第五十五話 サヨナラ、mina
バレンタインデーの夜。
世間では、片想いの女子が想いを告げる。
あるいは、恋人達が甘い愛を語らう。
そんな日なのに、オレの心は、今日の冬の寒空のように、冷たく凍りついていた。
食事も、ほとんど喉を通らない。
なんとか気力だけで、銀行の業務を乗り切った。
minaにどう言って別れを切り出すべきか。
別れよう、でも仲のいいお友達でいよう。
そんな綺麗事は、真っ直ぐで芯の強い彼女には通じないだろう。
例えば、歌姫を今まで利用したかのような、下劣な奴を演じきる。
minaの心を一度砕くような覚悟がないと……
別れを切り出したら、もうそれっきり、オレたちが会うことはないだろう。
その強い想いがないと……
minaの……幸せのためなら、オレは……
大きな川沿いの、公園。
対岸には夜のオフィス街が広がっている。
水上バスだろうか、遠くに明かりの漏れた船が通り過ぎるのが見える。
そしてさらにその向こうには、大きな橋が掛かっていて、車のライトが絶えず行き交っている。恋人たちを乗せた車もあるのだろうか。
空は曇り空なのか、今日も月も星も見えなかった。
一年前は、綺麗な半月が、オレたちを優しく照らしていたのに。
オレが待ち合わせの場所に着くと、minaはすでに待っていて、川沿いの夜景をぼーっと眺めていた。
街灯の薄明かりに照らされて、minaの表情が映し出された。
自慢の長い黒髪が、川から吹き上げる風になびいている。
minaは薄っすらと化粧をしていて。淡いピンク色の口紅が、よく似合っていた。
川沿いの手すりにもたれ掛かりながら、オレたちは話をした。
「カズくん。今日もお仕事お疲れ様? 大丈夫? 最近忙しいみたいだけど、無理してない?」
minaはオレを心配するように、こちらを覗き込んできた。
minaは正月にオレの実家に行った時に着ていた、フード付きの白いダウンジャケット。下は、紺色のニット地のスカート。黒いタイツに淡い茶色のブーツを合わせていた。
寒そうに、体を少し縮こませている。
「うん、ありがとう、mina。オレは大丈夫だよ」
「うーん。カズくん。今日は顔色が悪い気がするんだけどな……」
鋭いな、minaは。
「それよりさ、mina……」
話を切り出すしか、ない。
「うん、カズくん、話って何?」
minaが表情を変え、声を弾ませてオレをじっと見つめた。
その瞳は、公園の薄暗い照明を受けてキラキラと輝いていた。
大切な歌姫を、オレは……地獄に突き落とさなければならないのか……
きりっと、オレは、くちびるを、血が出そうになるまで、噛んだ。
そして、取引先に取引停止を告げるような、冷静な表情を装って、こう告げた。
「もう、別れよう。オレたち」
「えっ!? 」
minaは一瞬オレが何を言ったか、うまく飲み込めないようだった。
少し引きつった笑いを見せながら、彼女は次にこう言った。
「じょ、冗談だよね……? カズくん」
「冗談でこんなこと言わないよ。もう別れよう。好きじゃなくなったんだ……minaの事……」
表情を変えずに、そう告げた。
「う、嘘でしょ……!? カズくん……」
minaの表情が、真剣なものに変わった。
「好きじゃないまま、このまま一緒にいても、お互いのためにならない」
「な、何言ってるの? お正月にカズくんの実家に行って、両親に紹介までしてもらったじゃない?」
「あれは、minaが連れて行って欲しいって言ったから、そうしたまでだ。オレは……別に……」
「ひどい……ひどいよ……カズくん……」
minaの綺麗な瞳には、涙がにじみ始めていた。
「ごめんな、mina」
「私の事キラいになったの? 言ってよ? 私に悪い所があったら直すから……」
「minaに悪い所なんてないよ。ただ……オレの気持ちが冷めただけだ」
「そんな……数日前もあんなに愛し合ったじゃない? あの時も『愛してる』って言ってくれた……それも、嘘だったの……?」
mina……簡単には別れてはくれないか……
これ以上辛い言葉をオレに言わせないでくれ……
でも、minaのためなら、オレはとことん下劣な奴を演じ切る。
オレの事はキライになってくれて構わない……
だから、minaは必ず幸せになってくれよ。
「世間の憧れの歌姫が、ベッドの上であんなことやこんなことまでしてくれるんだ。キープしておこうと思っても、別に悪い事じゃないだろ……」
バチン!!
minaが、オレの頬を強烈に叩いた。
寒空にさらされて、叩かれた箇所がじんじんと痛む。
「バカっ! カズくんのバカ! カズくんは……そんな人じゃないと思ってたのに……」
minaは……オレの方を見つめながら、目を真っ赤に腫らしている。
自慢の黒髪が、寒風にさらさらと悲しげになびいている。
「オレは、元々卑怯で、下劣な奴なんだよ。minaの前だから、爽やかないいヤツを演じていただけさ」
涙が出そうになるのを必死でこらえて、オレは自分のくちびるをさらに強く噛んだ。
ざらりとした鉄の味が、口の中に広がる。
「何で……何でなの……カズくん……信じてたのに……」
minaの頬にはこの世で一番悲しい涙が、溢れるように流れていた。
「このまま、気付かずに結婚するよりは……いいだろ」
「そ、そんな……ヒドすぎるよ! カズくん……」
「利用したみたいで悪かったな、mina」
「な、何言ってるのよ……」
「minaにはもっと、優しくてふさわしい人が現れるよ」
オレはそう言って、薄い笑みを無理矢理作った。
「ひっく、ひっ……こ、こんなにつらい思いをするのなら、私達……出会わなければよかった!!」
minaは肩を震わせて、そう言い放った。
そして、彼女はその場にしゃがみ込んで、泣き崩れてしまった。
これ以上、打ちひしがれる彼女を見るのは耐えられない。
オレは、くるりと踵を返して、彼女に背を向けた。
二、三歩歩いて振り返ると、minaと、目が合った。
「mina……」
「何よ……!?」
彼女は、オレを睨みつけていた。
「ごはんだけは、ちゃんと食べるようにしろよ……」
最後くらい、ささやかな本音を漏らしても、いいよな。
オレはそう告げて再び彼女に背を向けた。
「今さら優しくなんか、しないでよ!!」
minaのなじるような叫びを、背中越しに聞いた。
少しずつ、歩みを進める。
後ろから聞こえるminaが泣き叫ぶ声が、徐々に遠ざかる。
涙が、とめどなく、溢れてくる。
でも、絶対泣いているのをminaに気付かれてはいけない。
オレは、残りの理性を全て振り絞って、必死に声を殺した。
オレの涙は、自分のコートの襟元まで伝っていた。
サヨナラ、mina。
もう二度と、会うことはないだろう。
シンガポールに行っても、元気でな。
minaがいつか歌を取り戻したら、必ずCDを買うからな。
例えminaが海外にいても、絶対取り寄せるから。
minaのケアは、信頼できる仲間に託そう。
彼女達なら、きっとなんとかしてくれる。
minaは、オレが居なくても大丈夫だ。
minaから見えない位置まで移動すると、オレは、震える手で、携帯電話を取り出した。
社長に、自分の義務を遂行したことを知らせるために。
minaに叩かれた頬は、寒風の中ますます熱を帯びて、叫び出したくなるような痛みをオレに訴えていた。




