第2話 誕生日の家
曇りガラスの向こうを、影が横切った。皿を捧げ持つような、男の影だった。それから、家の奥へ遠ざかっていく足音。
三枝はまだ端末の画面を見ていた。数字が並んでいるらしいことしか、久世の位置からは分からない。
久世は返事を待たず、ドアノブへ手をかけた。
三枝が顔を上げる。
ノブは普通に回った。ラッチが外れ、内側でドアチェーンの金具が小さく鳴る。鍵は掛かっていなかった。
玄関は狭かった。三和土に、久世と三枝の濡れた靴から水滴が落ちる。上がり框の先、廊下の壁には、色紙の輪をつないだ飾りが渡してあった。
開いた扉から入った空気で、久世の近くの輪だけがわずかに揺れた。奥の飾りは動かない。
居間の方から母親の声がした。
「こっち、こっち」
皿がテーブルへ触れる硬い音。少女の吸気。
そこで音の連なりが途切れ、間を置かずに、玄関側から足音が始まった。
振り返ると、上着を着た父親がそこにいた。両手で皿を支え、火の灯った数字の「9」を載せたケーキを運んでくる。
扉が開いた音はしなかった。
父親の目は久世を捉えない。進路も変えなかった。皿の縁が久世の胸元をかすめる高さで近づいてくる。
退いたのは久世の方だった。
狭い廊下の壁へ背をつけて通す。すれ違った父親の濡れた袖が、久世の腕の近くを通った。
三枝は玄関と居間の間の壁際に残った。久世は父親の顔を追わず、皿の上のケーキと、テーブルにつく少女へ目を戻した。
居間は片付いていた。テーブルの向こうで、少女が膝を揃えて座っている。
母親がスマートフォンを構え、「こっち、こっち」と少女の位置を直させる。それから立つ場所を少し変え、皿を置く父親の姿まで画面の端へ入れようとした。
父親はケーキを置き、少女に笑いかける。
少女は、ろうそくを見なかった。
まず父親を見る。次に母親を見る。息を吸う前に、少女の指が父親の上着の袖へ伸びかけた。
袖に届く手前で止まり、膝の上へ戻る。
それから、ようやく炎へ向き直った。
久世はテーブルへ近づいた。少女が息を吸い、その唇がすぼまるより先に、ろうそくの芯を親指と人差し指で挟んだ。
じ、と小さな音がして、火は消えた。
指先に熱が残り、細い煙が一筋、天井へ上っていく。久世は指を開かないまま、煙と皿の上のろうそくを見ていた。
背後で足音が始まった。
テーブルの上から、皿ごとケーキが消えている。
玄関側から、上着の父親が歩いてきた。両手の皿の上で、数字の「9」に火が灯っている。
久世は親指と人差し指を擦った。
指の腹にあった煤は消えていた。芯を挟んだ熱だけが、まだ皮膚に残っている。
皿が置かれる。父親が笑いかけ、母親がスマートフォンを構える。少女は父を見て、母を見る。
袖へ伸びかけた指が、また膝へ戻った。
久世の手が、もう一度ろうそくへ伸びた。芯の手前で指の向きが変わり、数字の「9」の根元をつまむ。
まっすぐ上へ抜いた。
指に白いクリームが少し付く。ケーキの中央には、小さな穴が残った。久世の手の中で、抜かれた「9」は燃え続けている。
少女は両親を見たあと、ケーキの穴へ目を落とした。
そこから、久世の手にある炎へ目が移る。
そのまま、久世の顔を見た。
息を吸った口の形のまま、少女は止まっている。眉がわずかに寄った。
久世は手の中の「9」を少し横へずらした。
少女の瞳が、炎ごとその動きを追う。
「そのまま」
三枝はすぐには端末を見なかった。少女の目をもう一度確かめ、それから画面へ時刻を打った。
久世の指から「9」の感触が消えた。
炎の熱も、指に付いていたクリームもない。玄関側から足音が始まり、父親の皿の上には、火の灯った「9」が戻っている。
久世の手は、ろうそくを動かした軌道の途中で止まっていた。
少女の目はその手を追わず、父親、母親、ろうそくへと戻っていく。
久世は置かれたばかりのケーキの皿へ手を伸ばした。
「待って」
三枝は玄関側から繰り返される足音へ顔を向けていた。
久世は一度だけ三枝を見る。手はすぐには下がらなかったが、やがて皿から離れた。
三枝は廊下を玄関へ戻り、久世も続いた。背後の居間では、母親の「こっち、こっち」がまた聞こえている。
父親がケーキを置く。上着の肩は、何度目かの今も湿っていた。
三和土には、母親のものらしいパンプスと、少女の小さなスニーカーが並んでいる。
男物の革靴は、そこから少し離れて置かれていた。
久世が革靴へ目を落とす間に、三枝は壁の鍵掛けを見ていた。
四つあるフックのうち、鍵が下がっているのは二つだけだった。
居間で、音の連なりが途切れた。
父親の足音は、また玄関の向こうから始まった。




