百のサイレン
墨色の壁に切られた窓の中で、明るい月が昇っていた。窓際のベッドで女が空を見ている。半身を起こした背中はもうずいぶんと痩せ細ってしまった。その痩せた背中をこちらに向けたまま、女はいつまでも月を見ている。毛布に足を入れた夜更けから、少しも姿勢を変えなかった。
冷えるよ、と彼が遠慮がちにかけた声は女の耳には入らない。あるのは女の目の前の月だけだ。彼の声も、音量を絞ったテレビも、自身の体のことも、まるで頭の中から消えてしまっているようだった。女の背に流れた髪が、呼吸のたびにかすかに震える。そのあるかなしかの振動を彼は食い入るように見ていた。女が生きている証を少しでも見逃さないための行為だった。女はその振動以外に生きている証を示さなかった。ただ月を見ていた。
彼は床に座って月を見る女を見ていた。彼は女がいつ真珠貝の貝殻で墓を掘れと言い出すかびくびくしていた。百年待つのが恐ろしかった。百年を待つくらいならこの背中を見続けるほうがよっぽどましだった。テレビの中では特に特徴のないニュース番組が流れている。深夜とも早朝ともつかない時間帯のせいかどのニュースも垢抜けなく見えた。あるいはキャスターの女が垢抜けないせいかもしれなかった。音量を絞ってあるせいで少しも内容が頭に入ってこない。夜の間隙を埋めているばかりで、部屋の中が少し平坦になるような気さえした。彼は意識して女の背中を見つめた。髪はやはりかすかに震えていた。まだ死にそうにはないのかもしれなかった。
遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。女にはそれも聞こえていないようだった。窓はだんだんとくすんだ色を重ね始めていた。雲が綿埃のようだった。それだけ空の色が鮮やかだった。壁の墨色は薄くなってきている。彼は何時間もかけて目が慣れたかのような錯覚に陥った。あたりはまだ暗かった。
サイレンの音はだんだんと近づいてくる。これが女のために呼ばれたものだったらいいのにと彼は考えている。残念ながら彼は救急車を呼んでいない。また、女が月を見ていることを彼のほかには誰も知らなかった。真珠貝への恐れと、サイレンを女のために鳴らす願望とが矛盾したものであることを彼は知っている。女は月ばかりを見ていた。女が生きているうちは彼と女の目が合うことはない。しかし、太陽を何度も見送って百年を待つことも耐えられなかった。できれば、今すぐにベッドから降り、前のように彼を見て笑うことを願った。それが叶わぬ夢であることも知っている。女は死んだところで彼を目に映すことはない。彼は死んでから、自身以外の死んだ人間に会ったことがない。きっと女が死んだとして、女と彼とが出会うこともないのだろう。互いにひとりになるだけだ。だから彼は女の背中を見ていることしかできない。
交差点を曲がったのか、ふいにサイレンの音が大きくなった。女がふっと月を見るのをやめる。部屋の中を振り返り、壁を透かして救急車の存在を確かめているらしかった。壁の先を見ることはできても、やっぱり彼の存在を薄暗闇から透かすことはできないようだった。月の明るさに慣れた目では当然のことだった。
歪んで引き伸ばされた音が遠ざかっていく。テレビの音量とさして変わらなくなると、女はまた月を見始めた。彼はその背中に流れる髪の振動を確かめている。彼はそっと悲しくなる。女がこうやっていつまでも月を見るのはおかしいと感じている。彼は女に貝殻で墓を掘れとは頼んでいないし、百年待てるかと聞いた覚えもない。早く目を覚ませばいいのにと思わずにはいられない。
ずいぶんと薄い月になった。女が頑なに振り返ろうとしなかった壁の向こうに、おそらく朝日が昇ろうとしている。だらだらと続いていたニュース番組が切り替わる。いつの間にか、暗闇は淡く溶けている。女は今も月を見ている。ただ一言、まだ、とつぶやくのが聞こえた。
私自身も夜明けを願っているので、この一年の連載の中で見つけ出せたらな、と思っています。
一緒に頑張りましょう。




