第五十六話 雨宮さん
目の前に、自分の周囲に……
暗い、深い、闇が広がっている。
一体どこに明かりがあるのか?
出口さえ見えない。
その暗闇の中……
白いふわふわのダウンジャケットを着た、minaの姿がぼうっと浮かび上がる。
minaは目を真っ赤に腫らして泣いていた。
涙が幾度となく、頬を伝っていた。
オレはminaを抱き締めたくて……
なんとか彼女に触れようとして、
手を伸ばすが……
その手は決してminaに届くことはなく……
mina!!
ガバっと布団を跳ね除けて、飛び起きた。
オレのマンションのベッドの上。
夢……か……
二月だというのに、寝汗をびっしょりと書いていた。
寝間着代わりのジャージが、ベトベトと肌に張り付いて気持ち悪い。
窓の外からは、ぼんやりとした、なんだか頼りないような、薄明かりが差していた。
もう、行く時間か?
オレは、よろよろとベッドから出て、銀行へ出勤する支度をした。
社長に取引を持ち掛けられてからというもの、ほとんど寝ることが出来なかった。色々な思考が頭の中に浮かんでは消えて……明け方になってようやく、浅い眠りにつく。
それでも、仕事は待ってくれない。
ふらふらとした足取りで、いつも通り、支店の自分の席につくと、雨宮さんがミニスカートの裾を揺らし、ハイヒールの音をコツコツと鳴らせながらオレの元にやってきた。
「佐伯!」
物凄い形相でオレを睨んでいる。
その辺のヤンキーなら漏らすレベルだ。
でも、もはや痛覚がマヒしているオレの心は、余計にささくれ立っただけだった。
「仕事が終わったら、道場に来い!」
「は、はい……」
「お前の腐った性根を、叩き直してやる!」
有無を言わせぬ、迫力。
雨宮さんはオレを念押しするようにもうひと睨みすると、自分の席へと戻っていった。
もう辺りは真っ暗な、夜の八時過ぎ。
ようやく仕事を終えたオレは、電車を乗り継いで雨宮さんの通う道場にやってきた。
立て付けの悪い入り口の引き戸を開けると、ピンと張り詰めた空気が伝わってきた。
板張りの、空手の試合スペースがやっと一面取れるくらいの、小さめの道場。
普段は子ども達や、夜の部は大人達の掛け声で活気に満ちているが、今日は稽古の日ではないのか、しーんと静まりかえっていた。
先に着いていた雨宮さんは道着に着替えて、正座をして静かに黙想していた。
茶色の髪を後ろでくくって、凛とした佇まいを見せていた。
雨宮さんは、オレが到着したのがわかったのか、目を見開いた。
「着たか、佐伯! まずは着替えろ!」
彼女はそう言い放った。
もはや返事をする気力もなくて、オレはこくりとうなずいた。
そのまま更衣室に入り、置きっぱなしになっていた自分の道着に着替える。
ハヤトとの決闘の後も、ちょくちょく道場には来ていたが、minaの騒動があってからずいぶんと足が遠のいてしまったな。
そんなことを考えながら、着替えをすませて、軽く体をほぐしておく。
そして雨宮さんの待つ道場へと向かった。
裸足になった足に板張りの床が、ひやりと、冷たい。
道着一枚では、二月の夜は流石に体に堪える。
「よく逃げずに来たな。まあ逃げたら……地の果てまででも追いかけるけどな」
雨宮さんは真面目な顔でそう言った。
やはりminaとの一件か……
性根を叩き直すと言っていた。
説教か? あるいはキツイ一発か?
「準備運動はしているな? 乱取りだ、来い!」
雨宮さんの流派では準備運動はしない。
いきなり街で不良に絡まれて
「ちょっと準備運動するから待ってくれ」
なんて言っても意味がない。
常有戦場。準備運動なんてそんなもんは稽古の前にしておけ。そういう教えだ。
しかもいきなり乱取り……
実践形式の稽古だが……無茶苦茶だ。
オレは睡眠不足と疲労からくるふらつきを押さえながら、なんとか構えを取った。
「来ないのか!? 佐伯?」
「雨宮さん……一体、何を……」
「それならこっちから行くぞ!」
雨宮さんは身を躍らせて、素早い踏み込みと共に、強烈な正拳突きを繰り出してきた。
それをオレの右腕でなんとか受け流し、身を逸したと思ったら、彼女は素早く体勢を立て直し、回し蹴りを放った。
避け切れず、みぞおちにモロに食らって、オレは膝をついた。
い、痛い……手加減無しか。
彼女は、そのまま容赦なく左右から突きを浴びせた。もちろん受けの体勢を取ったが、元々地力の差があるオレは何発か食らって、そのまま道場の床へ転がった。
床に転がされた痛みと、雨宮さんから受けた攻撃の痛み。
全身が、焼けるように痛い……
「痛いか……? minaはもっと痛いんだよ!」
雨宮さんは冷静にそう言った。
やっぱり、minaの話か……
minaは、何とか元気にやっているだろうか?
「佐伯! 何故minaを捨てた?」
キッと、こちらを睨みつける、雨宮さん。
後ろに一本にくくった綺麗な茶色の髪が、揺れる。
「そ、それは、社長が……minaをシンガポールで療養させるって。でもminaはオレに依存しすぎているから、別れるのが条件だって……」
雨宮さんは目を見開いた。
「そうか……だからといってお前がminaを捨てていいという理由にはならない! お前の性根は、お前の覚悟は、そんなもんだったのか!?」
「オレだって本当は……minaと別れたくなんかありません。でも……それで、minaの歌声が戻るなら……minaが幸せになるなら……オレは……何だって……」
声が震えてきて、オレの目からは涙が溢れてきた。
男のクセに、最近は泣いてばっかりだ。
「バカヤロウ! 誰がそんなことをしろと言った! minaには、お前が必要なんだ、それが分からないのか!」
「そんな……じゃあ、どうしろと!?」
「お前ならminaと一緒に居られて、minaを歌声を取り戻す! 両方ができる筈だ!」
「そんなこと……オレにはできませんよ」
「立て、佐伯!」
雨宮さんがオレを叱咤する。
オレはまだ、床に這いつくばっていた。
もうイヤだ……帰りたい。
痛い……オレはこんな所で何をやっているんだ……
雨宮さんに背を向けて逃げ出したくなった。
「佐伯! もう一度言う! 今ならまだ間に合う、minaの所へ行って謝って来い!」
「オレなりに考えて出した答えです! そう簡単に、はいそうですかとは言えません!」
オレの顔は、涙と汗でぐちゃぐちゃになっていた。
この人と幾ら話をしても無駄だ……
オレの気持ちなんてわかってもらえない……
もう帰ろう……
ふと、見上げると、雨宮さんの顔に目が行った。
彼女の頬から、涙が伝っている。
自分の結婚式でも泣いていなかったあの気丈な雨宮さんが……
泣いている……
オレとminaのために、涙を流している。
「佐伯……うっ……まだわからないのか……分かるまで、何発でも行くぞ……」
雨宮さんは自分の涙を道着の袖で拭った。
再び、拳を構えて、オレに向かって襲いかかってくる。
オレに空手を教えてくれた。
愛する人を守る大切さを、その重みを、教えてくれた師匠。
例え分かり合えなくても、
この人の拳だけは、避けちゃダメだ……
「うぉぉぉぉーー!!」
オレは無意識のうちに声を出し、雨宮さんに向かって突進した。
雨宮さんの拳が、しなやかな肉食獣のように、オレに襲いかかる。
それを避わし、オレも師匠の意を汲むような一撃を繰り出す!
と思ったのだが……
オレの体は、自分の思いに追いつけず。
雨宮さんの上段突きがオレの顎に見事に決まり、
オレはそのまま吹っ飛んだ。
ドォーーーーン!!
狭い道場に、オレの体が床に倒れ込む音が響き渡った。
頭を強く打ったのだろうか?
目の前が真っ暗になった。
そして……そのままオレの意識は遠のいた。




