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第1話 誰にも見られない男


 カイルは、そこにいた。


 だが、誰もそれを認識していなかった。


「おい、荷はまだか!」


 怒声が飛ぶ。振り返った商人の視線は、カイルの肩の少し上を通り過ぎ、後ろの別の男に向けられていた。


「すぐに運びます!」


 返事をしたのはカイルではない。彼の隣にいた、声の大きい男だ。カイルは何も言わない。ただ静かに、木箱を持ち上げる。


 重さは知っている。持ち方も知っている。どのタイミングで動けば、邪魔にならないかも知っている。


 だから彼は、何も言わずに動く。


 視線を合わせない。声を張らない。存在を主張しない。


 それが、カイルの生き方だった。


 市場は騒がしい。人の声、怒号、笑い声、取引の駆け引き。すべてが混ざり合い、空気は常に揺れている。


 その中でカイルは、観察する。


 誰が苛立っているか。誰が焦っているか。誰が嘘をついているか。


 ほんのわずかな違いを見逃さない。


 眉の動き。声の高さ。足の向き。視線の泳ぎ。


 すべてが、情報だった。


 そして――その情報は、回避のために使われる。


「おい、お前」


 不意に呼ばれる。


 カイルは顔を上げない。呼ばれた瞬間、相手の視線の向きと声の強さで、自分に向けられているかどうかを判断する。


 違う。


 だから反応しない。


「聞いてんのか!」


 怒声が強まる。


 だが、次の瞬間。


「あ、いや……そっちじゃねぇ」


 男は言葉を濁し、別の方向を指さした。


 ほんの一瞬。


 カイルは、その男の注意を“ずらした”。


 視線の端に、わずかな違和感を置く。気づかれない程度に、意識を逸らす。


 それだけでいい。


 男は自分で判断を変える。


 怒りの矛先は、別の誰かへと向かう。


 カイルは、何もしていない。


 少なくとも、そう見える。


 箱を運び終え、次の荷を取りに戻る途中、乱暴な足音が近づいてくる。


 大柄な男が、肩をぶつける勢いで通り過ぎる。


 避けなければ、転ぶ。


 だがカイルは、ぶつかる前に一歩だけ位置をずらした。


 男は舌打ちをしながら通り過ぎる。


 視線は合わない。


 存在を認識されていないからだ。


 カイルは息を吐く。


 危機は去った。


 それだけだ。


 ――目立たないこと。


 ――怒らせないこと。


 ――流れに逆らわないこと。


 それが、生き残るための全てだった。


 彼は幼い頃から、それを徹底してきた。


 怒りは突然やってくる。


 理由などない。


 ただ、そこにいたから。


 ただ、目についたから。


 それだけで、殴られる。


 だから、察する。


 怒りが生まれる前に、その芽を摘む。


 言葉を選び、態度を選び、存在を薄くする。


 そして気づいた。


 人は、ほんの少しの違和感で、選択を変える。


 ほんの少しだけ、意識をずらす。


 それだけで、結果は変わる。


 カイルはそれを、使っていた。


 使っている、という自覚は曖昧だった。


 ただ、生きるために必要だったから。


 それだけだ。


「……次は、これを運べばいい、か」


 誰にも聞こえないような声で呟く。


 答える者はいない。


 だが問題はない。


 彼は常に、自分で判断する。


 間違えないために。


 怒られないために。


 生き延びるために。


 市場の奥で、揉め事が起きていた。


 怒鳴り声。押し合い。周囲がざわつく。


 関わらない方がいい。


 そう判断する。


 だが、視線だけは向ける。


 何が起きているのか、把握するために。


 そこにいたのは、大柄な男だった。


 怒りを隠さず、周囲を威圧している。


 視線が鋭い。声が低い。動きが荒い。


 危険だ、とカイルは即座に判断する。


 近づかない。


 関わらない。


 だが同時に、思う。


 ――あれは、長く持たない。


 怒りは、周囲を敵に回す。


 衝突は、いずれ排除される。


 それは、何度も見てきた。


 だからカイルは、ただ観察する。


 関わらず、距離を保ち、流れの中に紛れる。


 それでいい。


 それが正しい。


 強者は、常に見られている。


 目立つからだ。


 そして、狙われる。


 だが弱者は違う。


 誰にも見られない。


 だからこそ、自由だ。


 誰にも気づかれず、流れの中で生きることができる。


 カイルは、その位置にいる。


 見えない場所。


 触れられない場所。


 評価もされない場所。


 だが――


 その場所からなら、すべてが見える。


 すべてが、調整できる。


 ほんの少しだけ。


 ほんのわずかに。


 誰にも気づかれない範囲で。


 彼は今日も、群衆の中に紛れている。


 誰にも知られず、誰にも疑われず、ただ一人。


 世界を、ほんの少しだけ、ずらしながら。

ここまで読んでいただきありがとうございます!


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