第五十七話 真由ちゃんと佳奈
目の前に、自分の周囲に……暗い、深い、闇が広がっている。
一体どこに明かりがあるのか? 出口さえ見えない。
その暗闇の中……
ピンク色のノースリーブのワンピースを着た、minaの姿がぼうっと浮かび上がる。
minaは、楽しそうに笑っていた。
オレは、そんなminaの隣に近づき、自慢の黒髪をそっと優しくなでる。
柔らかい絹のような、minaの髪の感触が伝わる。
嬉しそうにオレの肩に顔を寄せる、mina。
でも、minaの表情は、徐々に真剣なものになっていって……
まるで何かを言いたそうに、オレの方を見ている。
オレはminaを抱きしめたいのだけれど……二人の距離は、何故か徐々に遠のいていって……
はっ!!
目を開けると、安っぽい蛍光灯に照らされた天井が見えた。
どこだろう? ここは?
糊の効いたシーツの、なめらかな感触。
固めののベッドのスプリング。
「あっ、痛っ……痛い!」
体を起こそうとすると全身に痛みが走る。
ふと気づくと、オレの方を心配そうに見つめる二人の女性の姿があった。
一人はポニーテールに髪を結って簡素な椅子に腰掛けていた。グレーのタートルネックのセーター越しに女性特有のふくよかな膨らみがよくわかる。
「良かった、佐伯さん、やっと目覚めた」
真由ちゃんがそう言って微かに笑った。
「カズ兄! もう、心配したんだからね!」
ショートカットの綺麗な髪を揺らし、立ったまま、オレを少し咎めるような表情……佳奈か。こちらは白いニットのセーター、相変わらずミニスカートにニーハイソックスがよく似合う。
「ああ……ここは……?」
「病院、雨宮さんが救急車を呼んでくれたんだって」
佳奈が早口でそう教えてくれた。
そうか……雨宮さんにヤキを入れられて、最後に道場の床に倒れて、そのまま、か。
「そう言えば、雨宮さんは?」
「昼過ぎまでは佳奈と一緒に居たんだけど、お仕事があったのと『佐伯に合わす顔がないから、代わりに謝っといてくれ』って言って、出て行ったよ」
佳奈が、そう教えてくれた。
病室の窓からは、暗い夜空と、その下にはビルと住宅から漏れる明かりが灯っていた。壁に据えられたデジタル時計を見ると、時刻は八時過ぎ。
丸一日、意識を失っていたということか。
雨宮さん、救急車でオレを運んでくれて、そのまま夜通し付き添ってくれたのか。とんでもない、合わす顔がないのは、こっちの方だ。
しかもこの部屋、個室だよな。
それも、雨宮さんの配慮か?
「佐伯さん、minaちゃんから聞きました。minaちゃんにヒドイ事を言って、振ったそうですね?」
真由ちゃんが少し表情を変えた。怒っているようだ。
「ああ……真由ちゃん、様子を見に行ってくれたの?」
「はい、佐伯さんがminaちゃんを振った一昨日は雨宮さんが。昨日の夜は私が、minaちゃんに付き添っていました。minaちゃん、ずっと泣いてましたよ」
「そうか、minaに付き添ってくれてありがとう」
オレは力なく、そう言った。
「どうして? 一言、私たちに相談してくれなかったんですか?」
「社長に決断を迫られていた。相談しても何が変わるわけでもない……minaがそれで歌を取り戻すのなら……オレは……」
「佐伯さん、歯を食いしばってください」
椅子に座っていた真由ちゃんが立ち上がって、似つかわしくないセリフを吐いた。そしてオレに近づいてくる。
キョトンとする、オレ。
バチン!!
真由ちゃんの平手打ちが、オレの頬に綺麗に決まった。
痛い! 身体中の痛みによる熱に加えて、オレの頬も、じんじんと熱を帯びて傷んでいた。
最近、女の人に叩かれてばっかりだ。
まあ、オレが悪いんだろうけどな。
オレを叩いた真由ちゃんは、いつもの可愛らしい顔とは違い、何かを我慢するような、悲しげな表情だった。
そのあと佳奈がオレの方に近づいてきた。
佳奈からも、やられるだろうか? オレは無意識のうちに体を縮こませた。
オレの緊張とは裏腹に、佳奈はオレの後ろに回って、オレを後ろから、優しく抱き締めてくれた。
佳奈のいつも付けている甘ったるい香水の香りが、間近で匂う。
佳奈の細い腕と、背中越しの柔らかい温もりを感じる。
何故だろう? ささくれ立っていた気持ちが、少しだけ、落ち着いた。
「ちょ、ちょっと佳奈ちゃん! あなた、ドサクサにまぎれて佐伯さんを奪おうっていうつもり!?」
「違うよ……真由ちゃん」
佳奈はゆっくりとそう言った。
佳奈の優しく澄んだ声が、近くで感じられた。
「違うって……何が?」
「カズ兄は、mina姉のために精一杯頑張ったの……だから、もう責めるのはやめようよ」
「佳奈ちゃん……そ、そうね。叩いたりしてごめんなさい。佐伯さん」
真由ちゃんは、決まりの悪そうな表情を浮かべた。
「いや、いいんだ。悪いのは、オレだから」
ぽつりと、オレは声を放った。
「佐伯さん、これから、どうするんですか?」
「どうするって……何もしないよ。minaはシンガポールに行く。オレはこのまま銀行で働き続ける。二人が出会う前に戻るだけだ」
「そんな! 何とかならないんですか?」
「出来るくらいなら、とっくにしているよ」
「佐伯さんなら、minaちゃんの側にいて、minaちゃんの歌声を取り戻す……そんなことができるはずです」
真剣な表情の、真由ちゃん。
「うん、そうだよ、カズ兄。佳奈の知ってるカズ兄は、困難なことでもやってのける、ヒーローだもん」
同様にうなずく、佳奈。
「無茶言うなよ。オレなんかただのサラリーマンだ。出来ることなんて、たかがしれてる……」
オレの吐いた言葉が、沈黙を生み、蛍光灯の頼りない明かりだけに照らされた病室に、いたたまれない空気が漂った。
「まあ、でも、まずは休養ですね。お医者さんのお話だと、全身の打撲と睡眠不足からくる疲労の影響で、二、三日は入院だそうです。佐伯さん、まずはしっかり休んでください」
場の空気を変えるように、真由ちゃんが優しく言った。
「mina姉のことは、雨宮さんや真由ちゃん、真理ちゃんと佳奈でなんとか見ておくから」
佳奈もそう言ってくれた。
二人は、着替えや入院に必要なものを説明してくれたあと、連れ立ってオレの病室を後にした。
なんだか、色々と世話になりっぱなしだ。
とりあえずは……休養、か。
オレの仕事の方は大丈夫だろうか?
雨宮さんや田中が、上手くやってくれているといいが。
草橋支店長、あの人にも迷惑を掛けているだろうな……
再びベッドに体を沈めながら、オレはそんなことを考えていた。




