の陰に座り込んでいた。逃げる気というより、人の多さに押し出された顔だった。
「戻れそうですか」
声をかけると、女はびくりと肩を揺らした。
「……怒鳴られるかと思った」
「今は誰も怒鳴ってません」
「さっき、見られたから」
それだけで止まるのか、と言いかけて、カイルはやめた。止まる理由は、その人間にしか分からない。
代わりに縄の束を一本、手前へ置いた。
「これだけ裏へ」
女は束を見て、少し迷い、それから頷いた。
戻る頃には、小屋の前の流れは少しだけましになっていた。ガルドが前で止め、エルンが並べ、ミラが外の顔色を見ている。その隙間を埋めるように、カイルは立つ位置と声の向きだけを少しずつ変えていく。
目立つことはない。
指示しているようにも見えない。
ただ、何となく次の組み合わせが変わり、妙にぶつかりやすい者同士が離れ、離れそうな者だけが手元に残る。
昼過ぎ、ミラが小さく笑った。
「またやってるねえ」
「何をです」
「手入れ」
カイルは答えず、荷の縄を見たふりをした。
その横で、エルンが帳面を閉じる。
「午前より静かです」
「だろ」
ガルドが言う。
「俺が止めたからだ」
「半分はそうです」
エルンは嫌そうな顔で認めた。
「残り半分は、止めたあとが崩れていないからです」
カイルは何も言わなかった。
全部を支配するわけではない。
そんなことをしなくても、回る形に近づける方がいい。
噛み合わせの悪い歯車をひとつずつ削り、ぶつからない角度に置き直す。今やっているのは、その程度のことだ。
けれど、その程度のことをやる人間がいなければ、人数だけ増えた仕事場はすぐに軋む。
夕方、小屋の前には今日も人が残っていた。
壁際で明日の口を待つ者。銀貨を握って黙って帰る者。まだ様子を見ているだけの者。
ガルドが前に立つ顔なら、エルンは形を組む頭だった。
ミラは外を繋ぎ、ドグは物を支え、リノは危うさを拾う。
そしてカイルは、その全部の隙間を見ていた。
誰にも気づかれないくらいの手入れを重ねながら、この場所が崩れない形を、少しずつ整えていた。
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