一つの夜明け前
背中にいつも視線を感じている。誰もいないはずの部屋、一人きりの夜更け、その視線を感じるたびに思わず振り返りたい衝動に駆られた。その視線はいつも寝るころになると現れる。「現れる」という表現ができてしまうほど、はっきりした視線を感じる。そうして私が疲れ切って眠るまで、ずっと見ている。その視線の主が人なのか、はたまた幽霊の類なのか、それは分からなかった。分かっているのは、ただ、見られているということだけだった。私は恐ろしかった。
夕方から音量を絞ってかけっぱなしにしてあるラジオが何かをしゃべっている。楽しそうな声だった。番組を提供するというのは、そういうことかもしれなかった。私はどちらかというと、番組の中身には興味がない。少し電波が届きにくいこの部屋で、時折混じるノイズの音を聞いている。ノイズの音を聞くと思い出すのだ。ずっと前にかけられた声を。声の主は視線の主と同様に分からない。誰もいないはずの部屋、一人きりの夜更け、遠慮がちな調子で、冷えるよ、とだけ言われた。寒くはなかったはずだった。それでも、その日以来、肩には小さな毛布を掛けるようにしている。そうすることで、私の恐れが声の主に届くとでも思ったのかもしれなかった。もちろん、私はあの声の主が視線の主と同じであることを信じている。
月を見るのは毎晩の習慣だった。特に深い意味があるわけではない。やめられない理由があるわけでもない。強いて言っても惰性でしかなかった。だが、月を見始めたら振り返らないことには意味があった。誰もいないはずの部屋、一人きりの夜更け、それを確たる孤独にするための決まり事だった。誰が見ていようと、どんな声をかけられようと、夜は私だけのものだった。それを、忘れたくはなかった。視線や声を背中で受け止めても、私は一人であるはずだった。振り返れば、誰もいないことが分かってしまう。だからラジオがかかっている。何かがいなければ一人にもなれない自分を忘れないために。
月は綺麗な弧を描いていた。鸚鵡のくちばしに似ていた。もうほとんど日の出前で、淡い空に溶けてしまいそうなほど、褪せた黄色い月だった。私は月を見ているようで、その実ほとんど月を意識していない。意識しているのは背後のことだ。背中に意識を向けるために、絶対に振り返らない。実は以前、一度だけ振り返ってしまったことがある。声をかけられた時だ。やはり誰もいなかった。少しほっとした。まだ振り返ってはいけない理由がある。それを確認したから、やはりそれは一回限りだった。私の恐れは、一人でいられなくなることだ。彼は死に、私は生き延びた。何もなければ、私が先に死ぬはずだった。そして彼に一人で待っていることを強いるはずだった。墓の前で百年待たせるはずだった。すべてがなくなった。代わりに、強いられてもいない一人に固執する羽目になった。望んで一人で居続けることは難しかった。寂しいからではない。一人であるという実感は、人には難しいようだった。記憶にも、感覚にも、他人が付きまとってくる。だから声を聴き、視線を受ける。そのために、振り返らない。もしかすると、振り返らない状況を作るために、月を見ているのかもしれなかった。
そのときふと、背中から視線が消えた。私は月を見たまま瞬いた。あれほど続いた視線が消えた。何が起こったのか理解できなかった。決まり事も考え事も忘れて振り返る。振り返った部屋にはやはり誰もいなかった。ただ、置いた記憶のない百合の花がぽつんと机の上に横たえられていた。たった一輪だけ、薄暗がりの部屋の中に青白く横たわっていた。
「……まだ、」
思わず唇から声がこぼれる。我ながら、みじめなほど震えた声だと思った。
「待っていてもいいでしょう……?」
百合の花はただ横たわっていた。駄目というときには黙り込む彼と同じように、じっと黙ってしまった。ノイズの消えてしまったラジオが穏やかな音楽を流していた。私は太陽を見ていない。太陽を見ないために月を見ていたのに、それなのに、もうとっくに、夜は明けていたのだと気づいた。
最終回です。一年間お付き合いいただきありがとうございました。




