第二十二話
■九回表 二死一塁
打席には四番・速水瞬。
キャッチャーが静かにマウンドへ歩み寄る。
そして、比呂の耳元で短く告げた。
「……全部、フォークでいく」
比呂は一瞬だけ目を閉じ、ゆっくりと頷いた。
覚悟は、決まっていた。
セットポジション。
右肩の痛みを押し殺し、腕を振る。
初球——フォーク。
速水は、微動だにしない。
ただ、その球筋を見極めるように見送った。
ミットに収まる音が、やけに遠く響く。
「……こんなもんか」
ぽつりと呟かれたその一言に、
キャッチャーの背中を冷たい汗が伝った。
そして二球目。
同じ軌道、同じ腕の振り。
フォークが、速水へ向かって落ちていく——
次の瞬間。
バンッ!!!
炸裂音。
白球は弾き飛ばされ、夜空へ突き刺さる。
球場が揺れた。
大歓声が一斉に巻き起こる。
比呂は反射的に打球を追う。
——だが。
打球は三塁ポール際、ほんのわずかに外れていく。
ファウル。
歓声が、どよめきへと変わった。
キャッチャーは息を吐き、ボールを拾う。
そして比呂へと投げ返した。
「……あと一球だ」
その声は、かすかに震えていた。
比呂が受け取ろうとしたボールは——
ぽろり、と手からこぼれ落ちた。
土の上に転がる白球。
比呂は俯いたまま、動かない。
肩が、小さく震える。
やがて——
「……ごめん……」
消え入りそうな声が、マウンドに落ちた。
その時だった。
「……また、下を向いている」
耳元で、聞き慣れた声がした。
比呂ははっと顔を上げ、周囲を見渡す。
だが——どこにも、愛の姿はない。
「打たれたら、許さないんだから!」
(……相変わらず、容赦ないな)
「知ってると思ってた」
ふっと、比呂は笑った。
(もう肩が痛くて……ボールも握れないんだ)
「また、投げない言い訳を探してるんだね」
その言葉に、胸の奥がわずかに軋む。
(それに……僕は、君がいないとだめなんだ……)
ほんの一瞬の沈黙。
そして——
「私はいるよ」
やさしく、けれどはっきりとした声。
「……君の中に」
比呂は目を閉じ、小さく息を吐いた。
(……君は、本当に自己中だな)
唇の端が、わずかに上がる。
(こんなボロボロの僕を……まだ突き動かすんだから)
ゆっくりと顔を上げる。
視線の先——速水。
その額に、冷たい汗がにじんでいた。
空気が、変わる。
ビリビリと肌を刺すような圧。
速水の口元が歪む。
そして——大きく笑った。
「……これだよ、これ」
歓喜を噛みしめるような声。
「甲子園でも、こんなのはねえぞ……!」
バットを構える。
それに呼応するように、速水からも同じ質の圧が放たれる。
二人の間に張り詰める、極限の緊張。
観客も、ベンチも、誰一人として声を発しない。
球場全体が、息を止めていた。
沈黙。
そして——
「大きく振りかぶって」
(大きく振りかぶって)
比呂と愛の声が、完全に重なる。
次の瞬間。
比呂の指が、ピッ、と乾いた音を鳴らした。
白球が、その指先から解き放たれる。
光の矢のように——一直線に、ミットへ。
速水が反応する。
これまでにない速度で、フルスイング。
——バンッ!!
炸裂音が、球場を貫いた。
一瞬の静寂。
時間が止まったかのような、わずかな空白。
そして——
ドォォォォッ!!!
爆発するような大歓声。
白球は、キャッチャーミットに収まっていた。
掲示板が、遅れてその事実を刻む。
——160キロ。
誰もが、その一球の意味を理解できずにいた。
■九回裏 海南高校の攻撃
スコアは6対5。
たった1点差だった。
「あと1点だ。絶対に逆転するぞ」
キャプテンの声が、ベンチに響く。
その言葉に、海南の空気が一気に引き締まった。
だが、相手ベンチでは別の空気が流れていた。
星華のピッチャーが速水に向かって笑う。
「先輩って、意外とダサいんですね。
あの場面で打てないなんて」
軽口だった。
けれど、その目は笑っていない。
速水は面倒くさそうに肩をすくめると、
「打たれないように気をつけろ」とだけ言って、サードへ向かった。
その背中には、妙な満足感が滲んでいる。
そして、
「俺が打たれるわけないじゃん」と吐き捨てるように呟き、
だるそうにマウンドへ立った。
一番、二番を連続三振。
スタンドに、ざわめきが走る。
「あと一人……」
そのコールが響いたとき、
見守っていた記者が、ぽつりと呟いた。
「今年もやっぱり星華だな」
すると、隣の記者が首を振る。
「いや、まだわからんぞ。なんせ海南には……消えた二人の天才がいるんだから」
「消えた二人の天才?」
問い返した記者に、男は意味ありげに笑った。
それ以上は、何も言わなかった。
星華のピッチャーは、気だるそうに腕を振る。
だが球は重い。
そして速い。
三番打者との勝負。
初球、153キロのストレート。
空振り。
二球目、150キロのストレート。
なんとかバットに当てるも、ファウル。
「雑魚のくせに、当てやがる」
相手ピッチャーが苛立ちを滲ませる。
そして三球目——
相手が、突然バントの構えを見せた。
「スリーバント!?」
驚きの声が上がる。
転がった打球は三塁線へ。
速水が追い、拾おうとしたその瞬間——
「ファウルだ!」
星華のキャッチャーの声が飛ぶ。
白球は、ちょうど線の上で止まっていた。
「何やってるんだ!」
星華のピッチャーの怒鳴り声が、夜の球場に響いた。
そしてアナウンスが告げる。
「四番、ピッチャー、水嶋比呂くん」
その名が呼ばれた瞬間、比呂の指からバットが滑り落ちた。
かつん、と乾いた音。
キャプテンが駆け寄る。
「大丈夫か?」
比呂は虚ろな目で、かろうじて頷いた。
だが、その顔は明らかにふらついていた。
「……あいつ、フラフラじゃないのか。
他にいないのか?」
星華のピッチャーが、あきれたように笑う。
「これだから弱小校は。まあいい。あと一つ簡単にアウトを取るだけだ」
そう言って、力任せに振りかぶった。
一球目。155キロのストレート。
二球目。155キロのストレート。
比呂は、振れなかった。
「これで終わりだ」
投げ込まれた三球目。
158キロのストレートが、唸りを上げて比呂へ迫る。
その瞬間だった。
耳元で、声がした。
「肘が開いてるよ。もっと前で捉えて」
(はいはい……)
比呂の心の中で、かすかな笑いが揺れる。
「もっと脇を締めて——」
(もっと脇を締めて——)
声が重なった。
比呂は、ゆっくりとバットを出す。
その一瞬、バッドが鋭く鳴った。
カン——
甲高い音が、夜空へ弾ける。
白球は、打球となって高く高く舞い上がった。
球場が、静まり返る。
比呂の視界は歪んでいた。
だが、その先に、確かに愛が立っていた。
微笑むように、まっすぐこちらを見ている。
「……ありがとう」
そう言った瞬間、愛は光に包まれて、ゆっくりと消えていった。
次の瞬間、球場が爆発した。
大歓声。
スタンドへ消えた白球。
逆転、サヨナラホームラン。
比呂は天を見上げた。
スタンドが揺れている。
仲間たちが、自分の名を呼びながら走ってくる。
でも、足が動かなかった。
ゆっくりとベースを踏み、ホームへ向かう。
「ありがとう」
声に出したつもりはなかった。
けれど、唇が勝手にその言葉を形にしていた。
涙が止まらなかった。
地区大会の優勝表彰式が終わったあと、比呂はポケットから携帯を取り出した。
LINEを開く。けれど、既読はまだついていない。
「……あいつ、まだ読んでないのかよ」
そう呟いた声は、思ったより弱かった。
勝ったはずなのに、胸の奥には勝ちきれない痛みだけが残っていた。
そのとき、キャプテンが比呂の背中をぽんと叩く。
「あとやっとくから、神崎さんに報告してやれ」
「……ありがとうございます」
礼を言うと、比呂は病院へ向かって走り出した。
けれど、病室に着いた瞬間、空気が違った。
愛の姿がない。
車椅子も、ぬいぐるみも、荷物も、何もかも消えている。
入口を見ても、そこにあるはずの名前がない。
比呂は息を止めたまま、看護師に駆け寄る。
「愛は……? 神崎愛はどこですか」
看護師は、何かを言いかけて、結局、視線を落とした。
その沈黙だけで、比呂には十分だった。
彼は何も聞かずに、愛の家へ向かって走った。
インターホンを押す。
しばらくして扉が開くと、目を腫らした父親が立っていた。
「比呂くんじゃないか……。会いにきてくれたんだね」
その言葉が、やけに遠く感じた。
「愛さんは……どこですか」
父親は答えられなかった。
代わりに、かすかに震える声で言う。
「……上がってください」
案内されたのは、二階の愛の部屋だった。
扉を開けると、ピンクのカーテン。
壁際にはぬいぐるみが並び、部屋の隅々に、愛の気配だけが残っている。
ベッドには愛が静かに横たわっていて、その場所だけ時間が止まってしまったみたいだった。
背後で、父親の声が途切れる。
「今日の未明、急に発作が起きて……そのまま……」
比呂は、言葉を失った。
「……そんな」
それ以上、何も出てこなかった。
ふと自分の携帯を見る。
愛からのメッセージの送信時刻はAM1:34。
画面には、今朝気づかなかったが途中で止まった文章だった。
『きみがすきで』
指が震えて送信ボタンに触れてしまったのか、文字を打ち切る前に力尽き、スマホを落とした衝撃で送られてしまったのか……。
文字が途切れていることに今朝は気づかなかった。
比呂はその文字を見つめたまま、強く携帯を握りしめる。
「……なんだよ。俺のは見てないのかよ……」
返事のない画面が、ひどく冷たかった。
やがて比呂は、地区優勝のメダルを胸の上にそっと置いた。
「ありがとう。君のおかげで勝てたんだ……」
声はかすれて、もうほとんど届かなかった。
帰り際、父親は深く頭を下げ優しい口調で言った。
「あの子を最後まで普通の女の子でいさせてくれて、ありがとう」
そして、母親が小さな紙袋を差し出した。
「よかったら、これもらってあげてね」
比呂は受け取ると、何度も頭を下げて、家を出た。
いつも二人で帰った海岸線を、ひとりで歩く。
潮の匂いがやけに強くて、胸の奥を静かに締めつけた。
砂浜へ降り、紙袋を開ける。
中にあったのは、ケースに収められた少し汚れたボールだった。
そこには『初三振』と書かれている。
日付は、比呂が小学校の野球大会で初めて優勝した日だった。
さらに、写真が一枚、静かにこぼれ落ちる。
そこにいたのは、悔しそうにうつむく愛だった。
「なんでこんな写真、残しておくんだよ……」
よく見るとその端に、比呂が偶然写り込んでいた。
「もっと早く言えよ......」
波の音だけが、一瞬、やけに大きく聞こえた。
「……君は自己中だ⋯
僕にたくさんの贈り物をしてくれたくせに⋯
お礼も言わせてもらえない⋯
君は自己中だ⋯」
そう呟いた途端、涙がこぼれた。
止めようとしても、もう止まらなかった。
ただ、波の音だけが静かに響いていた。
八月。
比呂は、じりつくような空を見上げて「……あっちぃな」と呟いた。
甲子園のマウンドに立っていた。
ベンチには、愛のボールと、あの写真が置かれている。
比呂は小さく息を吸う。
「……さあ、行くぞ」
そして、振りかぶる。
「大きく振りかぶって」
(大きく振りかぶって)




