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終了点  作者: 岩と氷
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6.終了点

「あ、梓か?」

「『梓か』じゃないでしょ? あたしもう、あなたの奥さんじゃないのよ」

「ああスマン。じゃあその……あずさ……さん。その……少し話したい事があるんです……けど。お時間をとっていただけ……ないであろうか?」

「ああもういい、梓でいいわよ気持ち悪い。それで何なの? 話って?」

「いやそれがその、会って話したい」

「借金とかならやめてね。シングルマザーにお金の余裕なんてないんだから」

「そうじゃない! だいたい俺がお前に借金した事なんてないだろう」

「あらそうだったかしら? 山でカメラぶつけて壊したとか何とか言って……」

「あんなの二十年近くも前の話じゃないか!」

「あら残念、女には二十年前も昨日も変わりませんことよ。お望みなら一生だって言ってあげるわ」

「わかった、わかったから。とにかく会ってくれ。いつがいい?」

「お昼休み後なら言ってくれれば少しは出られるけど」

「じゃあ今からはどうだ? 俺は五分で行ける」

「何よ、こっちに来てるの? ずいぶん急ね。やっぱり変な話じゃないでしょうね」

「違うって……頼むよぉ」


 山から帰ってから二日ほど寝込んでいた。登っている間はいいが、帰ると気が抜けるのかまとめて疲れが出るようになった。長年重い機材を背負ってきたせいか、周りの連中より節々の傷みが出るのが早いように感じる。そろそろ歳に見合った楽な山登りをするべきなのだろう、別れる少し前まで、体に注意するよう梓にきつく言われていた事を思い出した、無視してしまったが、本当は自分でもそのぐらいは分かっていた。性格が元から素直じゃない事もある、だが梓の前では歳より若い自分を崩したくなかった。


 梓、あの頃の俺は、俺がお前に見合うのかといつもどこかで考えていた。街で俺より十も若い男たちを見ると、あいつらのほうがお前にふさわしいのではないかと苛立つ事もあった。

 あの頃、俺は親父の最後をよく思い出した。俺は山にいて看取れなかったが、たとえ近くにいても看取るつもりはなかった。サラリーマンになる前は代々どこまで遡っても農家だったくせに、武士道がどうのと勇ましい事ばかり言って威張り散らす親父が子供の頃から大嫌いだった。そんな親父も最後はおふくろに何年も介護されていた、あれだけ立派な講釈を垂れておいて、自分のケツが拭けなくなっても、あいつは腹を切るでもなく目いっぱい生きやがった。葬式の時に見たおふくろの安らいだような顔は、今でも忘れられない。

 梓、俺はお前にあのおふくろみたいな顔をされるのが怖かったんだ。お前より先に老いて、お前に俺の世話をさせるのが怖くて仕方がなかった。だから老いを認めずに逃げ続けた。


 梓の実家の花屋から少しの所にある、小さな喫茶店に向かった。軒先のテント以外、大抵のものが濃い茶色でまとめられた古い純喫茶には、ランチタイムを過ぎるとしばらく客が来ない。結婚前はここで何度も梓を待った。


「ああ、いらっしゃい。ひさしぶり。来てるよ」


 扉の前に立つとマスターが先に扉を開けて出迎えてくれた。トレードマークの洒落た赤いベストは昔のままだが、本人の風貌は髪も髭も白くなって、四、五年前に来た時よりもはっきりと老人のそれに変わっていた。壁にはあの頃俺が贈った甲斐駒ヶ岳の写真が同じ位置に飾られている、マスターの故郷の山だ。


「どうする? ナポリタンはいるかい?」

「いいですね、コーヒーセットでお願いします」


 注文を済ませると、俺は梓の向かいに座った。梓はあの頃も待ち合わせた奥のボックス席に座っていた。


「で、何なの急に?」

「あのさ、今度、旅行に付き合ってくれないか?」

「え? いきなり呼び出したと思ったら、何それ。旅行ってどこよ?」

「それがその……パタゴニア」

「目白の?」

「それじゃ旅行じゃないだろ」

「えぇと、え? じゃあまさかハワイのとか? 格安航空券でお買い物ツアー? でも何で私が……あ、福引だ! 当たったんでしょ? で、ペアなのに誘う人がいない! あっははは、絶対そうだぁ、あなた運だけは凄くいいもの」

「あのさ、そうじゃなくて。その……本物のほう、南米の」


 梓は目と口を真ん丸にして俺の顔を見直した。元から丸っこい顔だちだから、丸の中に丸が三つ揃ってなんだかおかしい、吹き出しそうだ。夫婦だった頃も、俺が馬鹿な事を言い出すと、いつもこんな顔をした。もう四十なのに、そこは出会った頃と変わらず可愛らしい。


「あんな寒くて風ばっかり吹いてる場所に何しに行くのよ。まさかあなた、登るわけじゃないでしょうね?」

「やらないやらない、無理だよもう。何もしない、ただ行くだけだ、見るだけ」

「南極のご近所よ、飛行機代高いの知ってるでしょう? 何でなの?」

「必要なんだ、あいつに」

「あいつって……まさか女?」

「何で俺がそんなややこしい事するんだよ! 省吾だ、省吾」

「え、壬生さん?」


 省吾の名前を出したとたん梓は黙り込んだ。俺と奴の関係をよく知っている梓なら察してくれるかもしれない。俺は少し期待して言った。


「一週間もいられれば、あいつなら十分だろう」

「そう……。まあなんだかわかんないけど、そうね、行くだけならいいわよ。お金はあなたがなんとかするわけよね? ただお休みもとらないといけないし、あの子の事をお母さんに頼まないといけないから、予定は早めに教えてもらわないと困るけど」

「ああ、金の事は心配しないでいい、二人分ぐらいなんとかできるさ」

「でもあなたも変わらないわね、勝手な事ばっかりやって周りを巻き込んじゃう。それでこっちは後で後悔するのよ」

「人徳ってやつかな」

「馬鹿言わないで! 何が人徳よ。欠点の塊だわ、あなたは」 

「すまん、下手な冗談だった。悪いな、また無理言って」

「……なんか気味悪いわね。ねえ正直に言って、どこか体でも悪いの?」

「違うって。ただ、歳をとったとは思う」


 初めてだ、こんな事を言うのは。梓の前で俺はいつも若ぶって虚勢を張っていた。だが今は「お前は死ぬまでその虚勢を張り続けるつもりか?」と、あの山小屋で出会った連中に言われていたような気がする。「お前だって、時間はもうたいして残っていないんだぞ」と。


 俺はこれまで大勢の仲間や知り合いを見送ってきた、昨日まで一緒に笑っていた奴の命の火が突然消えてしまうのを何度も見てきた。だからそんな事は人一倍分かっていたつもりだったのに、街に帰るとまた虚勢を張る自分に戻っていた。

 だがもう認めるべきだ、俺は老いた。たとえ厳しい仕事を辞めたとしても、大切な人と一緒にいられる時間は、もうこれまでほど長くは残っていないかもしれない。


「まあそうね。あなたが妙に人に好かれたり、面倒見が良かったり、意外と優しかったりするところは、認めてあげてもいいわよ。私だって一度はうっかり一緒になったんだし。だから何か考えてるんでしょうけど……。あ、でも変な事は無しよ。あたしたち、もう夫婦じゃないんだから」


「お、おう……」


 それはちょっと、残念だ――。


「私、壬生さんのために行くんだからね」


 なにもそこまで念を押さなくてもいいじゃないか――。


「ああ、あいつのためだ。それは信じてもらっていい」


 マスターがやって来た。


「あれ? このサラダ」

「サービスだよ、久しぶりに来てくれたから」


 ゆっくりと丁寧に抽出されたコーヒーの香りは、省吾と行った数々の山を思い起こさせる。きっと梓も同じだろう。


 省吾の心残りが、奴の言う通りパタゴニアの壁なのか、それとももしかして、ひょっとしたら梓の事なのか。奴に言わせると「特別鈍い」らしい俺にはわからない。


 ただ俺は、省吾と梓と俺の三人で、奴が挑むはずだったパタゴニアの壁を見上げてみたい。俺にはそれが俺たちの青春の終了点のような気がしてならないのだ。

 そしてそのとき俺は、梓にあの山小屋での出来事を、話して聞かせようと思っている。


(了)

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