今も昔も上司への不満はあるものらしい
翌朝、俺は管理者室で、昨日の記録をもう一度読み直していた。
エドガー・ヴァレンの勤務記録。
特別業務の停止申請。
前任管理者による継続指示。
そして、未完了のまま保留された報酬処理。
どれも重要な情報だ。
ただ、俺が気になっているのは、停止申請の本文だった。
作業の目的と、封印系統への影響範囲が明確になっていない。
監視記録と、現場で確認できる魔力の流れに不一致がある。
設備の異常を検知できなくなるおそれがある。
文章としては簡潔だが、妙に具体的だ。
エドガーは、ただ危険を感じたから作業を止めようとしたわけではない。
何かを確認し、記録と現場の違いに気づき、それを根拠に停止を申請している。
ならば、その根拠となった記録がどこかにあるはずだ。
「ミレイ。昨日の資料の続きは読めるか?」
「はい。ただし、まだ読み取り専用の状態を維持します。管理権限に関する処理は実行しません」
「頼む。八百年前の書類仕事で、現代の設備を動かすのは避けたい」
「書類を読むだけで設備が動く可能性を心配する日が来るとは、思いませんでした」
「俺もだ。前の世界では、書類を読んだだけで設備は動かなかった。代わりに人間が動かされたけどな」
ミレイは小さく首を傾げた。
「それは、どういう意味ですか?」
「説明すると長くなる。しかも、あまり楽しい話じゃない」
俺は端末を指した。
「今は八百年前のほうを優先しよう」
*
セシリアの確認を受けて、俺たちは原文の次のページを開いた。
そこには、通常の勤務記録にはない項目が並んでいた。
現場観察記録・追補
記録者:エドガー・ヴァレン
記録対象:補助冷却系統および中央封印系統
記録区分:管理者閲覧制限対象
「管理者閲覧制限対象……」
俺は、その文字を見つめた。
「自分で記録したものなのに、閲覧制限がかかっているのか?」
「記録者と閲覧権限は別ですからね」とミレイが答えた。「エドガーさんが作成していても、管理者権限によって後から制限された可能性があります」
レオンが腕を組んだ。
「あるいは、最初から制限対象として登録するよう指示されていた可能性もある」
「つまり、まだ誰が制限したのかは分からない」
「そうだ」
俺たちは、まず記録に付随する履歴を保存した。
それから、本文を一行ずつ読んでいった。
最初の記録は、今から八百年前の、ある日の午前だった。
――補助冷却系統の第三点検箇所において、通常の冷却流とは異なる魔力の流れを確認。
――流量計の数値に異常なし。
――現場観察では、流れの一部が壁面の内側へ向かっているように見える。
――管理端末の表示と現場の観察結果が一致しない。
俺は思わず、ミレイと顔を見合わせた。
「今の状況と、かなり似ていますね」
「ああ。ただし、同じ現象だとはまだ言えない。現場の線の向きも、当時の測定方法も、正確に照合する必要がある」
次の行には、エドガーの手書きで、こんな補足があった。
――数値が正常であることは、設備が正常である証明にはならない。
俺は、少しだけ口元を緩めた。
「いいことを書くじゃないか」
「ゴトーさんも、よく似たことを言っていますね」
「現場で働いていると、嫌でも覚える。機械が正常と表示していても、変な音がしていたら確認するだろう?」
「はい」
「数字は大事だ。でも、数字だけ見て現場を見なくなると、数字に書かれていない問題を見落とす」
俺は、その一文を調査記録にも引用した。
八百年前の人間が、同じようなことを考えていた。
それだけでも、少し心強かった。
*
次の記録は、三日後のものだった。
――第三点検箇所の再測定を実施。
――異常流の方向は、前回と同じ。
――冷却系統の運転状態に変化なし。
――壁面内側の空間について、旧設計図との照合を申請。
ここまでは、設備点検の記録として自然だった。
問題は、その次だ。
――照合申請は受理された。
――ただし、旧設計図の閲覧権限が停止された。
――停止理由は記載されていない。
「……設計図が見られなくなった?」
ミレイが言った。
「しかも、申請は受理された後に、閲覧権限だけが停止されている」
俺は記録の順番を確認した。
申請が却下されたわけではない。
調査そのものを禁止されたとも書かれていない。
ただ、調査に必要な資料が見られなくなった。
これでは、現場を確認しろと言われても、どこまで調べればいいのか判断できない。
「意図的に調査を妨害したと、断定できますか?」
ミレイの問いに、俺は首を振った。
「まだ無理だ。権限変更の理由が記録されていない。誤操作かもしれないし、別の安全上の理由があった可能性もある。ただ、調査の途中で必要な資料が見られなくなった事実は残る」
「その変更をした人物も、分かっていませんね」
「そうだ。だから、変更履歴が必要になる」
レオンが記録を複写した。
「この時点では、誰が閲覧権限を停止したのか分からない。だが、当時の権限変更記録を探す理由にはなる」
俺はうなずいた。
少しずつだが、調べるべきものが具体的になってきた。
B―七を開ける必要はない。
まず、設計図の閲覧権限がいつ、誰によって変更されたのかを確認すればいい。
それだけで、当時何が起きていたのか、少しは見えてくるはずだ。
*
さらに先へ進むと、エドガーの筆跡は、少しずつ荒くなっていた。
文章の長さも短くなっている。
――監視端末の記録を再確認。
――第三点検箇所の異常流は、記録上、存在しないことになっている。
――しかし、現場では継続して確認できる。
――測定器の故障を疑い、別系統の測定器で確認した。
――結果は同じ。
その下には、別の測定結果が添付されていた。
通常の冷却流を示す線と、異常流を示す線。
二つの線は、最初は同じ方向を向いている。
だが、第三点検箇所を過ぎたところで、異常流だけが壁面の内側へ向かっていた。
ミレイが図を拡大した。
「この図が正しければ、異常流は冷却系統の外側へ向かっています」
「そう見えるな。ただ、壁の内側に何があるのかは、まだ分からない」
「旧設計図が必要ですね」
「ああ。だから、まず閲覧制限の履歴を探す」
俺は、図の下に書かれた補足を読んだ。
――異常流がどこへ向かっているかは、現時点では確認できない。
――ただし、冷却系統の正常な流れとは一致しない。
――この状態で運転を続けることの安全性は、未確認である。
ここでも、エドガーは断定を避けていた。
異常流がどこへ向かうのか分からない。
何が原因なのかも分からない。
それでも、正常な流れではないことは確認できた。
だから、停止を申請した。
俺は、その判断の筋道を理解できた。
危険が証明されるまで何もしないのでは遅い場合がある。
一方で、原因が分からないからといって、設備を勝手に止めれば、別の危険を招くこともある。
だからこそ、停止を申請し、専門家の判断を求めたのだろう。
それなのに、記録上は継続指示が出ていた。
何を根拠に、誰が判断したのか。
そこが問題だった。
*
次のページを開いたところで、ミレイが手を止めた。
「ゴトーさん。ここから、通常の点検記録ではなくなっています」
見出しが変わっていた。
管理者との協議記録
記録日は、停止申請を提出する前日だった。
エドガーの手書きによる要約が残されている。
――異常流について、管理者に報告した。
――管理者は、施設の稼働率を維持する必要があると説明した。
――現時点で封印系統への直接的な影響が確認されていないため、調査を継続しながら運転を維持する方針を示した。
俺は、そこで一度読み直した。
「……管理者側の判断にも、理由はあったんだな」
「はい。稼働率が低い状態で、冷却系統を止めることにも危険があったのかもしれません」
ミレイは慎重に答えた。
その通りだ。
俺たちの施設も、現在の稼働率は九パーセント台。
設備を停止すれば、封印への影響が出るかもしれない。
原因不明の異常があっても、停止すること自体が危険なら、運転を続けながら調査するという判断はあり得る。
問題は、その判断が正しかったかどうかではない。
判断に必要な情報が十分にあったのか。
危険の評価が記録されていたのか。
異常が続いた場合の中止条件が決められていたのか。
そして、調査の継続が本当に行われていたのか。
そこを確認しなければ、当時の管理者を一方的に責めることも、正しかったと認めることもできない。
「ゴトーさん」
レオンが言った。
「今の記録では、管理者は稼働率を理由に運転継続を指示している。しかし、調査を続けるという方針も示している。次に確認すべきなのは、その調査が実際に継続されたかどうかだ」
「そうだな」
俺は協議記録を保存した。
そして、次のページを開いた。
そこには、エドガーが後から書き加えたと思われる一文があった。
――調査を継続するという指示は受けた。
――しかし、必要な設計図へのアクセスは停止されたままである。
――調査を継続するために必要な手段が与えられていない。
俺は、深く息を吐いた。
これだ。
運転を維持しながら調査を続けるという判断自体は、間違いとは限らない。
しかし、調査を続けろと言いながら、調査に必要な資料を見られない状態を放置したのなら、話は変わってくる。
意図的だったかどうかは、まだ分からない。
だが、少なくとも記録の上では、指示と実行条件が食い違っている。
「……これは、管理局にも見せる必要があるな」
俺は言った。
「ただし、原文をそのまま保存したうえで、解釈は別紙にする。記録そのものに、俺たちの推測を書き込まない」
ミレイがうなずいた。
「事実と意見を分けるんですね」
「そう。後から別の人が読んでも、何が原文で、何が俺たちの考えなのか分かるようにする」
レオンも賛成した。
「その形なら、監察局でも独立して検証できる」
俺は、記録の複写を準備した。
八百年前の書類を、今の人間が読む。
その際に一番やってはいけないのは、今の自分たちの考えを、昔の人間の記録に混ぜてしまうことだ。
それは調査ではない。
答えを先に決めて、証拠を並べる作業になってしまう。
*
原文の最後には、短い追記があった。
日付は、停止申請を提出した当日。
――本日、補助冷却系統の異常流について、再度の確認を実施する予定だった。
――しかし、点検作業の開始前に、管理者権限による作業区域の制限が実行された。
――制限理由は、記録されていない。
――現場への立ち入りは許可されていない。
そして、最後の一行。
――私は、まだ確認していないものを、確認済みとして報告することはできない。
その下には、エドガーの署名があった。
それ以上の文章はなかった。
俺は、しばらくその署名を見つめていた。
エドガーが、どんな気持ちでこの文章を書いたのかは分からない。
怒っていたのか。
恐れていたのか。
それとも、ただ淡々と、自分の仕事を記録していたのか。
分からないことを、勝手に補うつもりはなかった。
ただ、この一文には、彼が何を大切にしていたのかが表れているように思えた。
確認していないものを、確認済みとは書かない。
当たり前のことだ。
だが、職場では、その当たり前を守るのが難しい場面がある。
上から急かされる。
期限が迫る。
設備を動かさなければならない。
誰かが「問題ないことにしておいてくれ」と言う。
そういうときに、確認していないものを確認済みと書かない。
それは、簡単そうでいて、案外難しい。
「……エドガーさんは、最後まで記録を残していたんですね」
ミレイが言った。
「ああ。少なくとも、ここに残っている記録ではな」
俺は画面を閉じる前に、最後の一文をもう一度確認した。
そして、原文の複写を保存した。
これで、エドガーの手書き記録から分かったことは増えた。
彼は第三点検箇所で異常流を確認した。
測定器を変えても、結果は同じだった。
必要な設計図へのアクセスが停止された。
管理者は稼働率を理由に運転継続を指示したが、調査に必要な条件は整っていなかった。
その後、作業区域への立ち入りが制限された。
ただし、誰が権限を変更したのか、なぜ変更したのか、そしてその後に何が起きたのかは、まだ分からない。
俺は、その一覧を関係者に共有した。
それから、明日の作業予定を更新した。
第一項目は、第三点検箇所の現地確認。
第二項目は、旧設計図の閲覧制限履歴の調査。
第三項目は、当時の管理者権限による作業区域制限の記録確認。
B―七の開放は、まだ予定に入れない。
最後に、俺自身の給与審査についても、管理局への照会事項に追加した。
エドガーの報酬停止が、特別業務の未完了と関係しているなら、俺の給与審査が止まっている理由にもつながる可能性がある。
ただし、そこもまだ仮説だ。
給与担当には、確認できた記録を添えて問い合わせる。
未確定の情報だけで、相手を責めるような文面にはしない。
……八百年前の同僚に、ここまで丁寧な仕事を教わるとは思わなかった。
俺は管理者室の扉を開けた。
廊下の先では、黒竜が静かに待っていた。
その向こうには、封印された魔王の心臓がある。
冷却系統の異常と、エドガーの停止申請。
どこかでつながっている可能性はある。
しかし、まだ確定したわけではない。
今は、一つずつ確認するしかない。
八百年前に残された記録を、八百一年目の管理者が読む。
俺にできるのは、その記録を勝手に書き換えず、分からないことを分からないまま残し、次の確認につなげることだ。
そして、何より。
「……今度こそ、未完了の書類を増やしすぎないようにしないとな」
そうつぶやいた瞬間、端末から通知音が鳴った。
画面には、王立封印監察局からの新着連絡。
件名は、こうだった。
「第七百九十九管理年度・管理者権限変更履歴について」
俺は扉を閉め、もう一度席に戻った。
どうやら、八百年前の仕事は、まだ終わらせてくれないらしい。
おっさんの処世術
数字が正常でも、現場の異常を無視しない。 数値と観察結果が食い違うなら、両方を記録して原因を調べる。
調査を命じるなら、調査に必要な手段も確保する。 資料へのアクセスを止めたまま「調べろ」と言っても、仕事は進まない。
昔の判断を、今の常識だけで裁かない。 当時の制約やリスクを確認したうえで、判断の妥当性を検証する。
原文と解釈は分けて残す。 後から読む人が、事実と推測を混同しないためだ。
確認していないものを、確認済みとは書かない。 急かされても、この線だけは越えない。




