4-10
昼の通りは日が高い。
両側の店が軒を張り出して、その下だけ影になっている。ボクは影を選んで歩いた。革屋の前で鞣し油の匂いがして、次の角で甘くなる。
ここか。
間口の狭い店だった。表の台に小瓶が並び、奥の棚には栓をした壺がぎっしり詰まっている。店番の女は帳面に頬杖をついたまま顔を上げた。客はボク一人。
「セレムを使った香油ってある?」
女の目がボクの顔で止まり、それから棚へ動いた。
抜きかけた栓を戻して、隣の瓶を取る。
「贈り物かい?」
「自分で使うんだけど」
「だったらこっちだね。男の子には少し重たいから」
差し出された木片を鼻へ近づけた。
甘い。熟した果物を蜂蜜に漬けたような匂いだ。嫌いじゃないけど、これをつけて歩いたら腹が減りそうだ。
「そっちも嗅いでいい?」
「もちろん。好みだからね」
工房に踏み込んだ翌日のことだ。
ボクの昼間は空いたので、買い物がてら気になっていた香りを探すことにした。
あの部屋では埃と汗に混じっていた。もう少しましな場所で嗅げば、案外好みかもしれない。その程度の用事だ。
今夜はティリスの予約がある。のんびりしていても間に合う。
削った木の内側みたいな乾いた匂いがする。鼻の奥に引っかかって、離すと薄く残った。
あ、これそっくりかも。
ただ、あの部屋のものより尖っている。あれはもっと柔らかくて、長く嗅いでいたくなる感じだった。
「これがセレム?」
「セレムを主に使ったものだよ。木だけじゃこんなふうにはならないからね」
「もう少し柔らかいのはある? 甘いのを増やすんじゃなくて」
「柔らかいねえ。花を足したのならあるけど」
三本目も悪くない。けど違う。
首を捻っていると、女が面白そうに肘をついた。
「誰かがつけてたのかい」
「うん。ちょっと気に入って」
「その人に聞くのが一番早いよ」
「会えたら聞くんだけどね」
顔も知らないし、会えたとして香水の話から始められる間柄でもない。
女は別の意味に取ったらしい。少し声を落とした。
「忘れられない匂いってあるからねえ」
「そこまでの話じゃないよ」
「はいはい」
分かってないな、この人。
訂正するほど面倒になりそうなので木片を返した。女は栓を閉めながら続けた。
「うちにあるのはこれだけ。もっと選びたいならカナリア商会で聞いてみな」
「カナリア商会?」
「西門の近くの大きな商会だよ。うちも香料はあそこから仕入れてる。出来合いの香水も持ってくるけど、値が張るからここには置いてなくてね」
「普通に行って買える?」
「会員さんだけだけど、香料の問い合わせくらいは聞いてくれるかもねぇ。小瓶を一本売るかは向こう次第だね」
女が顎で外を示した。西へ行って水盤の辻を曲がれば、門柱に鳥がいるらしい。
近いな。聞くだけ聞いてみるか。
◇
門柱の鳥は嘴に輪をくわえていた。
その奥に低い階段と両開きの扉。脇に荷車が止まり、女たちが布をかけた木箱を裏へ運んでいる。
扉の脇に護衛が一人いた。ボクが階段に足を掛けると、目がブーツから顔まで上がって、また下りた。
「ご用件は」
「香料のことで聞きたいんだけど。セレムを使った香水を探してて」
「当商会は会員の方と、ご紹介のあるお客様だけをお通ししております」
紹介制か……。なんか店構えからそんな気はしてたけど。香油屋の女の「聞いてみな」を紹介と呼ぶのは無理があるな。
「一本買えるかどうか聞けないかな」
「お引き取りください」
目はもう荷車の方を見ている。
なるほど。
黒いコートに、昼間に一人でふらっと来る客は相手にしないらしい。仕方ない。ボクだってこの格好で上流階級には見えない。
階段を下りた。
辻まで戻ったところで後ろから呼ばれた。
「お客様。お待ちください」
先ほどの女が階段を駆け下りてくる。
息を整えて頭を下げる。
「大変失礼いたしました。主人がお会いになりたいと申しております」
「……いいの? さっき断られたんだけど」
「香料でしたら主が直に見繕いますので」
ボクは商館の窓を見た。花の向こうに人影はない。
断ってから呼び戻す。気が変わったのだろうか。
まあいいや。値段を聞くだけだからな。
「じゃあ、お願いしようかな」
入ってすぐ、磨かれた床にブーツが映った。
靴の泥を落としてきてよかった。
女は立ち止まらずに廊下へ進んだ。階段は右。外の護衛は硝子越しに見える。人は他にいない。
左の扉が開けられた。
「こちらでお待ちください。すぐ参ります」
低い卓と肘掛け椅子が二脚。
どれも高そうな調度品が揃っている。
勧められた椅子を少し引いて座る。
門前払いから応接室まで、ずいぶん忙しい店だ。
向かいの扉が開いた。
絹の服に薄い毛皮を掛けた女が入ってくる。手には閉じた扇。
甘い匂いが先に届いた。乾いた木の匂いがそのあとに来る。
「お待たせいたしましたわ。こちらの主をしております。イシュタルと申しますわ」
「お手間取らせて申し訳ありません。ユーニです。ちょっと変わった香水を探してまして」
「ええ。セレムをお求めだとか」
イシュタルは扇を開いて口元を隠した。目だけがボクの顔を見ている。髪、目、それから襟へ下りた。
「その香り、あなたがつけてるやつ?」
「あら。お分かりになりまして?」
「探してたのに近い。木の匂いのあとに丸いのが残るやつ」
「わたくしのために調合させておりますわ。市井には出しておりませんの」
なるほど。
「一本、売ってもらえたりする?」
「ふふ。ええ勿論。お話は、まずあなたのことからですわ」
イシュタルが扇を閉じた。
その先でボクの顔を軽く指す。
「少し、そちらの窓の方を向いていただけます?」
「……何で?」
「光の入り方ですわ。左目の下の黒子が影に入ってはもったいないですもの」
言われたとおりには向かなかった。
妙な客あしらいだな。
香水の話をしに来て、黒子の話をするとは。
いや、主人の気まぐれというやつなのだろうか。
「立ち姿も拝見したいですわ。背はお幾つ? 髪は染めてらっしゃらないわね……素敵なお色ですこと」
「香水の話は?」
「しておりますわ。作品に合う香りを選ぶには、作品を知らなくては」
……作品?
イシュタルは扇を膝に置いて両手を組んだ。頬が上気している。
「ええ、ええ。思ったとおりですわ。遠目に拝見したときから欲しいと思っておりましたけれど、近くで見るとなおのことですわ。ああ、こんな方を薄暗いところに置いておくなんて」
背中が冷えるのを感じる。
……そういえば、聞き覚えのある声だ。
矢が上階へ消えた直後、窓の奥で聞こえた声を思い出す。
イシュタルは扇で口元を隠したまま、ボクを見ている。返事がないことに向こうも気づいたらしい。
外で荷車が動く音がした。
弓は左手にある。ナイフはブーツと懐に二本ずつ。ワイヤー・煙玉はいつも通り完備。
外に護衛、廊下にあの女、裏に荷運びの女たち。
帰ろう。
……帰れるだろうか?
「……話が通じないみたいだな。客として来たんだけど、どうやらボクみたいな客はお呼びじゃなかったようだね」
腰を上げた。
「あら。もっとゆっくりしてらして」
背後の扉が開いた。
大剣を腰に下げた女が一人、扉を塞ぐように現れる。向かいの扉からも一人、イシュタルの椅子の後ろに立った。
窓まで二歩。幕ごと破って脇道へ出れば、荷車の陰まで走れる。
閃光弾で目を潰して、それから窓を破って外に出て――。
右手をコートの内側へ入れるや、手首を掴まれた。
「今日は使わせませんよ」
――まったく気配が読めなかった。
黒い袖。手袋をはめた指が手首に食い込んでいる。冷たい顔の女がボクの隣に立っていた。いつ入ってきたのか。扉の音も足音も聞いていない。
……これは、ちょっとまずいな。
「弓もお預かりしてからお話ししますわ」
後ろに立った女が腕を組んだ。丸太みたいな腕だ。どこかで見た顔だと思ったら、ティリスを腕相撲で負かした女だった。
「なあ。あんたの仕事に文句つけるわけじゃねぇけどよ。店の客を攫うってのは聞いてねえぞ」
ボクの頭越しにイシュタルへ言っている。
本人の前で始めるのか。捕まえた男の耳は気にしないらしい。
「運び込んだのではありませんわ。いらしたのですもの」
「昨日の今日で、こいつが自分から来るか?」
顎でボクを指した。
「ギルドの手が回ってんなら殺しとくべきだ」
「まあ。ギルドの用件でいらしたのなら、こんなものでは済みませんわ」
イシュタルは扇で自分を扇いだ。
「戸を蹴破って、剣を抜いた者が二十人。そういうものでしょう? お一人で香水をお求めになったりはしませんわ」
「じゃあ何しに来たんだよ」
香水を買いに来たんだよ。
言っても信じないだろうから黙っていた。
「確証はございませんもの。ご本人に、ゆっくり伺いましょう」
扇の先がこちらを向いた。
顎先、胸元、臍を指し、そのまま下に――。
今夜はティリスの予約があるんだけどな。
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