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東京は微笑んでいる  作者: 雨宮かなめ


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第1話 東京は微笑んでいる

 テレビの画面いっぱいに、ろうそくの火が映っていた。数字の「9」をかたどったろうそくが一本、白いクリームの上に立っている。炎の奥で、少女の口元がぼやけていた。


 父親がケーキを運んでくる。室内だというのに上着を着たままで、両手で皿を支え、慎重な足取りでテーブルへ近づいた。母親がスマートフォンを構え、「こっち、こっち」と位置を直す。少女はろうそくを見る前に、まず父親の顔を見た。それから母親の顔を見た。二人が自分に向かって笑っているのを確かめてから、小さく息を吸い込む。


 炎が細く傾いた。


 消える寸前で、映像は最初へ戻った。


 巻き戻しの音はしなかった。廊下の同じ位置から、父親の足音がもう一度始まっただけだった。「はい、お待たせ」の声の高さ。母親が「こっち、こっち」と言う間合い。皿がテーブルに触れる硬い音。少女の吸気。


 録画ではなかった。


 穏やかなピアノ曲が、家族の映像に重ねられていた。画面の下を字幕が流れていく。


【奇跡の十一か月――固定圏内、死亡確認ゼロ】


 三度目が始まった。父親の足音。母親が「こっち、こっち」と言いかけたところで、久世朔は手の中の紙コップを画面へ投げた。


 テレビは壊れなかった。紙コップは軽い音を立てて床へ落ち、転がって止まった。残っていた水だけが画面を伝い、少女の顔を、母親の顔を、父親の顔を横切って流れ落ちていく。画面の中で時間が巻き戻っても、表面の水は下へ流れ続けた。


 字幕が切り替わる。


【“東京を救った男”久世朔被告】


「何度言えば分かる。俺は、こいつらを救ってない」


 画面の中では、四度目の足音が始まっていた。


「全員が死ぬようにした」


 電子錠の外れる音がした。


 入ってきた女は、床に広がった水の端を踏み、そのまま机の前まで来た。書類を置きかけ、濡れていない側へ少しずらす。


 三枝環。固定区域特別調査官。事件の日から数えて、会うのはこれで四度目になる。


「知っています」


 三枝は書類から手を離した。一番上の紙に、固定圏への侵入実証を許可する印字が見えた。六時間限定、という文字もある。


「許可が出ました。六時間だけ、東京へ入ってもらいます」


 久世は書類を見なかった。


「最初は誰だ」


 三枝の目が、一瞬だけテレビへ動いた。画面の中では、また炎が傾いているところだった。


  *


 同意書は三枚あった。任務時間は六時間。行動は指定された区域内に限る。全行程は三枝の監督下に置かれ、任務終了と同時に再収容。侵入には久世本人の同行を要する――事務的な文言が、番号を振られて並んでいた。


 署名欄の少し上に、二つの項目が続いていた。


【任務目的:固定者の救出】


【対象者本人の意思確認:不能】


 久世のペンは、上の一行で止まった。


 ペン先が紙に触れたまま数秒動かず、やがてそのまま署名欄まで下りた。癖のない、事務的な字で名前を書く。


 三枝も監督官の欄に署名した。立ち会いの職員は一度ページをめくり直し、確認事項を読み上げる。


「監督官による個人的な捜索行為は禁止されています。予定経路からの離脱、固定者名簿を利用した私的照会、その他――」


 三枝はページの角を押さえたまま、顔を上げなかった。


 職員は規定を最後まで読み、久世の左手首へ監視具を嵌めた。袖口に引っかかったベルトを引き出し、位置を直す。


 表示窓には【保全対象】と出ていた。


 護送車の中で、久世と三枝は向かい合って座った。


 無線が鳴った。


『第三車、境界まで――』


 言葉の後半が、硬いノイズに潰れた。


 天井近くの時刻表示が一度消え、数秒遅れて戻った。三枝は目を上げなかった。


 外は雨だった。ワイパーが一定の周期で鳴り、橋の継ぎ目を越えるたび、車体の下から硬い音が上がった。監視具の縁が、揺れるたびに久世の手首へ当たった。


 窓の外はまだ、動いている側の世界だった。


  *


 荒川の手前、埼玉県側の河川敷に現場拠点が設けられていた。仮設照明の白い光、幌をかけた車両、雨合羽の職員たち。


 川の向こうに、東京があった。


 崩れた建物は一棟もなかった。煙も上がっていない。ビルの窓は雨に曇った空を返し、鉄塔の赤い灯は点いたまま瞬かなかった。


 十一か月前の雨の午前が、川の向こうに残っていた。


 橋を歩いた。中ほどまで来ると、雨音が薄くなった。さらに数歩進んで、久世は理由を見た。


 雨粒が、空中で止まっていた。


 無数の粒が照明の光を受けて、糸で吊られたように浮いている。橋の下では、川の音がある一線から先で途切れていた。東京側だけが、不自然に静かだった。


 職員の一人が久世の手首へ端末を向けた。数値を確認してから、無線へ告げる。


「原点、同期開始」


「あなたからです」


 三枝が言った。


「囚人を先に行かせるのか」


「あなたが先でなければ、誰も越えられません」


 久世は返さなかった。足を出した。


 靴の先が境界を越える。


 空中に止まっていた粒のひとつが、ほどけるように落ち、金属の欄干に当たった。小さいのに、やけにはっきり聞こえる音だった。


 靴の甲に、黒い染みがひとつできた。


 次の粒が額に当たった。前へ出した肩が濡れ、背中側では水滴が浮いたまま止まっている。久世は濡れた袖を一度見てから、顔を上げた。


 もう一歩進んだ。


 体ごと境界を越えると、周囲数メートルの範囲で雨音が戻った。歩けば、雨の降る範囲もそのまま東京側へ動く。


 久世の進む分だけ、止まっていた雨が順に落ちた。


 三枝は、止まった雨の側に残っていた。久世が歩き出すより先に、雨の縁へ片足を踏み入れる。


 前髪の先から水が滴り、コートの肩が色を変えた。三枝は久世の半歩後ろへついた。


 二人はそのまま、橋の残りを渡った。


  *


 街は、十一か月前の午前を続けていた。


 横断歩道の手前で、小さな男の子が父親の手を握り直していた。一度緩んで、また握る。父親が見下ろして短く何か言い、男の子が頷く。信号は変わらない。少しすると、また同じところから始まった。


 コンビニの中から声がした。


「いつも悪いねえ」


「こちらこそ」


 少し間があって、また同じ二つの声が聞こえた。


 公園の入口では、若い男女が立っていた。女の目元が赤い。男が何かを言い、女が、つないだ手を握り直す。その手が離れ、しばらくしてまた同じ位置で重なった。


 久世は、横断歩道の父子の進路へ回り込んだ。男の子を見下ろす父親の正面に立つ。


 父親の視線は、久世の顔まで届かなかった。上がりかけた目は久世の体の横を通り、そのまま隣の子どもへ戻っていく。


 手が緩む。握り直す。父親が見下ろす。男の子が頷く。


 三枝はもう歩き出していた。


 久世は次の反復が始まるまでそこに残り、それから後を追った。


  *


 住宅街の外れに、その家はあった。


 二階建ての一軒家。一階の窓から暖色の明かりが漏れている。カーテンは半分開いていて、テレビで何度も見た居間が、窓越しにそのまま見えた。


 父親がケーキを運んでくる。室内なのに上着を着たままで、襟元まできちんと整えている。


 テーブルの上、白いクリームに、数字の「9」のろうそくが一本立っていた。母親がスマートフォンを構え、少し腰を屈めて位置を直す。


 少女が息を吸う。


 炎が細く傾き、消える前に、廊下からまた父親の足音が始まった。


 二度目、少女の目はろうそくへ向かわなかった。


 まず父親を見る。次に母親を見る。二人が並んで、自分に向かって笑っている。それからケーキへ顔を戻した。


 三枝が手元の資料を開いた。世帯の情報が並ぶ紙の下段に、一行だけ太い文字があった。


【本人意思確認:不能】


 三枝は資料を閉じた。


「最初は、この家です」


 久世は、少女から目を離さずに答えた。


「……終わらせる」


 窓の向こうで、少女がまた父親を見た。母親を見た。息を吸う。


 数字の九の火が細く傾き、消える直前で元へ戻った。


 少女は、十一か月前から一本のろうそくも消せずにいた。

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