水無月 ―高二 拓人―
梅雨の晴れ間だった。
朝まで降っていた雨が上がり、昼休みが終わるころには、校庭の水たまりが白く光っていた。開け放した窓からは湿った土の匂いが入ってくるのに、風はほとんどない。教室には、四十人分の体温と、昼食のあとのけだるさが、そのまま溜まっていた。
五時間目は古文だった。
「夏は夜。月のころはさらなり。闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる……」
定年間近の先生が、教科書を片手に、抑揚のない声で読み上げていく。教室の半分は、すでに首が傾いていた。
拓人の席は、廊下側の一番後ろだった。
昨夜も、三時過ぎまでRPGをやっていた。ストーリーはとっくに止まっている。同じ森を歩き回って、出てきた敵を倒して、経験値の数字が増えていくのを眺めるだけ。それでよかった。コントローラーを握っている間は、何も考えなくて済んだ。
部活のことは、なるべく思い出さないようにしていた。
部活を辞めてから、夜が長くなった。机に向かうと、考えたくないことばかりが浮かんでくる。だからゲームの電源を入れる。気づけばカーテンの隙間が白んでいて、数時間だけ眠って、学校に行く。一年のころは学年で上から数えたほうが早かった中間テストの順位が、ずっと下まで落ちた。それも、どうでもよかった。
教室では、ちゃんと笑っていた。友達の冗談には、タイミングよく口の端を上げる。辞めたばかりのころは、何人かが「大丈夫か」と声をかけてくれた。今はもう、誰も心配していない。
拓人は、頬杖をついて、廊下の向こうの窓を見ていた。中庭の木の葉が、ときどき揺れる。
ふと、視界の端で何かが動いた。
二つ前の、一列左の席。遥の後頭部だった。ポニーテールが揺れて、横顔が半分だけこちらを向き、すぐに戻る。
最初は気のせいだと思った。バレー部の新キャプテンで、成績も良くて、いつもクラスの真ん中にいる人が、授業中、後ろの隅を見る理由があるはずがない。けれど、これで三度目だった。振り返って、目が合いそうになると、何事もなかったように黒板に向き直る。見てませんよ、という顔をして。
拓人の席の後ろには、壁があるだけだ。振り返る理由になりそうなものは、何もない。
ちょっとした、いたずらを思いついた。
次に振り返ったら、笑ってやろう。気づいてるよ、って。
先生の声が「秋は夕暮れ」に移る。遥の肩が、わずかに動いた。
振り返る。
目が合う。
拓人は笑ってみた。いつもの作り笑いのつもりだった。けれど頬は、思ったよりずっと素直に緩んでいた。
数瞬の後、遥の目が丸くなり、ガバッと前を向いた。勢いあまって机に突っ伏しかけ、肘が筆箱を払った。
ガシャン。
静かな教室に、派手な音が響いた。床にシャーペンと消しゴムが散らばる。
一瞬の間があって、誰かが吹き出した。
「遥、なにしてんの」
「寝ピク?」
あちこちから笑いが起きる。先生が朗読を止め、教壇の上から「大丈夫かね」とたずねた。遥は「すみませーん」と笑いながら椅子を引き、しゃがんで、散らばったペンを拾い集めはじめた。隣の席の女子に「いい夢見れた?」と冷やかされて、「うるさい」と返している。いつもの、クラスの真ん中にいる遥だった。
ただ、その耳だけが、後ろからでもわかるほど真っ赤だった。
拓人は、笑っていた。
いつも誰かに頼られているあの遥が、あんな派手な音を立てて、あんなに慌てている。それがおかしくて、肩が震えた。声を殺そうとすると、余計に止まらなくなった。
笑いながら、気づいた。
いま、自分は本当に笑っている。
こんなふうに笑うのは、四月以来だった。たった二か月なのに、ずいぶん久しぶりな気がした。胸の奥に溜まっていた重たいものが、少しだけ軽くなった。
先生が咳払いをして、朗読が再開された。教室のざわめきが、ゆっくりと引いていく。窓の外では、雲の切れ間から差した日が、校庭の水たまりをまた光らせていた。
拓人は机に腕を組み、その上に顔をのせた。笑ったあとの余韻が、まだ口元に残っている。単調な声が、遠くなっていく。
最後に見えたのは、前を向いた遥の、まだ赤い耳だった。




