表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
60/73

第五十五話 サヨナラ、mina


 バレンタインデーの夜。


 世間では、片想いの女子が想いを告げる。

 あるいは、恋人達が甘い愛を語らう。


 そんな日なのに、オレの心は、今日の冬の寒空のように、冷たく凍りついていた。

 食事も、ほとんど喉を通らない。

 なんとか気力だけで、銀行の業務を乗り切った。


 minaにどう言って別れを切り出すべきか。

 別れよう、でも仲のいいお友達でいよう。

 そんな綺麗事は、真っ直ぐで芯の強い彼女には通じないだろう。


 例えば、歌姫を今まで利用したかのような、下劣な奴を演じきる。

 minaの心を一度砕くような覚悟がないと……


 別れを切り出したら、もうそれっきり、オレたちが会うことはないだろう。

 その強い想いがないと……

 minaの……幸せのためなら、オレは……


 大きな川沿いの、公園。

 対岸には夜のオフィス街が広がっている。

 水上バスだろうか、遠くに明かりの漏れた船が通り過ぎるのが見える。

 そしてさらにその向こうには、大きな橋が掛かっていて、車のライトが絶えず行き交っている。恋人たちを乗せた車もあるのだろうか。


 空は曇り空なのか、今日も月も星も見えなかった。

 一年前は、綺麗な半月が、オレたちを優しく照らしていたのに。


 オレが待ち合わせの場所に着くと、minaはすでに待っていて、川沿いの夜景をぼーっと眺めていた。

 街灯の薄明かりに照らされて、minaの表情が映し出された。

 自慢の長い黒髪が、川から吹き上げる風になびいている。

 minaは薄っすらと化粧をしていて。淡いピンク色の口紅が、よく似合っていた。


 川沿いの手すりにもたれ掛かりながら、オレたちは話をした。


「カズくん。今日もお仕事お疲れ様? 大丈夫? 最近忙しいみたいだけど、無理してない?」


 minaはオレを心配するように、こちらを覗き込んできた。

 minaは正月にオレの実家に行った時に着ていた、フード付きの白いダウンジャケット。下は、紺色のニット地のスカート。黒いタイツに淡い茶色のブーツを合わせていた。

 寒そうに、体を少し縮こませている。


「うん、ありがとう、mina。オレは大丈夫だよ」


「うーん。カズくん。今日は顔色が悪い気がするんだけどな……」

 鋭いな、minaは。


「それよりさ、mina……」

 話を切り出すしか、ない。


「うん、カズくん、話って何?」

 minaが表情を変え、声を弾ませてオレをじっと見つめた。

 その瞳は、公園の薄暗い照明を受けてキラキラと輝いていた。

 大切な歌姫を、オレは……地獄に突き落とさなければならないのか……


 きりっと、オレは、くちびるを、血が出そうになるまで、噛んだ。

 そして、取引先に取引停止を告げるような、冷静な表情を装って、こう告げた。


「もう、別れよう。オレたち」


「えっ!? 」

 minaは一瞬オレが何を言ったか、うまく飲み込めないようだった。

 少し引きつった笑いを見せながら、彼女は次にこう言った。


「じょ、冗談だよね……? カズくん」

「冗談でこんなこと言わないよ。もう別れよう。好きじゃなくなったんだ……minaの事……」

 表情を変えずに、そう告げた。


「う、嘘でしょ……!? カズくん……」

 minaの表情が、真剣なものに変わった。


「好きじゃないまま、このまま一緒にいても、お互いのためにならない」


「な、何言ってるの? お正月にカズくんの実家に行って、両親に紹介までしてもらったじゃない?」


「あれは、minaが連れて行って欲しいって言ったから、そうしたまでだ。オレは……別に……」


「ひどい……ひどいよ……カズくん……」

 minaの綺麗な瞳には、涙がにじみ始めていた。


「ごめんな、mina」

「私の事キラいになったの? 言ってよ? 私に悪い所があったら直すから……」


「minaに悪い所なんてないよ。ただ……オレの気持ちが冷めただけだ」


「そんな……数日前もあんなに愛し合ったじゃない? あの時も『愛してる』って言ってくれた……それも、嘘だったの……?」


 mina……簡単には別れてはくれないか……

 これ以上辛い言葉をオレに言わせないでくれ……


 でも、minaのためなら、オレはとことん下劣な奴を演じ切る。

 オレの事はキライになってくれて構わない……

 だから、minaは必ず幸せになってくれよ。



「世間の憧れの歌姫が、ベッドの上であんなことやこんなことまでしてくれるんだ。キープしておこうと思っても、別に悪い事じゃないだろ……」


 バチン!!


 minaが、オレの頬を強烈に叩いた。

 寒空にさらされて、叩かれた箇所がじんじんと痛む。


「バカっ! カズくんのバカ! カズくんは……そんな人じゃないと思ってたのに……」

 minaは……オレの方を見つめながら、目を真っ赤に腫らしている。

 自慢の黒髪が、寒風にさらさらと悲しげになびいている。 


「オレは、元々卑怯で、下劣な奴なんだよ。minaの前だから、爽やかないいヤツを演じていただけさ」

 涙が出そうになるのを必死でこらえて、オレは自分のくちびるをさらに強く噛んだ。

 ざらりとした鉄の味が、口の中に広がる。


「何で……何でなの……カズくん……信じてたのに……」

 minaの頬にはこの世で一番悲しい涙が、溢れるように流れていた。


「このまま、気付かずに結婚するよりは……いいだろ」


「そ、そんな……ヒドすぎるよ! カズくん……」


「利用したみたいで悪かったな、mina」


「な、何言ってるのよ……」


「minaにはもっと、優しくてふさわしい人が現れるよ」

 オレはそう言って、薄い笑みを無理矢理作った。


「ひっく、ひっ……こ、こんなにつらい思いをするのなら、私達……出会わなければよかった!!」

 minaは肩を震わせて、そう言い放った。


 そして、彼女はその場にしゃがみ込んで、泣き崩れてしまった。


 これ以上、打ちひしがれる彼女を見るのは耐えられない。

 オレは、くるりと踵を返して、彼女に背を向けた。


 二、三歩歩いて振り返ると、minaと、目が合った。


「mina……」

「何よ……!?」

 彼女は、オレを睨みつけていた。


「ごはんだけは、ちゃんと食べるようにしろよ……」

 最後くらい、ささやかな本音を漏らしても、いいよな。

 オレはそう告げて再び彼女に背を向けた。


「今さら優しくなんか、しないでよ!!」

 minaのなじるような叫びを、背中越しに聞いた。


 少しずつ、歩みを進める。

 後ろから聞こえるminaが泣き叫ぶ声が、徐々に遠ざかる。


 涙が、とめどなく、溢れてくる。

 でも、絶対泣いているのをminaに気付かれてはいけない。

 オレは、残りの理性を全て振り絞って、必死に声を殺した。

 オレの涙は、自分のコートの襟元まで伝っていた。


 サヨナラ、mina。

 もう二度と、会うことはないだろう。


 シンガポールに行っても、元気でな。

 

 minaがいつか歌を取り戻したら、必ずCDを買うからな。

 例えminaが海外にいても、絶対取り寄せるから。


 minaのケアは、信頼できる仲間に託そう。

 彼女達なら、きっとなんとかしてくれる。

 minaは、オレが居なくても大丈夫だ。


 minaから見えない位置まで移動すると、オレは、震える手で、携帯電話を取り出した。

 社長に、自分の義務を遂行したことを知らせるために。


 minaに叩かれた頬は、寒風の中ますます熱を帯びて、叫び出したくなるような痛みをオレに訴えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ