12 取引
魔王が問いかけてくる。黒い瞳が俺をじっと見つめている。
「私を倒しにきたことはわかっている。だが倒してどうしようというのだ?」
「グレイスを元の世界に帰したい。それが目的だ」
魔王を倒したら俺はグレイスと一緒に元の世界へ戻る。それ以外に望みはなにもなかった。
指先で自分の頬を撫でながら魔王はなにやら考えているようだった。
「てっきり私を倒しておまえが魔王になることを望んでいると思ったよ。ふうむ。それなら倒すよりも、私にお願いせねばならんだろう。跪いて頼むことだな」
この異世界へ来てあの部屋で魔王の肖像画を見たとき、この俺が勝てるのだろうかという気持ちがあった。不思議なことに、いま、そういう気持ちは湧いてこない。
「頼む? 俺は自分の手で奪い返すために来たんだ」
剣の柄に親指が触れる。
「オリバー、まだ早いぞ――」
さっと鞘から抜いて構える。剣の重みが手に伝わってくる。
「おまえが勝てばグレイスは人間の世界へ戻る。なるほど。それもよかろう。私が倒れたあとなんだろ? どうなろうと知ったことではない。好きなようにするがいい」
ならばと思い、俺は剣を握る手に力をこめた。一段と剣が重みを増す。
「しかしオリバー。もしもお前が倒れたら? どうなるのだ? 私には何も得るものはないだろう? 無駄に力を使うだけなら、なにもしないほうがましだな」
魔王の指に嵌められているいくつもの指輪がきらりきらりと光っている。
「私はここから気持ちひとつでどこへでも行ける。おまえが決して追いかけてくることのできない、そういう場所にだって行けるんだ。オリバー。おまえがオリバーだからこそ私はこうして話をしている。そうでなければとっくにここにはいないさ」
手のひらを見せた両手をあげて魔王が顔をしかめた。
構えていた剣をおろす。鞘には戻さず柄を握ったまま、考える。
「さあ、どうするのだ?」
「もしも俺が倒れたら――」
「おお。何か私には楽しいことでも起こるのか?」
うれしそうに魔王が目を細めた。
俺が倒れたらグレイスはどうなるのだろう。この魔王と生きていくのか。いやそんなことはありえない。
「俺が倒れたら――なんてことは考えていない。ここへ来て、なによりもまず先に、サミュエルを倒した。俺が倒したかったからだ。やつを倒さなければならないと決めて、そうした。次はおまえだ。おまえを倒さなければグレイスを取り戻すことはできない。だからここへ来た。それだけだ」
あからさまに魔王がぶすりとした表情になる。
「私の益になることはないということだな」
それから魔王はふと何かを思い起こしたような顔をした。
「……サミュエルか。サミュエル。あれは私に忠実な男だった。だがな。あれが倒されたと知ったとき、私は、重しが取れたように晴れ晴れとした気分になった。私のためによく働いてくれた。あらゆる面で忠誠心が強い。しかしそれが仇となった。――この話は長くなる。それでも聞きたいか」
「ああ。聞きたい」
「なるべく手短に話そう」
そう言って両手をすり合わせ、「あれはいつのことだったか」と魔王は遠くへ目をやった。
「サミュエルはある時期から、グレイスはほんとうはグレイスではないと、よくわからないことを言いだした」
ちらっと俺を見て、魔王が話をつづける。
「私はまともに聞かなかったよ。あまりにもばからしい話だったからね。ところがあの男は頑強に言い張った。グレイス様はもとのグレイス様ではございません、転生してきた者がグレイス様のお体に入ったのでございます――とな」
椅子から立ち上がり、魔王が階段をおりてくる。
「どういうわけか、あの男は私にはバレていないと思っていたようだが」
テーブルの上には蝋燭のほかに陶器の皿が載っている。他にはなにもない。皿には色とりどりの小さな菓子らしきものが入っていた。そのひとつを魔王が手に取った。
「私には全部わかっていた」
そっと菓子を口に入れて、魔王がこちらを見る。菓子を味わうように口を動かし、食べてしまうと、言葉をつづけた。
「秘密を抱えて、さぞやあの男も苦しんでいたことだろう。うむ。おまえに倒されたことでやっと安らぎを得たのかもしれん。おまえは良いことをしたよ、オリバー」
魔王は俺のそばにあった長椅子を目で示した。
「座ったらどうかね? 喉も乾いているだろう。これを飲むがいい。剣を握ったままでも構わんよ」
「いや、いい。話をつづけてくれ」
テーブルの上には丸味をおびたフォルムのグラスが浮かんでいる。一瞬前に現れたときから、グラスのなかにはピンク色の液体が入っていた。
「そうかね? 毒など入ってないぞ」
グラスはかき消えた。
椅子をひいて魔王はそこへどさりと座った。テーブルの上に足を投げ出し、両手は腹の上で組んでいる。
「サミュエルはグレイスに惚れていた。ふたりは恋仲だった」
予想もしていなかった言葉にあぜんとする。想像もできない。
「それを……あんたは黙ってみていたのか」
魔王は唇を歪めた。
「やっかいなことにな、サミュエルはそういう意味でも忠実な男だった。グレイスに想いを寄せていたことは確実だ。だがサミュエルは不名誉なことは一切しなかった。どうにも解せないことだがね。グレイスのほうもサミュエルを好いていたようだ」
言いながら、苦々しそうな表情を浮かべている。
「そしてグレイスは、自分がサミュエルに対して、一切魔法を使いたくないという魔法を自分に掛けた」
人差し指を斜めに振って、魔王が眉を動かす。
「これは、無意識レベルでな」
ふうと魔王が深いため息をついた。
「どういう魔法なんだ……」
「つまりだ。グレイス自身は自分がそんな魔法を自分に掛けたとは思ってもいない。だが無意識の領域では強力な魔法を掛けたわけだ。たとえどんなことがあったとしても、サミュエルに対してだけはあれは魔力を使わん。いや。使わないのではない」
腹の上で組んだ手の親指を動かしながら、魔王は言葉を探しているようだった。
「そもそも使う気が湧いてこない。使うという発想そのものが意識の縁までのぼってくることさえない。だから結果として魔力を使えない。そういう魔法だったのだ」
サミュエルがあのマンションの通路へやってきたときに、グレイスはどうして自分の力で追い払わなかったのだろうと俺はずっと不思議に思っていた。
その疑問がやっと氷解した。
魔法の威力は、転生した江里花の魂が入ってきてもなお、持続していたということなのだろう。グレイスの体に残存機能のような、どこかにそういう作用が残っていたのか。だから魔力を使わなかった。
「まあこれに気づいたときはちょっと驚いた。幸いなことに、グレイスのサミュエルへの気持ちはある時期からすっかり冷めた。完全になくなった」
魔王がいったん口をつぐみ、腕を伸ばして菓子をもうひとつ手に掴んだ。
「グレイスの心が変わったことにサミュエルは大きなショックを受けたようだ。そのせいであれは私に対して、うるさく進言してくるようになってしまった。グレイスはグレイスではないとな。哀れといえば哀れだ」
顔を動かして魔王が俺を見る。
「わかるだろ? あれがいなくなって私がむしろ清々しい気持ちになったわけが――」
そして俺の返事を待たずにつづけ、笑みを浮かべた。
「――さあ。ではおまえを倒しても、私には何の益もないということでいいのだな?」
唾を飲み込む。一瞬だけ考えた。
剣の柄を片手で握っている。その手に一層ぎゅっと力をこめる。柄が仄かに熱を帯びてきているようだった。気のせいだろうか。
「俺が倒れたらそのときには――」
手のひらが温かい。いや熱い。
「グレイスの魂をグレイスの体に戻す。江里花の魂は人間の体に戻す」
この言葉を聞いて、魔王が、テーブルに投げ出していた足をさっと勢いよく下ろした。無表情だ。
だが魔王の黒い瞳からは何か意志的なものが発せられている。
怒りや悲しみとはちがう、激しく強い何かが感じられる。
「グレイスはずっとグレイスのままだ」
そう魔王が言った。
だがグレイスが亡くなったことを魔王は知っているはずだった。
オリバーが亡くなったこともサミュエルが亡くなったことも、魔王は感知していたのだから。
だから俺は確信した。
魔王が心底欲しがっているのは本当のグレイスの魂だ。
「オリバー。おまえは知らないからそんなことを言っている。グレイスの魂がどこにあるのか、知らないだろう」
「死神が持っている」
即座に答える。そして自分が答えたことに驚く。譫言を喋っているみたいだった。
握っている剣の柄がさらに熱くなっている。
身をまっすぐに起こして椅子に座った魔王は、テーブルに肘をついている。
「私は一度だけ死神に会ったことがある」
瞬きひとつせずに魔王は俺を見ている。
「……二度と会いたいとは思わん」
手のひらが熱い。心地よい熱さだった。体全体がぽかぽかと温まってくる。だんだん熱くなる。
「俺を倒せば、グレイスの魂が手に入るぞ。死神に会わずとも手に入る」
言葉がひとりでに口をついて出た。
魔王が椅子から立ち上がった。




