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異世界で無職を極めた俺は、役割を拒んだ選択の末に歌姫を救う  作者: 若木勇祐


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第10章「マスクド・ゼロ」

夜──少し時間は遡り、勇者パーティーが出発する前日のこと。


王都の灯りが、

遠くに揺れている。


その外れに、

小さな社があった。


古い石段。

苔むした鳥居。


王国の神殿とは違う、

もっと昔からある祈りの場所。


流川奈緒は、

静かに手を合わせていた。


その祈りは、世界樹へ届くと信じられている。


勇者パーティーの出発は、

明日の早朝。


選ばれたことは、

嬉しいはずだった。


でも。


胸の奥が、

少しだけ重い。


「……守ってください」


誰に向けた言葉なのか、

奈緒自身も分からない。


クラスメイト。

勇者。


それとも──。


「……恒一くん」


名前を口にして、

奈緒は少しだけ目を伏せた。


そのとき。


風が、

静かに止まる。

葉が、揺れる。


夜なのに、

どこかで小さく鳥が鳴いた。


まるで。


祈りが、

どこかへ届いたみたいだった。


奈緒は、

ゆっくりと手を下ろす。


「……気のせいだよね」


誰もいない社で、

小さく微笑む。


それでも。


胸の奥の重さは、

ほんの少しだけ軽くなっていた。


──同時刻の王都の外れ。


街灯の届かない場所で、

空野恒一は一人歩いていた。


空を見上げる。

星は変わらない。


「……祈るとか」


小さく呟く。


「性に合わないな……」


足を止めることもなく、

また歩き出す。


誰にも頼らない。

誰にも選ばれない。


それでも。


進む場所は、

自分で決める。


それでいいと思った。



夜明け前の空は、まだ青くない。


王国前線拠点の中庭には、

静かな緊張だけが満ちていた。


整列する六つの影。


先頭に立つのは、

白銀の聖鎧を纏った勇者・守崎剣翔。


王国紋章を刻んだ胸甲。

純白のマントが、風もない空気の中でわずかに揺れる。

背に負った剣と盾は抜かれていない。


それでも──

そこが戦場の中心だと分かる。


勇者が立つ場所こそが、

前線になる。


その右後方。


魔剣士・崩崎刀磨。


黒の外套の下、

金属繊維で編まれた魔導装甲が鈍く光る。

左肩と胸部のみを守る偏重構造。


守るためではない。

斬るための装備。


腰の魔剣が、

呼吸に合わせて淡く脈動している。


抜刀距離。

常に半歩前。


戦闘開始を待つ姿勢だった。


中央には、

巫女・流川奈緒。


白と朱の戦巫装束。

分割された袴が機動性を確保し、

腰には無数の符が束ねられている。


背には弓矢。


祈り手でありながら、

同時に狩人でもあるような姿。


視線は常に周囲を測り、

誰より早く“異変”を探していた。


最後列。


聖女・白城祈。


純白の聖衣が、

朝前の薄闇を柔らかく反射している。


装甲はない。

武器もない。


だが──

彼女の立つ場所だけ、

空気が静かだった。


戦場そのものが、

守られているかのように。


そこから少し離れた位置。


黒葉夜乃が杖を地面に立てる。


黒の魔導外套。

装飾はほとんどない。


実用のみを追求した観測魔導装。


勇者パーティーの中で唯一、

「戦うため」ではなく、

「理解するため」に立つ者。


そして。


誰もいない空間が、一つ。


歌羽の立つはずだった位置。


そこだけが、

不自然なほど整っていた。


誰も口にしない。

誰も視線を向けない。


それが──

正しい状態だからだ。


「出発五分前」


号令が響く。


誰も動かない。

誰も迷わない。


役割は揃っている。


勇者。

魔剣士。

巫女。

聖女。

魔女。

暗殺者。


世界が求めた、

完成された編成。


剣翔は空を見上げた。


(俺たちが行く)


魔王討伐。

歌姫救出。


正解は、すでに動き出している。


──そのはずだった。



王都の外れ。


誰も気にしない石畳の上で、

空間が、わずかにずれた。


音はなく、

光も派手ではない。


ただ、世界が一瞬だけ、言い淀んだ。


どさり、と。


恒一は地面に手をつき、息を整える。


「……戻った」


石の冷たさ。

土の匂いを感じる。


遠くで、鐘が鳴る。

勇者たちの出発の合図だ。


恒一の隣で、少女が静かに立っていた。


十歳前後の外見。

白かやや灰色に近い髪。

銀色の瞳。


輪郭はもう揺れておらず、

確かに、そこに“在る”。


少女は、自分の手を見下ろした。


「……外」


「ああ。地上だ」


ゼラは、ゆっくりと息を吸う。


「空気……違う」


その仕草は、あまりに自然だった。


もう雫ではない。

未完成でもない。


少女の形をした、零。



歩き出してすぐ、違和感があった。

誰かが、見ている。


ゼラが、ぴくりと反応する。


「……触られてる」


「監視だな」


無職がレベル1になり、

評価がSSSに跳ねた。


当然、掴もうとする。

だが、まだ粗い。


恒一は街道を避け、草地へ入る。

舗装された道を選ばない。


ゼラが隣を歩く。


「戦う?」


「いや」


恒一は首を振る。


「今は選ばない」


それだけで、張りつめた空気は薄れた。


本格的な包囲ではない。

まだ、“様子見”の段階だ。



夜。

森の縁。


小さな焚き火が揺れており、

ゼラは炎を見つめている。


「……きれい」


恒一は岩に腰を下ろした。


「確認するか」


意識を向ける。


淡い表示が浮かぶ。


NAME:空野 恒一

JOB:無職

LEVEL:1

RANK:SSS

ROLL:オールマイティー


実感はない。

だが、事実は変わっている。


表示の下に、新しい一行。


SYSTEM SKILL LEVEL 1

《ストレージ》


「……これは」


恒一は小石を拾う。


意識を集中させると、

石が、消えた。


ゼラが目を丸くする。


「どこ?」


「どこでもない」


もう一度、念じる。

すると、石が手のひらに戻る。


裂け目も、光もない。

ただ、“置いた”。

固定されていない空間に。


ゼラが、小さく頷く。


「持たなくていい」


「ああ」


剣も、盾も、背負わなくていい。

必要なら出せる。


いつでも選べる。


それだけで、世界の見え方が変わる。



森の奥で、枝が折れた。


黒い影が飛び出してくる。

ブラックハウンドだ。


速くて、

避けきれない。


──はずだった。


景色が、ずれた。

音が遅れ、風向きが反転する。


気づけば、恒一は半歩横に立っていた。


牙は空を噛む。


「……今の」


自分で動いた感覚はない。

ただ、“そうならなかった”。


ゼラが一瞬で溶ける。

少女の輪郭が崩れ、透明な流体へ。

腕に絡みつき、拳の形を取る。


「行くよ」


声は少女のまま。


恒一は踏み込む。


魔物の足場が、わずかに沈み、

確定しなかった未来が、消える。


一撃、叩き込む。


魔物は森の奥へ逃げた。


静寂。

そして、ゼラは少女の姿に戻る。


「……確定、しなかった」


「ああ」


強くなった実感はない。


だが。


(選べる)


それだけは、はっきりしている。



焚き火は、ほとんど消えている。


王国では、勇者が進んでいる。


正しい編成。

正しい道。


恒一は、遠くの鐘の音を聞いた。

ゼラが隣に立つ。


「行く?」


「ああ」


恒一は立ち上がる。


街道とは逆方向を見る。

最短でも、最適でもない道。


「俺は──選ぶ」


勇者が進む道と、

無職が進む道。


同じ目的地を指しながらも、

二度と重ならない角度で、分かれていく。


夜明けの光が、地平線を染め始めた。


少女と並び、

管理の外側を歩いていく。


確定しなかった未来だけが、

静かに消えていった。


──分岐は、もう始まっている。



夜明け前。

王都の外れ。

人の気配はほとんどない。


それでも──

見られている。


そう感じたのは、理屈じゃなかった。


恒一は、無意識に足を止めた。

背後を振り返る。


何もない。

誰もいない。

街道は静まり返っている。


それなのに、胸の奥がざわつく。


(……早いな)


無職専用ダンジョンを出たばかり。

王国の正式ルートでもない。

転移痕も最小限に抑えたつもりだ。


それでも、気づかれた。


正確には──

気づかれ始めている。


「……まあ、そうだよな」


小さく息を吐く。


無職がレベル1になった。

評価がSSSに跳ねた。

しかも、ロールはオールマイティー。


世界のシステムからすれば、

「異常」以外の何物でもないだろう。


ゼラが隣で呟く。


「……においがする」


「同感」


恒一は、歩き出す。

街道から外れ、草地へ。


舗装された道を選ばず、

人が通る道を避ける。


(追跡は、まだ粗い)


王国は“場所”を掴もうとしている段階。

個体認識までは届いていない……と思いたい。


だから今は──

捕まらないことが先決だ。


だが、時間の問題でもある。


遠くで、金属音がした。

鎧が擦れる音だ。

複数人だろう。


恒一は、即座に判断する。


(……来た)



追跡部隊は、五人編成だった。


神殿騎士二名。

魔導補助一名。

索敵役二名。


正式な討伐部隊ではない。

だが、“異常確認”としては十分。


「転移反応、ここで途切れている」


索敵役の一人が、地面に手を当てる。


「魔力の残滓は薄いが……確実に通過している」


神殿騎士が顔をしかめる。


「無職が、本当にレベル1になったのか?」


「水晶は嘘をつかない」


別の騎士が答える。


「評価SSS」

「管理外」

「危険因子」


誰も、それ以上は言わなかった。


“異端”という言葉は、

まだ、公式には使えない。


だが──

扱いは、すでにそれだった。


「接触は?」


「不要」

「捕縛優先」

「抵抗した場合のみ制圧」


命令は、淡々としていた。



草地を抜け、低い丘を越える。

背後の気配は、確実に近づいていた。


(……逃げ切れない、か)


だが、焦りはなく、

むしろ、冷静だった。


(想定内)


恒一は、立ち止まり、

ゼラを見下ろす。


「……少し、試すか」


「……え?」


「捕まらない理由を……」


「ジョブチェンジ、農民(仮)」


ゼラが、ぴくりと震える。

その身体が、ゆっくりと形を変え始めた。


刃でも、盾でもない。

武器ですらない。


──鍬。


素朴で、重そうで、

戦闘向きとは言い難い形。


だが、恒一は理解していた。


(農民)


(“生きるための仕事”)


鍬を持った瞬間、

身体の感覚が、微妙に変わる。


バットを握っていた時の感覚を思い出す。


重心。

踏み込み。

地面との距離感。


いや、グラウンドにトンボをかけていた感覚か?


(……なるほど)


視界の端で、薄く光る板が展開される。


補助端末。

表示は最小限。


【ジョブチェンジ(仮)】

【農民(仮)】


能力値の上昇は、わずか。

戦闘力は、ほぼ変わらない。


だが──

地形が、読める。


恒一は、地面を一度だけ打ち、

鍬が、土をえぐる。


次の瞬間。


追跡部隊の足元が、崩れた。


「っ──!?」


魔法でもない。

攻撃でもない。


ただ、

踏み抜いた。


「地盤が……!?」


神殿騎士が体勢を崩す。

その隙に、恒一は走る。


直線じゃない。

逃走経路は、あえて不規則。


(追撃は、強い)


(でも──)


(俺は、役割を固定しない)


「ジョブチェンジ、無職」


恒一が続けて囁く。


「ジョブチェンジ、樵夫(仮)」


鍬が、ぬるりと形を変える。


次は──

斧。


【ジョブチェンジ(仮)】

【樵夫(仮)】


木を切るための道具。


それだけなのに、

腕の振りが、驚くほど安定する。


斧を振り下ろし、

木を切る。


ただ、それだけ。


だが、倒れた木が、道を塞ぐ。


「回り込め!」


だが、その判断が一拍遅れる。

恒一は、もう別の方向へ。


(……捕まらない理由)


(それは、俺が強いからじゃない)


(“想定できない”からだ)


追う側は、役割で動く。

だが、恒一は、役割を切り替える。


次は、料理人(仮)。

ゼラは包丁に変わる。


手の感覚が変わる。


重さ。

硬さ。

切る角度。


(……素材の扱いがわかるな……)


戦闘技能はない。

攻撃力もほとんど上がらない。


ただ──。


「どこを切れば崩れるか」が分かる。


通常の食材。

それに加えて、魔物の筋、関節、重心。


(包丁と敵の違いなんて、大してないな)


ゼラが刃の形を取る。


一閃。


必要な分だけ、切れる。

ただし、生きている魔物は切れないようだ。


(料理を食べさせないと、バフがかけられないのは、致命的な欠陥だな……)


次は、薬草士(仮)。

ゼラはすり鉢に変わる。


空気の匂いが変わる。


湿度。

土。

微かな毒素。


(……危険区域が分かる)


回復魔法は使えない。

奇跡も起きない。


ただ、

「傷が悪化する場所」が理解できる。


踏み込む位置を変える。


毒霧を避ける。

出血を抑える。


(治すんじゃない)


(悪くならない場所を選ぶ)


それと、魔力を使って、薬草を使った時の回復効率を僅かに上げられるのか。


だが、それだけ。


次は、卜占師(仮)。

ゼラは水晶に変わる。


視界の端に、薄い揺らぎが走る。


ほんの一瞬先。

足を出した位置。

相手の重心。


──見える。


だが。


(……これだけか?)


未来は断片的だ。

攻撃もできない。

魔法もない。


ただ、

「少し先に何が起きるか分かる」だけ。


それと、

水晶を少しだけ浮かすことができるようだ。

……ただのタネも仕掛けもない手品か?


(キャスターなのに、まともな魔法が使えないじゃないか)


それでも十分だった。


外れる未来を、

選ばなければいい。


攻撃しない。

制圧しない。


ただ、当たらない。

ただ、掴めない。


そして──

追撃は、完全に途切れた。


恒一は、息を整えた。

心臓の音は、落ち着いている。


(……なるほどな)


一人でなんでもできる。

今は、確かにそうだ。


無職。

オールマイティー。

ゼロ系スキル。


だが──。


(……これ、ずっとは無理だ)


切り替え続ける集中力。

判断の連続。

世界全体を読む負荷。


一人でできる。

だが、完全な一人用じゃない。


それに気づいたのは、

少しだけ、先の話。


今は──。


恒一は、革袋の中の銀色の仮面に触れた。

その時ではないので、まだ、被らない。


「……名乗るのは、もう少し先だ」


ゼロスライムが、ぷる、と揺れる。


遠く──

王都の方向で、再び鐘が鳴った。


追撃は失敗。


だが──

王国は、簡単には諦めない。


恒一は、歌羽のいるであろう方角を見る。


(……行くぞ)


選ばないために。

選ぶために。


無職は、歩き続ける。


──仮面を被る、その瞬間まで。



王都中央神殿、地下。


円形の会議室には、七つの席があった。

そのうち五つが埋まっている。


神殿長。

王国騎士団代表。

魔導院長。

監査官。

記録官。


中央には、水晶が浮かんでいた。


「追跡部隊、帰還しました」


記録官が、淡々と告げる。


「対象との直接接触はなし」

「拘束、失敗」

「被害、軽微」


神殿長が、ゆっくりと目を閉じた。


「……無職が、逃げ切った?」


「正確には」


魔導院長が続ける。


「捉えられなかった、が正しいでしょう」


水晶の映像が切り替わる。


崩れた地面。

倒木。

意味不明な迂回痕。


「攻撃魔法は使用していません」

「高位スキルも未使用」

「ですが……」


魔導院長は、指先で水晶を弾いた。


「行動が、役割単位で切り替わっている」


騎士団代表が、眉をひそめる。


「……農民、樵夫、料理人、薬草士、卜占師……?」


「はい」


「すべて、下位ジョブ」


「戦闘用ではない」


「にもかかわらず?」


「ええ」


会議室に、沈黙が落ちる。


神殿長が、静かに口を開く。


「無職が、役割を“使い分けた”のか」


「正確には」


監査官が言葉を継ぐ。


「役割に縛られなかった」


その一言で、

空気が変わった。


神殿長は、ゆっくりと目を開く。


「……評価SSS」

「ロール・オールマイティー」

「ジョブチェンジ(仮)Dランク」


「そして──」


記録官が、最後の情報を読み上げる。


「追跡中、対象は一度も“同じ行動”を繰り返していません」


沈黙。


それは、王国にとって最悪の報告だった。


管理できない。

予測できない。

再現できない。


「異端審問に──」


誰かが、そう言いかける。

だが、神殿長は首を振った。


「まだ早い」

「現時点では、正式な反逆行為はない」

「被害も出ていない」


神殿長は、水晶を見る。


そこに映るのは、

すでに“いない”場所。


「だが」


声が、低くなる。


「観測対象としては、危険水域だ」


監査官が、頷く。


「異端候補」

「監視優先度、引き上げを提案します」


神殿長は、少しだけ考えたあと、言った。


「追撃は継続」

「ただし──」


一拍。


「正規部隊は動かすな」


騎士団代表が、驚いた顔をする。


「なぜです?」


神殿長は、静かに答えた。


「無職は、“役割に反応する”」

「正規部隊を出せば、逆に学ばせる」


会議室が、凍りつく。


「……学ばせる?」


「ええ」


神殿長は、はっきりと言った。


「あれは、成長する」


結論は出た。


異端ではない。

だが、許容もしない。


──追跡対象:無職 空野恒一

──監視継続:介入最小限


王国は、

自らの手で“例外”を育てる選択をしてしまったことに、まだ気づいていなかった。



火は、小さかった。


枝を二、三本くべただけの、頼りない焚き火。

それでも、闇の中では十分だった。


恒一は、岩壁を背に腰を下ろし、

膝の上で揺れる半透明の塊を見下ろす。


ゼラは、静かだった。

眠っているのか、考えているのか、わからない。


「……」


無職専用ダンジョンを抜けてから、

まだそれほど大きな音は立てていない。


本格的に追われてもいない。

呼び止められてもいない。


だからこそ、

今になって、息が追いついてきた。


恒一は、ゆっくりと息を吐く。


(……改めて確認、するか)


自分が、今どうなっているのか。


手を伸ばすと、

空中に淡い光が滲んだ。


ただ、「見る」という意思だけで、

投影端末から映し出された。


静かな表示。


NAME:空野 恒一

JOB:無職

LEVEL:1

RANK:SSS

ROLL:オールマイティー


「……」


思っていたよりも、あっさりしている。


評価が跳ね上がった実感も、

そんなに強くなった感覚もない。


ただ、

事実だけが並んでいた。


恒一は、続きを見ようとして、

少しだけ指を止める。


(……まだ、あるな)


視線を下げる。


STATUS

筋力:1

耐久:1

敏捷:1

闘気:1

魔力:1

干渉性:1


UNIQUE SKILL

《選択権オプション・ゼロ》


──元のステータスはそれぞれ0だったってことか?


この世界におけるステータスは、単なる補正値であり、数値が低くても問題なく、身体を動かすことができた。


それだけ。


説明はない。

発動条件も、効果範囲も書かれていない。


「……選択権、ね」


言葉にすると、

少しだけ現実味が増す。


ゼラが、

スライムの状態で、ぷるっと揺れた。


「お前も、関係あるのか?」


問いかけると、

形がほんの少しだけ変わる。


肯定でも否定でもない。

ただ、そこにいる。


恒一は、表示を消した。


光が滲み、

夜の闇に溶けていく。


数値はわかった。

いや、よくわからないことがわかった。


(……だから、どうする)


答えは、まだない。


でも、

選択肢は、確実に増えている。


立ち上がる。


焚き火を踏み消し、

夜の奥を見る。


道は、示されていない。

地図も、目的もない。


それでも。


「……行くか」


ゼラが、

小さく跳ねた。

まだ姿形が安定しないらしい。


恒一は、一歩踏み出す。


評価SSSの無職として。

管理外の存在として。

──選ぶ側として。


夜は、まだ深かった。


恒一は、森の中を川に沿って歩いていた。

道らしい道はない。


ただ、進めそうな場所を選んで、足を運ぶ。


王都を流れる大河は、西へと続いている。

追跡を避けるなら、川沿いが一番だった。


枝を踏み、

草を分け、

ゼラが、足元で形を変える。


不意に、

空気が変わった。


──近い。


魔物の気配。

低く、湿った呼吸音。


恒一は足を止めた。


(……来る)


視界の端で、

黒い影が跳ねる。

──シャドウ・リンクス。


影を操る猫型の魔物だ。


速い。

避けきれない。


そう思った瞬間──

景色が、ずれた。


音が遅れ、

風向きが反転し、

恒一の立っている位置が、半歩だけ変わる。


次の瞬間、

影は、彼の“いた場所”を噛み砕いていた。


「……え?」


自分の足を見る。


動いた記憶はない。

避けた実感もない。


ただ、

結果だけが変わっている。


ゼラが、

きゅ、と形を引き締めた。


魔物が、もう一度跳ぶ。


恒一は、今度は考えなかった。


(……こっちじゃない)


そう思った瞬間、

足場の石がわずかに沈み、

獣の踏み込みが狂う。


転倒し、

隙が生じる。


恒一は、拳状に変化したゼラを突き出す。


殴った衝撃。

押し返す。


魔物は呻き声を上げ、

森の奥へ逃げていった。


静寂。

恒一は、しばらく立ち尽くしていた。


「……今の」


力を使った感触はない。

判断した覚えも、ほとんどない。


ただ、

“そうならなかった未来”が、選ばれなかった。


──そんな感覚だけが残っていた。


(……確定、しなかったのか)


ゼラが、

小さく揺れる。


肯定でも、否定でもない。

ただ、選択が成立したという反応。


恒一は、深く息を吐いた。


「……説明、いらないな」


分かったのは一つだけ。


この力は、

そう簡単に使うものじゃない。


──選ばなかった可能性だけが、消えていた。



夜の王都は、静かだった。


昼間の歓声が嘘のように、石畳は冷え切っている。


遠くに、神殿の尖塔。

あの場所で、勇者は祝福を受けた。


聖女は祈り、

騎士は剣を掲げ、

民衆はそれを信じる。


「……すごい国だよな」


アウレリウス王国。

どこまでも正しい国だ。


勇者がいて、聖女がいて、

役割が、役者が揃っている。


世界は、ちゃんと回る。

その中心に、自分はいない。


ジョブ:無職。

評価:E。

だった。


管理外。

危険因子。


「何者でもない、か」


自嘲でもなく、諦めでもない。

ただの事実。


それが今は。


ジョブ:無職。

評価:SSS。

になった。


鐘が鳴る。

夜を告げる音。


その響きが、やけに遠い。


「この国は、正しい」


だからこそ。


「……俺は、いらない」


その言葉が、夜に溶けた──。


瞬間。


空気が、わずかに揺れた。


音はない。

光もない。


ただ、ほんの一瞬だけ。

世界の輪郭が、曖昧になる。


石畳のひびが、

別の位置にあるように見えた。


神殿の尖塔が、

ほんのわずかに傾いた気がした。


心臓が、強く打つ。


ドクン、と。


視界の端に、残像。


自分が、

このまま王都を出ていく未来。

出ていかない未来。

勇者の隣に立つ未来。

路地裏で倒れている未来。


重なって、消える。

確定しない。


いや──。


確定しかけて、戻る。


何かが、

“選べる”と告げている。


だが、理解はできない。

ただ、違和感だけが残る。


「……今のは」


風が吹く。

夜が、元に戻る。


石畳は、いつも通りの位置にある。

神殿は、真っ直ぐ立っている。


何も起きていない。


けれど。


確かに、何かがずれた。


アウレリウス王国という“正解”が、

ほんのわずかに揺らいだ。


恒一は、神殿から視線を外す。


背を向けて、

踏み出す。


その一歩は、ただの移動ではない。


確定しかけた物語から、

自分を引き剥がす一歩。


何者でもないということは、

何者にでもなれるということ。


それが祝福か、呪いかはまだ分からない。


だが。


確かなことが一つだけある。


今、世界は。


勇者ではなく──

無職を、わずかに観測し損ねた。



──アウレリウス王国。


夜は、いつもと同じだった。


王都の灯りは揺れ、

遠くで鐘が鳴る。


誰も空を見上げない。

見上げる理由が、ないからだ。


けれど──

聖堂の奥、エリス姫はふと立ち止まった。


胸の奥が、ひどく静かになる。


「……今」


誰に向けたわけでもない呟き。


燭台の炎が、ひとつ。

音もなく、揺れた。


逆方向に、

ほんの一瞬だけ。


光が、わずかに濁る。


足元の石の隙間から、

小さな芽が顔を出した。


この季節には、まだ早いものだ。

ただし、姫は気づかない。


六つの均衡が、ほんのわずかに軋んだ。


何かが、遠くで目を覚ました。



──シンラ皇朝。


同じ時刻。

シンラ皇朝の観測塔。


水盤に落ちた一滴が、波紋を広げる。


一つ。


二つ。


三つ。


四つ。


五つ。


──そして、六つ。


六つ目だけが、わずかに遅れている。


観測官は記録を止めた。


「……封印値、変動」


誰にも届かない声。



──ヴォルグラード帝国。


永久凍土の奥深くで、

氷の亀裂が、ぱきりと音を立てた。


裂け目の奥に、

黒い霧が、ゆっくりと滲む。


すぐに凍りつく。


だが、確かに。


“内側から”押された。



──ザハラ神権国。


夜の祈りを捧げていた老祭司が、手を止める。

その額に汗が滲む。


「……均衡が、重い」


神の気配ではない。


もっと古い。

もっと根源的な、圧。



──カルディオン連邦。


外洋を航行する魔導艦。


羅針盤が狂い、海図にない“影”が一瞬だけ映り、

副官が振り返る。


「今のは──」


艦長は答えない。


ただ、低く呟く。


「海が、沈んだ」


波は立っていない。

だが、深度が変わった。



──リュミエール公国


宮廷の水晶。


内部から、細い亀裂が走る。


音はしない。


ただ、光が屈折する。


六方向へ。



そして──再び。


──アウレリウス王国。


王都の地下。

光も届かぬ最奥。

巨大な石柱。


そこに刻まれた六つの紋章。


五つは淡く。

一つは、深い闇。


闇が、わずかに脈打つ。


ギシッ。


封印の鎖が、軋む。

一本だけ。


切れてはいない。

だが、緩んだ。


それは目覚めではない。


まだ。


ただ──

“意識”が戻る。


世界のどこかで、誰かが倒れた。


その力は、霧のように拡散し、

深い場所へと流れる。


吸い寄せられるように。


ギシッ。


均衡は、五から四へ。

四から、三へと向かう予兆。


地上では、誰も気づかない。


勇者も。

聖女も。


──ただ一人を除いて。


空野恒一は、理由もなく空を見上げていた。


星は、いつもと同じだ。

だが、どこかが欠けている。


六つあるはずの均衡の輪。

その外側。

ぽっかりと、何もない場所。


評価表示が、静かに揺れる。


Eではない。


SSSでもない。


──“0”。


数に含まれない、空白。


恒一は眉をひそめる。


「……なんだよ」


胸の奥が、軽い。


世界が、少しだけ歪んだ気がする。


地下深くで、

闇は、わずかに笑った。


ギシッ。


世界は、まだ平穏だった。


だが。


六つの均衡は崩れはじめ、

零は、その外で目を覚ます。



──天界にて。


光の柱が幾重にも立ち並ぶ、静謐なる領域。

そこでは、音は響かず、時間も流れない。


ただ──記録だけが存在する。


転移者、三十七名。

勇者、適合。

聖女、適合。


他、全て規定範囲内。


そして。


一名。

表示不能。


女神セレスティアは、視線を落とした。


世界を俯瞰する瞳が、王都北門へ向けられる。


守崎剣翔。


正しく機能している。


役割は安定。戦線は固定。

物語は、予定通り進行している。


その背後。

祈。奈緒。迅。

全て、定義済み。


管理下。


だが。


一箇所だけ、光が歪む。


空白。

そこに名はない。


ジョブ:無職。


「……定義不能」


それは欠陥ではない。


空白。

何も書かれていない頁。


女神は理解している。


何者でもないということは、

何者にでもなれるということ。


定義がなければ、制限もない。

役割がなければ、裁定も届かない。


それは、可能性。


そして──

最も制御不能な存在。


勇者は英雄と定められている。

聖女は奇跡と定められている。


だが、無職は、定められていない。


物語の外側。

観測の外側。


その存在が、選択を持つ。


女神の指先が、わずかに震えた。

震えは恐怖ではない。


排除の判断。


「異物は、早期に処理する」


光が一筋、落ちる。

それは祝福ではない。


裁定でもない。


影。

管理のための刃。

地上へ向かう。


王都の喧騒の裏側。

人の目の届かぬ場所へ。


刺客が、選ばれる。

無職は、危険であるから。


何者でもない者は、

何者にでもなれる。


神の想定すらも、越えて。


だから。


芽吹く前に、摘む。


女神の視界から、

一瞬だけ空白が揺れた。


──観測不能。


そのわずかな歪みが、

彼女にとって最大の警告だった。



夜。


焚き火の音だけが、小さく響く。


恒一は、岩に腰掛けていた。


ゼラは、膝の上で静かに丸くなっている。


「……追撃から逃れたらしい」


「……よかったの?」


「よくはない」


恒一は、正直に答えた。


「次は、もっと賢くやる」


逃げ切れたし、

捕まらなかった。


それは事実だ。


だが、それは──

名前がなかったからでもある。


無職。

空野恒一。


ただの“個人”。


「……このままじゃ、同じだ」


恒一は、革袋を取り出した。

その中から、仮面を取り出す。


シルバー。

灰色にも見える。

装飾はなく、

表情もない。


「無職は、管理できない」


静かな声。


「でも、“誰か”になったら?」


ゼラが、ぴくりと動く。


「……なまえ?」


「そう」


恒一は、仮面を見る。


「空野恒一は、無職だ」

「無職は、自由だ」


「だから──」


仮面を、ゆっくり持ち上げる。


「無職のまま、別の存在になる」


それは逃避じゃない。

偽装でもない。


分離だ。


空野恒一は、選ばない。


だが──。


選ぶための存在を、

世界に一つ、立てる。


──ゼロ。


「……マスクド・ゼロ」


誰に聞かせるでもなく、呟いた。


仮面を、被ると、

観測対象が、二つに分離した。


その瞬間。


胸の奥で、

何かが“切り替わった”。


──世界が、一段だけ遠くなる。


名前。

立場。

視線。


世界の見え方が、

ほんの少しだけ、変わる。


「……ぜろ?」


「そうだ」


恒一は、立ち上がる。


「俺は、無職」

「でも──」


仮面は、何者かになるためのものじゃない。

何者にもならずに、動くためのものだ。


夜の向こう。

歌羽のいる方角を見る。


「無職が、動くときの名前だ」


仮面の下で、

表情は見えない。


だが、

迷いはなかった。


──無職は、まだ戦っていない。

──だが、世界はもう、敵になった。


そして。


次に戦うとき。


王国が見るのは──

仮面の少年・マスクド・ゼロだ。


表示不能の領域に、

新しい観測タグが仮登録された。



夜明け前の街道。


荷馬車が横転していた。


木箱が砕け、

布袋から穀物が散らばっている。


その中央。


三頭の巨大な猪。


赤黒い体毛。

異様に発達した前脚。

そして──。


血のように濡れた牙。

──ブラッドボア。


「に、逃げろ……!」


商人の一人が、足を引きずりながら後退る。


だが、遅い。


ブラッドボアは、止まらない。


一頭目が狙いを定めた瞬間、

一直線に突進する。


それがこの魔物の本質。

一度、走り出せば止まらない。


確定。

轟音。


地面が抉れる。


護衛の剣が弾かれ、

一人が宙を舞った。


「くそっ……!」


二頭目が、角度を変えて加速する。


三頭目が、回り込む。


逃げ場はない。


──そのはずだった。


空気が、わずかに歪む。


突進音が、

半拍、遅れる。


最初の一頭が踏み込んだ地点。


そこに──

何かが“あったことになった”。


足が、沈む。


「グォッ!?」


勢いのまま体勢を崩す。


地面が、抉れていない。

抉れる未来が、選ばれなかった。


二頭目が跳ぶ。


牙が、商人の背を貫く──。


その直前。

視界が、ずれる。


少年が、そこに立っていた。


銀色の仮面。

外套が、静かに揺れる。


牙は、

少年の“いた位置”を通過する。


いない。

そこには、いなかった。


半歩、横。


ブラッドボアの突進は、

石壁に激突する。


鈍い音。


「……え?」


護衛が、呆然と呟く。


三頭目が怒号と共に突進する。


少年は動かない。

ただ、静かに言う。


「ゼラ」


足元が、溶ける。

透明な流体が、腕に絡みつく。

拳の形状になる。


そして、踏み込む。


いや──

踏み込んだ“ことになった”。


ブラッドボアの重心が、

一瞬だけ、ずれる。


拳が牙の付け根に叩き込まれる。


「アタックゼロ」


「ディフェンスゼロ」


外皮は非常に硬い。


だが。


突進の“勢い”が、

内部でぶつかる。


衝撃が発生し、

巨体が、横転する。


残る一頭。


怒りで視界を赤く染め、

最後の全力突進。


確定。

一直線。


少年は、正面に立つ。

逃げない。


牙が目前に迫る。


その瞬間。


──選ばない。


突進は、成立しなかった。


足場の石が、

ほんのわずかに浮き、

蹄が空を掻く。


未来が、折れる。


ブラッドボアは、

自らの勢いで転がり、

森へと逃げ去った。


静寂。


商人たちの息遣いだけが残る。


少年は、ゆっくりと振り向く。


「……あ、あなたは……?」


仮面の奥から、声が落ちる。


「通りすがりだ」


「名を……!」


夜明けの光が、

銀色の仮面を照らす。


遠くで鐘が鳴る。


勇者が進む音。

正しい物語の音。


その外側で。


少年は、初めて名乗る。


「──マスクド・ゼロ」


風が吹く。


商人の一人が、震える声で繰り返す。


「ゼロ……?」


仮面の少年は、続ける。


「役割を持たない者」

「どこにも属さない者」


一歩、後退る。


影が、半拍遅れて動く。


「必要なときだけ現れる」


ゼラが、足元で揺れる。


「覚えておけ」


夜明けが、空を染める。


「俺は、選ぶ側だ」


その瞬間。


王都地下の水晶が、微細に震えた。


観測ログに、新規タグが仮登録される。


識別:MASKED-0

分類:未定義干渉体


女神の視線が、初めて焦点を結ぶ。


街道では、

少年の姿が、薄れる。


消えたのではない。


ただ、

そこに“いなかったことになった”。


商人が呟く。


「……仮面のゼロ……」


噂は、風に乗る。


勇者とは別の名が、

夜明けと共に生まれた。


──マスクド・ゼロ。


その名は、

まだ誰の物語にも属していなかった。


それは、勇者とは別に始まった物語だった。



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